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噴水の天使と、セックスのオーバードース
序章 噴水の天使と、セックスのオーバードース
抗不安剤の依存症?もう薬は出せない?ふざけんじゃねえ!ってケンカして、病院を飛び出した。誰も追っては来なかった。ドクター澤村。俺が中学生の時から知っている。あの頃はまだ研修医だった。俺は、抗不安剤を飲んでる時だけ、正気になれる。1日中キャンディーみたいに舐めてたら、依存症になるに決まってるよな。大きな病院で、内科や外科や、全部あって、正面玄関を出た所に、バカみたいに金のかかった噴水があって、天使の彫刻なんかも立ってて、病院で死んだ人にお祈りしてくれる。噴水は水の勢いが強くてバシャバシャ大きな音を立てるほどで、その割には水は深くなくて、今5月で今日は曇りで、でも俺はそんなことどうでもよかったから、噴水の水の中に入って行った。周りにぐるっと花がたくさん植えてあって、その罪のなさに腹が立ったからほんとは破壊してやりたかったけど止めて、病院に来た小さな男の子が俺の方を指差して、でもお母さんは気が付かない。身体も顔も完全に水に沈んだ。水の中に横たわったって、手を胸の上で組んだ。水の流れに髪が泳ぐ。体温が水に溶け出て、動けなくなって、俺は目をつぶる。天使の足元で。問題行動。死にはしないよ。だって時々水面に出て息をしてる。人が集まって来て、入口にいた警備員が呼ばれて、俺は水の中から引きずり出された。
「なにしてんだ君!死にたいのか?」
面倒くさいから、ずーっと黙っていた。名前は?なにしにこの病院に来たの?ジーンズのポケットを探られて、診察券が盗られた。
「ドクター澤村。精神科ね。」
柔道でもやってみたいな大柄な警備員で、俺を抱えて引きずって行く。俺の方が背は高いけど、痩せ過ぎだから逃げるのは無理。それでも俺は狂人らしく抵抗して、それまで黙秘権を行使していた割には、できる限りの大声でわめく。絶対にあそこへは戻らない。ドクターに会いたくない。じゃあなんであんなことしたの?水の中に横たわって。あそこに戻されんの分かってんのに。でも水に入った時はそこまで考えてなかった。ただ問題を起こそうと思っただけ。
「お前はもう高校生じゃないんだぞ。」
俺は反抗的に目をそらす。ふつふつと湧き上がるドクターの静かな怒り。俺の肩まである髪の毛からポタポタ水滴が落ちて、床に水溜りができる。
「どっちみち、入院はさせるつもりだったから。」
ドクター、まだ若いくせに、わざと老けて見えるようなメガネかけたりして、威厳を保とうとしている。
「これだけ依存症になったら、離脱症状が出るはずだから。」
警備員はまだ俺の腕をつかんで離さない。俺も隙あらば逃げる体勢でいる。
「最後に飲んだのはいつだ?」
俺が黙ってるんで、警備員が俺の背中をどつく。俺は大袈裟に倒れるマネをする。
「3日前。」
「じゃあもう始まってるな。行動に出てる。」
そうなのか?そうかもしれない。抗不安剤が切れると、所謂、離脱症状が始まって、色んな騒ぎになる。普通、わざわざ噴水に浸かったりしないもんな。俺の場合、不安は自分自身に向かう。自傷行為や自殺未遂。他人を傷つけようと思ったことはない。必要に迫られない限り。俺は不意を突いて警備員の足を思いっ切り踏みつけて、廊下の方へ走る。びしょ濡れの服でどんなに頑張って逃げてもすぐ捕まるの分かってるけど。それでもなにか問題を起こしたい。離脱症状。捕まって、暴れて、わめいて、押さえつけられて、なにか注射されて、気が付いたらベッドに寝かされてる。鍵のかかる個室。閉じ込められた。こんな所にはいられない。不安感が増す。息が苦しい。ナースコールがあるのに俺はわざとドアを叩く。問題行動。屈強な看護師がやって来る。
「俺はこんな所にはいられない!」
ドアを叩きながらヒステリックに叫ぶ。
「なんでだ?」
「胸が痛い。息が苦しい。」
離脱症状。こんな所でひとりで置かれたら。死の恐怖。看護師がカギを開ける音。
「暴れるなよ。暴れるとこの部屋に隔離されることになるから。」
俺は悔しくて涙が出そうになる。全部自分で蒔いた種。
朝起こされると、看護師が俺の腕に血圧計を巻いている。一瞬冷っとする。
「血圧高いですね。ドクターに伝えますから。」
同じ看護師が戻って来て、抗不安剤の半分に割ったヤツをくれる。離脱症状を緩和させるために少しだけ。
「もっともらえないですか?」
俺は必死な顔をする。演技ではない。
「これからどんどん減らしていくから。」
数日前まで1日に10錠以上飲んでた。でも半分でも飲むと、不安感が薄れる。少し正気に戻ったような気がする。そこへ、ドクター澤村が、若い研修医をゾロゾロ連れて俺の病室に入って来る。挨拶も抜きで、
「次の患者は、白川玲真。20才。抗不安剤の依存症で、薬を急に止めた時に出る、離脱症状が始まっている。血圧の上昇。胸の痛み・・・」
研修医の中に真面目じゃないのが数人いて、つつき合ったり、ニヤニヤしてたり。俺はそのニヤニヤしてるヤツに向かって、枕を投げつけて、
「みせもんじゃねえぞ!!」
ドクターが続けて、
「・・・苛立ち。焦燥感。」
ソイツ等はまたゾロゾロ部屋を出て行く。俺は病室をウロウロ歩き回る。4人部屋。中年のオヤジがふたり。俺くらいの男がひとり。若いのは表情がないから、多分ウツ病。オヤジ達は知らないけど、アルコール依存症かなんか。もっと面白そうな物はないかと、俺は病棟をウロウロし始める。ここにはもう何度も入院してる。落ち着きのないのも離脱症状。俺は1日中こうやって歩き回るのか?耐えられない。
ナースステーションに行こうとして、その男を見た。完璧なビジネスマンスーツとヘアカット。見てくれのいい、多分30前くらい。そこにいたナース達は、その男を見てみんな笑顔になり、しばし談笑して、男はそこを離れる。営業向きの男。ナース達の心をつかんでる。大きなバッグの他に、小さ目のキャリーバッグを転がしている。俺の経験だと、あれは製薬会社の営業。俺はあとをつける。男はドクターのいる部屋に入って行く。持っている大きなバッグは部屋の中だが、キャリーバッグは部屋と廊下の中間みたいな場所に置き去りにされて、ドクターからも男からも見えない位置にある。俺はこっそり近寄って、その金属製の黒い物を抱えて持つ。転がすと大きな音がするのを聞いている。ずっしり重いけど、好奇心の方がずっと勝っている。
トイレの個室に入る。幸いバッグにカギはかかってない。やっぱり。色んな薬のサンプルが入っている。抗うつ剤。これも抗うつ剤。精神安定剤。これはもらっておく。また抗うつ剤。世界にはウツ病の人があふれている。抗精神病薬。これももらっておく。抗不安剤。やっと見付けた!俺のとは違うけど、確か化学構造は近いはず。あるだけその場で全部飲む。数は数えてない。水なしでも大量の薬が飲める。俺の得意技。バッグの中身を全部トイレの床にバラまく。睡眠薬?大量の睡眠薬が出て来る。これだけあれば死にたい時に死ねる。俺は興奮してくる。次のヤツ。この薬は知らない。きっと相当新しい。なんだか知らないけど、これももらっておく。俺はもらっておいた薬を全部箱から出して、上手く服の下に隠して、キャリーバックや床に落ちた薬はそのままにして、自分の部屋に戻った。袋に入れて、マットレスの下に上手く落ちないようにして、もらって来た薬を隠した。問題は、飲んだ抗不安剤の量が多過ぎたこと。そのあと2日間の記憶がない。
目を覚ましたら、腕に点滴が刺してあった。弟が俺の顔をのぞき込んでいる。
「兄ちゃん。」
なにか言おうと思ったけど、口が上手く回らない。弟の後ろに母親の影があった。この弟は母親違いで、今いるのは2度目の母で、俺の父親は病気の俺を恥じていて、俺は金をもらってひとり暮らしで、母親は暴君の父に遠慮して、俺にはあまり会いに来ない。父は成り上がり者だけど、この母は本物のお嬢様で、俺はいつも竹久夢二の絵にあるような幻想的な美女だな、って思ってた。彼女のことは嫌いではない。弟は今高校生で、仲がよくて、時々会う。
「兄ちゃんの心配してもキリがない。」
そこにいたドクターだか看護師だかが、
「もう大丈夫ですよ。」
母と弟はもう夜中過ぎだから、って帰って行った。俺はほんとの母についてはよく知らない。大きなミスコンテストで優勝するくらいの美人だったらしい。俺も物心つく頃から、男の子なのに綺麗な顔してる、とかそんなことを言われた。2度目の母なのに、お母さんにそっくりの美形だって言われた。どうでもいいけど、そんなこと。ほんとの母にもらった唯一の物。せっかく手に入れた死ねるほどの睡眠薬のことが気になって、まだよく喋れないくらいだったら、多分まだ歩けないなって思ったけど、どうしても気になるから、ベッドから降りてみた。そしたらやっぱりそこからは動けなくて、床に座ったままで、そのドクターだか看護師だかに怒られた。
「ここ、どこですか?」
「ここは内科だよ。」
ベッドに戻されて、部屋の電気を消された。この病院は隅々まで知ってるから。内科と精神科はかなり遠い。大分歩けるようにならないと、薬を取りに行けない。また床に落ちて、少しずつ這ってトイレに入った。シンクによじ登って、水を大量に飲んだ。飲みながらも何度も床に崩れ落ちた。身体に力が入らない。頭にあるのはあの睡眠薬のことだけ。他のことはどうでもいい。何時間もトイレで水を飲み続けて、身体の毒を流して、そしてバカみたいにあの薬のことを考えた。でも、こんなことできるのも、優しい母が個室に入れてくれたお陰だって一瞬思って、でも俺はそれを悪いことに使おうとしている。
昼くらいになったら、やっとつかまり立ちくらいできるようになった。内科という所は精神科と大分違う。開放されている。精神科みたいに逃げるヤツがいないから、カギもかかってない。それは俺にとっては好都合で、窓の外を見ながらどうやって精神科までたどり着こうか、ということを考えた。どの棟かは分かってる。病院のメインの建物を通らないといけない。どっちみち身体がよくなったら、精神科に戻されるんだけど、それまで薬があそこにあるとは限らない。どうしても今日中に行きたい。面会時間が終わるまでに病棟に入る。俺のことを知ってる看護師がいないといいけど。っていうか、そういう人はあまりいない。よっぽど新しい人くらい。俺は札付きだから。薬のことしか考えてない。これも一種の不安症状。夕方俺は上手く内科を抜け出した。途中、廊下に車椅子があって、少し借りることにした。車椅子に乗ったことがないから、きっとぎこちなく見えるだろうな、って少し心配になって、車椅子を押して行くことにした。それでも大分歩く速さが違う。メインのエントランス。まだ落ちきれない太陽が眩しい。大きな絵がかかっている。幅が3m以上ある、横長の抽象画。それに感じる感情はなにもない。なにかが間違ってる。洗練を装ったなんの意味もない絵。その絵の側を曲がると、そこが精神科のある棟。早く行かなければと、心が焦る。足が時々もつれる。精神科のドアが見えてきた。車椅子を置いて、さり気なくドアを開けて中に入る。ナースステーションにいるナースにチラッと顔を見られた。でもなにも言われなかった。俺のベッドが見えてきた。なんと、誰かがその上にいて、本を読んでいる。女性。中学生くらいでウツ病の患者。1度話しをしたことがある。どうしようか考える。薬は服の下に隠せる。それは紙の袋に入っている。でもこの病棟からどうやって出る?マットレスの下から出して、もっと見付からない所に隠す?それより俺はその睡眠薬を今、ここで全部飲んでやりたい衝動に駆られる。そうすれば精神科からどうやって内科に帰るのか、とか、薬をどこに隠せばいいのか、とか、この先抗不安剤がなくてどうやって生きていけばいいのか、とか、そういう問題が一気に解消される。俺はそのウツ病の女性に近付いて、
「ゴメンね。俺、ここのベッドに寝てて、忘れ物しちゃって。」
彼女は読んでる本から半分顔を上げて、
「うん、いいよ。」
俺はベッドの下に潜る。彼女は変だと思ってるのかな?きっと本に夢中になってる。薬は奇跡的にまだそこにある。手を伸ばして、夢にまで見たその物をマットレスの下から取り出す。その瞬間、誰かが俺の腕をきつく握って、薬の入った袋が横取りされた。
「こんな所にあったのか!」
俺は力なく、
「俺の。」
と呟く。
「俺の、じゃないだろ?俺のキャリーバッグから盗ったんだろ?」
「返して。」
「会社にバレたら首だぞ。こんな大量の睡眠薬。」
「俺のだから。」
「これ、どうするつもりだった?」
「今、ここで全部飲んだら、許してくれない?」
「手間ひまかけさせて。歩けるようになったら絶対すぐ来ると思ってた。」
「ここにはいられない。」
「どこに行くつもりだ?」
「戻って来られない所に。」
その製薬会社の営業は俺を引っ張って、みんなが食事する部屋に連れて行く。
「会社を首になるとか、ほんとはそんなことはどうでもいいんだ!この薬で誰か死んだら困るだろ?」
そんなに怒鳴らなくっても聞こえてるし。その部屋には数人患者がいて、みんな俺達の方を見ている。大きな古い冷蔵庫がうるさい音を立てている。俺は彼の持ってる紙の袋を凝視して、
「半分でもいいから返して。」
「お前、あの抗不安剤、全部飲んだんだってな。よかったよ。死ななくて。死んだらどうしようかと思った。」
「あれは死のうと思ったわけじゃなくて。」
「死んでもおかしくない量だぞ。お前、どういう病気だ?診断名は?」
俺は自分でもすぐ忘れちゃうんで、少し考える。
「自分の病気知らないのか?」
「統合失調感情障害。不安障害。強迫観念。あとはよく知らない。」
「要するに、なんでもかんでもってことだな。今はなんでここに入院してる?」
それもよく考えないと思い出せない。
「なんで入院してんのか忘れたのか?」
「抗不安剤の依存症と離脱症状。」
廊下から誰かが拍手しながら入って来る。ドクター澤村。
「よくできました。そんなんで入院してて、オーバードースしてどうする?」
いつもすぐ怒るのに、なぜか朗らか。この営業がいるからかな?仲いいのかな?ドクターが、
「玲真、今夜からこっちに泊っていいから。」
俺はため息をつく。
「ため息つきたいのはこっちの方だぞ。」
営業に向かって、
「この子は俺の初めての患者で。」
そうだったんだ。知らなかった。この子って?20才過ぎて、背も185㎝ある俺のこと?営業が、
「玲真さんか。俺は、加藤涼雅。よろしく。」
俺はソイツから目をそらして、ため息をつく。ソイツは、
「ため息つきたいのはこっちの方だって。全く。窃盗で被害届出してもいいんだぞ。」
「お好きにどうぞ。」
ドクターが、
「君のお母さんと弟さん、挨拶に見えたぞ。心配させるな。」
死んだら弟が悲しむな。死ななくてよかったかもしれない。弟のことを考えたら泣きたくなってきた。ごまかそうとしたけど、涙が1滴頬を伝う。今度はドクターが、
「ほんとに反省してるんだったらいいけど。」
って、ため息をつく。
抗不安剤の離脱症状の他に、強迫観念が止まらない。あの睡眠薬。死ねるほどの量はあった。十分過ぎるほど。なにが悪かった?どうして失敗した?そう1日中考える。毎日。ヴィジュアルも浮かぶ。あの時アイツに盗られた。睡眠薬のことを考えていると、自然、アイツのことも浮かぶ。いかにも爽やかな製薬会社の営業です、って顔をして。腹が立つ。アイツのビジネススーツも、ヘアスタイルもみんなウソの塊に見える。あんなヤツのことを1日中考えてるのも腹が立つけど、それは自分では止められない。抗精神病薬が効いてない、ってドクターに言ったら量を増やしてくれるだろうか?ドクターを目の前にすると、言うのをすっかり忘れてしまう。ここでも母が個室に変えてくれた。シャワーを浴びて、タオルで拭いて、それからなにをしていたのか思い出せなくなる。部屋の真ん中で立ち尽くす。ドアをノックする音がして、涼雅が首を出す。
「なんで裸なの?」
「知らない。」
彼が毛布を肩からかけてくれる。
「着る物がない。」
「着る物がないって?そこにあるじゃない。」
椅子の上を指差す。俺はもう1回素っ裸になって、そこにある病院服を着る。変な茶色の。世の中で1番醜い茶色。ヤツは営業のカッコはしてるけど、バッグは持ってない。きっとナースステーションにでも置いてあるんだな、って思って、部屋を出てそっちの方へ向かう。カウンター越しにのぞくと、やっぱりヤツの大きなバッグとキャリーバッグが置いてある。もちろん中へは入れないから見てるだけ。俺の強迫観念。1日中。毎日。固まって身動きできずに見詰めていると、後ろから両肩を軽く触られる。彼は俺の腕を引っ張って食事の部屋に連れて行く。丁度ランチが終る頃の時間で、そこにはまだたくさんの人がいて、きっと、わざとそういう人のいる所に俺を連れて行きたいんだな、ってぼんやり思う。俺はどこにいても考えることは同じ。あの黒いキャリーバッグの中に入っている物。
「昼メシ、食ったの?」
俺は静かに首を振る。あんまり激しく振ると、眩暈がする。
「朝は?」
俺はまた黙って首を振る。
「夕飯は?」
「やることがないから。」
「どういう意味?」
「ハンスト。」
「他にやることがないから、ハンストしてるんだ。珍しい人だな。」
「少しずつでも死に向かっている。」
涼雅は俺の髪に触って、
「この赤いの、自分で染めてんの?」
俺はうなずく。俺達のいる席は窓から太陽の光が入って、俺の髪が特別赤く見える。
「よく似合うからいいけど。」
俺は髪が性感帯で、触られると、俺の身体が過去の色々なセックスを思い出す。少しボーっとなって、今触られた方の彼の手を見詰める。厚くて大きくて男らしい手。それから彼の顔を見る。身体は筋肉質でガッチリしてるのに、顔は細くて鋭い感じで、ちょっと頬がこけてて不思議。目もキリっとしてて鼻も細くて高いし、唇は薄い。俺がいつまでも彼の顔を見てるんで、
「なに?」
「俺、髪に触られると・・・」
「なに?もしかして、変な気分になるの?」
「そう。」
「マジで?」
彼はもう1度俺の髪に触る。
「止めて。マジで。ヤバいことになる。」
さすがに俺の髪から手を離す。俺はまた涼雅の顔を見る。そして無意識に自分の唇をなぞる。
「俺はそれ、ヤバいな。」
「なに?」
彼は俺の唇に触ってる方の手を取る。
「よく言われるけど、無意識。」
「そうなの?」
「俺達、きっとセックスの相性がいい。」
「え?」
「俺、そういうの分かる。」
「あ!」
「なに?」
「俺のこと誘惑して、俺のバッグを狙ってる。」
「それはいいアイディアだけど、これは違う。」
俺はテーブルの下の彼の太ももに手を乗せる。
「君、そんなことより、食べないと。なにか買って来てあげようか?」
俺の必殺、流し目と微笑み。
「なにも食べたくない。俺は食べないと性欲が増すから。」
涼雅は、
「こういうの、久し振りだな。」
って笑い出して、太ももの上の俺の手をどける。俺は拗ねて唇を突き出す。男はここで絶対キスしてくれる。周りにこんなに人がいなければ。涼雅は周りに聞えないように、俺の顔に近付いて囁く。
「ここを出ないとなにもできないぞ。」
それもそうだよな。製薬会社の営業が病室で患者となんて。俺は諦めて立ち上がって、冷蔵庫を開けて、余ってたオレンジジュースを飲み始める。
「なにか買って来るから、食べたい物を言え。」
考えるけど分からない。
「大根おろし。」
「なんだそれ?下のコンビニにあるヤツじゃないと。」
「和風ハンバーグ。大根おろしが乘ってる。」
ほんとにそこまで考えてたわけじゃないけど、確かにいいアイディア。アイツと仲良くなると、チャンスが増える。今度は絶対その場で全部飲んで、また噴水の中に入って、横たわって、胸の上で手を組んで。天使の足元で。そしたらもう息をしに水面に上がる必要がなくなる。こんなに人の多い部屋にいるのは久し振り。お見舞いに来てる人も何人か混ざっている。この人達はなにが楽しくて生きてるんだろう?ウツ病の人は別に楽しくないかもしれないけど。一気に死ねるチャンスがあるんだったら、俺はそれを逃さない。病院って変だよな。俺は大抵ウツ病患者と同じ病棟に入れられる。どういう基準があるんだろう?俺には幻聴も幻覚もあるけど、本格的な統合失調症患者に会ったことがない。俺には気分障害もあるけど、躁状態の患者にも会ったことがない。アルコール依存症患者だけはどこにでもいる。認知症患者もここにはいない。俺を大雑把にカテゴリーに入れるとすると、ウツ病なんだな。これだけ自殺未遂してれば当たり前か。そんなことを考えていると、涼雅がコンビニの袋を下げて帰って来た。
「え、あったの?」
「ああ。」
俺は和風ハンバーグの上に乗ってる大根おろしを食べる。多分おろしてから時間が経ってるけど、それなりの味はする。温める時に一緒に温まっちゃったけど、それもいいとする。死ぬ前にこれが食べられるとは思ってなかった。
「ありがとう。」
俺は箸を置く。周りを見渡す。まだ人がいる。あとで病室に戻ったら、お礼のキスくらいできるかもしれない。俺が彼の方を見ると、あっちも俺のことを見ている。
「あとの物はどうした?」
「あとの物って?」
「ハンバーグとか。」
「しばらくなにも食べてなかったから。」
「だったら食え。」
「だから食べられない。」
「早く退院したいんだろう?」
「どっちみち当分無理だし。」
彼は箸をとってハンバーグを小さいブロックに切っていく。俺はこの人の手が好きなんだな、って気付く。ちょっとだけそれに触ってみる。
「なにしてんの?」
恥ずかしいから言うの止めようと思ったけど、言ってしまった。
「手がいいな、って。」
彼は手を止めて、笑い出す。
「お前、そういうのだけは上手いな。」
「ほんとだから。」
「早く食え。」
大根おろしが入ってたのに、なぜかたくあんも入ってる。ちょっと恥ずかしかったけど、それをパリパリ言わせながら食べる。そしてまた箸を置く。
「箸を置くな。続けて食え。」
俺は箸を持って、そのまま固まる。
「食べないと美貌が台無しだぞ。肌がカサカサしてる。」
上手いところを突いてきたな、って俺は涼雅のことを睨む。俺は他に褒められることがないから、ナルシシスティックなところがある。
「なんで睨むの?」
「上手いことを言うなって。」
「製薬会社の営業はバカじゃできないから。相手の気持ちを読む。」
「なるほどね。」
俺は小さく切られたハンバーグを口に入れる。
「ご飯はどうした?ご飯が寂しがってるぞ。」
俺は長い時間をかけて、遂に完食する。テーブルに出てる彼の手に触ろうとする。
「変なことすんなよ。人が見てる。」
「じゃあ一緒に俺の部屋に行こう。」
俺は得意の意味深な眼差しで、涼雅を見詰めて、ちょっと首をかしげて微笑む。
「お前、ほんとにそんなことだけ上手いな。」
ふたりで並んで廊下を歩く。俺は手をつなごうとしてハタかれる。
「お前ほんと背高いな。俺だって180あるんだぞ。」
涼雅は背が高くて、手足が長くて、手も大きくて、そこのところが気に入ってる。部屋に着く。
廊下側に大きなガラスがはまってるから、変なことはできない。バスルームでセックスしてバレても、俺は全然いいけど、あっちが困る。ベッドに座って、俺の横のスペースをポンポンって叩いて、彼を呼ぶ。彼は俺の誘惑には惑わされず、離れた椅子に腰かける。
「お前、入院してない時は、なにしてる?」
「金のある時は、酒を飲んでいる。」
「金のない時は?」
「セックス。」
「身体売ってんの?」
「好きな人としかしないよ。あ、でも時々イヤなヤツともヤる。でもそれはハイの時だけ。」
「気分障害もあるんだよな。複数あると治療が極めて困難。でもなんで死にたいの?」
「そこに睡眠薬があるから。」
「じゃあ俺、もう睡眠薬のサンプルは持ち歩かない。」
その瞬間、俺の頭の上にあった睡眠薬のイメージが、電気がパッと消えたように突然なくなった。俺は自分の頭上を見渡して、それから彼の方へ目を落とす。
「君は目に特徴があるな。不健康な魅力。」
「目?」
「そう。少し腫れぼったくて、やつれた感じ。クマがあって。化粧が似合いそう。」
「なんでそんなこと分かるの?」
「俺、昔雑誌の読者モデルとかしてたから。高校生の時。小遣い稼ぎに。」
「へー、だからなに?」
「だから、ファッション業界とかモデル業界に興味あったんだけど、俺、頭よくて理系だったんで、堅気になった。君を見てると思い出す。その頃の迷い。」
確かにこの爽やかな営業スマイルは、どこに行っても通用する。
「モデルやらないか?って聞かれるだろう?」
「俺、知らない人からは逃げるから。でも写真は撮らせてるよ。」
「そうなの?」
「好きな男に。裸の写真。」
「ヤバいんじゃない?」
「プロのフォトグラファーとヤってた時、写真撮らせて、写真の雑誌に載ったよ。最近だよ。」
「へー、見せて。」
ファッションフォトグラファーなんて、ファンシーな仕事の割に男臭いヤツで、モノがでかくて、それが俺のケツに沈む時、いつも身体中に震えが走った。ケータイで写真を見せる。
「わー、フルヌード!この人、君の目の魅力がよく分かってる。北山誓也か。才能あるな。まだ付き合ってんの?」
「付き合ったことはない。ただヤらせてるだけ。」
「じゃあまだヤらせてんの?」
「抗不安剤を1日中しゃぶってた時、病院にぶち込まれそうになったから逃げた。」
「今、好きな人はいるの?」
「いない。」
「じゃあ、俺のことは?」
「別に。ヤりたいだけ。」
「え、そうなの?ガッカリだな。」
「なんで?」
「君のことが好きになりそうだから。」
「なんで?」
「美形で、正直で、世話が焼けそうだから。」
「世話を焼くのが好きなの?」
「そう。性格で。」
「俺の世話を焼く人はいないよ。」
「よかった。じゃあ、また来るから。世話を焼きに。」
俺はあの時までずっとあの睡眠薬のことを考えてて、それが俺の強迫観念だったけど、睡眠薬が消えて、なにを標的にするのか、俺の強迫観念が考えている。俺にコントロールする権利はない。脳が勝手に判断する。意外にも涼雅のことは考えない。強迫観念は中学生の頃からあって、ドクター澤村を悩ませた。同じことを1日中、毎日考えて、それが何年に及ぶこともある。俺が探さなくても、いつもあっちからやって来る。効く薬は見付けたけど、他の薬とのバランスが難しい。だから他のもっと大事な薬を優先して、俺の強迫観念は俺だけの苦しみで、だから自殺願望なんかよりはないがしろにされてて、でも俺にとってはどっちも同じように苦しくて、その苦しみのために自殺願望が起こるから、だから俺にしては同じことで。誰かが俺の部屋のドアをノックする。俺は布団の下に隠れる。ソイツはしつこくノックする。俺は布団から目だけ出して、ガラス窓から廊下を見る。そこには背の高いイケメンの男。きっと俺を殺しに来たか、そうじゃなくても傷付けに来た。昔、俺のカウンセラーが言ってた。そういうことは生活してて普通には起こらない。その男はドアノブを回す。カギはついてないから、ドアが開く。俺はベッドの下に隠れて、なんとか部屋の外に出ようとする。男の足の動きを見ながら隙を伺う。でも男はベッドの上に乗って、俺の視界から消える。俺はドアまでダッシュする。部屋の外を出た所で、男が俺の腕を捕まえる。
「玲真!」
俺はもうダメだ、殺されると思って男の顔を見る。
「俺のこと分からないのか?」
「俺を殺しに来たんでしょ?」
「妄想だ。離脱症状だな。ドクターに話したのか?」
俺は廊下に座り込む。いつも死にたいと思ってるのに、なんで殺人者を怖がるんだろう?意味が分からない。狂人の思考。
「立てるか?ドクターを探しに行こう。」
俺は、立って、走って、看護師に捕まって、抗不安剤の欠片をもらって飲んで、我に返る。これだけよく効くから依存症になる。
「玲真、大丈夫?」
「涼雅。」
部屋に戻って横になる。彼はグレーの質のいいシルクのシャツと、デザインの凝ったストライプのパンツを穿いて、短く刈った髪のてっぺんを立てている。
「典型的な離脱症状だな。」
「もう、疲れた。」
目に入るヤツがみんな殺人鬼に思える。妄想。いつまで続くのだろうか?人々の悪意を感じる。俺に対する憎しみ。みんなが俺を傷つけようと機会を狙ってる。
「みんなが俺に悪意を持っている。」
「もうじきよくなるから。」
「いつ?」
「数週間?数カ月?俺はドクターじゃない。」
そんなに待てるわけない。気の遠くなるような時間に思える。涼雅が厳しい調子で、
「離脱症状より、そのあとが大事だ。もう薬の乱用はするな。」
でも、俺は全然反省してないし。ここを出たらまたなにか探して、依存症になる。死ぬまでこれを続ける。それは確か。
「今日は仕事じゃないけど来てみたんだ。よかった来て。玲真、ちゃんと食べてるの?」
その質問の答えは難しい。覚えてない。
「怖くて人に近付けないから。」
「じゃあ、全然食べてないんだ。看護師に、これからは食事をここに持って来てもらうように言うから。」
涼雅は俺の額にかかった髪をどかしてくれる。その手がとても柔らかくて、温かい。
「髪の毛に触っちゃいけないんだったな。」
彼は優しく微笑んで俺の顔を見て、
「俺のことは怖くないんだろう?」
「怖くない。涼雅は味方だから。」
「なにか買って来てやる。なにが食べたい?」
また難しい質問。
「くず餅。」
「そんなもん、コンビニに売ってないだろ?」
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