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一歩前ヘススム 第1話

 春はなにかと忙しい季節だ。年度が替わって社内も慌ただしくなるし、不慣れな新入社員たちがあれこれと問題を持ち込んで、そのフォローにも追われる。  しかしいまの部署に異動して三年目の雅之には、もうすっかり慣れた業務だった。 「すみません。社員証にひびが入って」 「社食の自販機が動かないけど、どうなってるの?」 「悪い、このあいだ会議室予約したんだけど。変更できなくなってるからなんとかして」 「ちょっとこれ、早急にまとめて欲しいんだけど」 「一人ずつ対応するので順番に待っててください」  総務部は何でも屋だと称する者がいるが、確かにその通りだ。困ったことがあればまずみんなここへ駆け込んでくる。  パソコンスキルも必要な部署ではあるが、一番必要なのはコミュニケーション能力だろう。  その点において雅之は優れていた。性格は穏やかで、忙しくてもカリカリせず、どんな時でも丁寧に応対をしてくれる。頭の回転もよく、仕事には正確性があった。  それに加え、見た目もまた清潔感があり、優しげな風貌で親しみがある。にこにこと笑みを浮かべられれば、急いていた気持ちもなだめすかされた。  実際のところ、高遠さんにお願いすればなんとかなる、と言っている社員も少なくない。  けれど何でも屋のシャッターは定時時刻ぴったりに閉まる。今日も時刻の五分前に素早く対応を終わらせ、十八時ちょうどに雅之は退勤記録を付けた。 「それじゃあ、また来週」 「高遠さん、お疲れさま」 「お疲れさまです」  デスクの上を綺麗さっぱり片付けると、パソコンを落として鞄を掴む。すると同僚たちは皆にこやかに挨拶を返してくれた。 「最近、高遠さんは週末になるとご機嫌ですね」 「確かに、なにかあるんですか?」 「ああ、いいこと、ですかね」  仕事が終わった途端に気分が上がったのは、自分でも気づいていた。それでもそこまでわかりやすかったかと、緩んだであろう顔を引き締める。  そして雅之はにっこりと笑みを浮かべて、集まる期待をやり過ごした。 「息子のお迎えがあるので、僕はこれで」  週末にいいこと、なんて想像が容易い。きっとみんなの頭には『恋人』の文字が浮かんでいるのだろう。女子社員が聞いたら悲鳴を上げそうな事態だ。  バツイチ子持ちというマイナス点はあったとしても、雅之は優良物件だった。  まだ三十二と年若く、顔良し、性格良し、安定収入に持ち家あり。社内でもよく噂に上がっている。  けれど当人はそういったことには疎く、あまり関心がないので、耳に入っても右から左へ通り抜けていた。  そもそもいまは、同僚たちの予想どおり『恋人』に夢中で、耳に届いていないと言ってもいい。  踏みだす足取りも軽くて、鼻歌でも飛び出しそうな気分になっていた。  会社から電車で三十分と少し――自宅の最寄りでもある駅で降りて、一番に向かうのは愛息の待つひびきの保育園。お迎えのママさんたちと挨拶を交わしてから、玄関の戸を開いた。 「こんばんはぁ、高遠です」 「はいはーい」  しばらくそこで待てば、奥から男性の声が聞こえてきた。そしてすぐにトタトタと足音を立てて園児が駆けてくる。一直線に向かってきた彼は、両手を伸ばして瞳をキラキラさせた。  大きな瞳に雅之譲りのくせ毛の黒髪。  愛らしいその顔は女の子に間違えられることもあるが、利発で元気な男の子。もうすぐ四歳になる雅之の愛息、希だ。 「まさっ」 「希、いい子にしてたか?」 「のぞ、いい子だよ!」 「よしよし、いい子だ、偉い偉い」  褒められるのを待っている、息子の頭をぐりぐりと撫でて、きゃっきゃと笑う彼を抱き上げる。ぎゅうっと両手で抱きついてくる希に雅之は相好を崩した。  希が生まれるまでは、さほど子供好きというわけではなかったが、いまでは目に入れても痛くないほど、可愛いと思っている。  少しばかり甘やかしすぎて、おねだりが多いこともあるけれど、それも大して気にしていない。 「希くん、忘れ物だよ」  一生懸命に、今日の出来事を報告する希の話を聞いていると、先ほど聞こえた声の持ち主がやってくる。  高身長な雅之よりも背が高く大柄で、日に焼けた肌と相まってクマのように見える人だ。  それでも顔立ちが優しくて、笑った顔はお日様のように明るい。その人は手に希のバッグと絵本を持っていた。 「これパパに買ってもらったばかりのご本だろう」 「それのぞの!」 「はい、パパに渡しておくからね。高遠さん、今日もお疲れさまです」 「園長先生、いつもありがとうございます」  差し出されたバッグと絵本を受け取り、頭を下げると、彼――響木義昭は希の頭を撫でて、希くんはいつもいい子だよね、と笑った。 「来週もまたよろしくお願いします」 「はい、また来週。お待ちしてますよ。希くんまたね」 「ほら、希、バイバイだよ」  ひらひらと手を振られて、もう一度会釈を返すと、雅之はそのまま踵を返そうとした。しかしその前に、ネクタイを思いきり引っ張られる。  ぎゅっと締まるそれに、慌てて小さな手を掴めば、先ほどまで笑っていた希が頬を膨らませていた。 「あっくんは?」 「……あっくんは、忙しいから」 「やだやだ、のぞはあっくんと帰る!」 「ほら、その、また今度」  やーやーとむくれた希は、腕の中でジタバタとする。あっくんこと響木淳は義昭の一人息子で、ここの保育士だ。  希の一番のお気に入りで、お願いをしてよく一緒に家に来てもらっていた。  しかし春先はどこも忙しい。いつもより仕事の遅い親たちを待つ子供たちで手一杯なのだろう。  毎週のように一緒に帰ってくれていたが、息子の我がままばかりを聞いてもらうのは無理がある。 「希、我がままは言わない」 「やぁ、あっくんっ」 「すみませんね。いま別の子で手が離せなくて」 「いえ、いいんです。ちょっとうちの子が我がままが過ぎるだけで」 「終わったらすぐに行かせますから」 「え?」  腕の中で、海老反りになりながら暴れる息子をなだめていた雅之は、ふいに囁かれた言葉に時間を止めた。それを飲み込んで頭の中で反芻して、色々な言い訳が瞬時に駆け巡る。 「いえ、わざわざそんな、淳くんも疲れているのに」 「いつもお世話になっててすみませんね」 「えっ?」 「あの子も毎週楽しみにしてるんですよ。週末になるとウキウキして」  なにやら話が噛み合っていないように感じる。声を上擦らせた雅之に、にこにこと笑う義昭の顔から真意を読み取るのは難しい。  それでもなにか失敗してはいけないと、また様々な言葉が頭の中でぐるぐるとした。それなのにそんな言葉も、消し飛ぶようなことを言われる。 「いやぁ、ずっとあの子が片想いしている様子だったので、ありがたい。まさか実るとは私も思っていなかったので」 「ええっ?」  あっけらかんと笑ったその人の言葉に、雅之の心臓はきゅっと鷲掴まれたような心地になった。  あの子――淳とは、五ヶ月前から確かに付き合っている。しかしいままでこっそりと、誰にもわからないように付き合っていたはずだ。  それがどうして父親にバレているのか。考えがまとまらず視線をさ迷わせたら、軽快な笑い声が響いた。 「高遠さん。息子のこと、よろしく頼みますね」  笑い返す唇が引きつるような感覚がしたけれど、頭を下げられてハッとする。思いがけず知られていたが、反対や嫌悪どころか、好意的でしかない。  息子の片想いを知るくらいなのだから、彼の性癖を知っていたのだろう。  だとしてもまっさらな経歴とは言えない男に、頭を下げてくれる。それをまっすぐに受け止めないわけにはいかない。 「……はい、もちろんです」 「高遠さんなら安心ですよ」  朗らかに笑う顔を見て少しほっとした。だがそんなにわかりやすく態度に出ていただろうかと、首をひねらずにはいられない。  付き合う前とあと、あえて日常に変化を持たせないようにしていた。  手が空いた時にだけ、家に来てもらうようにしていたし、淳も週末の仕事終わりにいつも家に来ることは、きっと公言していないはずだ。  ではどこから?  そう考えて、ふくれっ面を極めている息子に視線を落とす。そしてそれとともに雅之は重たいため息を吐いた。子供の口にはどうしたって戸は立てられないものだ。

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