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【高校1年生】1

【高校1年生】  小さい時から少女漫画が好きだった。あの無駄に空白が多くて、いつでも花びらが舞っていて、いいタイミングですれ違い、イケメンは遅れてやってくる。トキメキという物すべてを閉じ込めているかのような、あの空想物語がたまらなく好きだった。  俺の少女趣味は全て三つ年上の姉によるものだ。名前とは裏腹に実に男勝りな姉が、それでも唯一夢中になっていたモノが当時流行っていた少女漫画だった。 ―余談だが、姉は産まれたのが満月の夜だったので名前が満月、俺が産まれたのは天気の良い真昼間だったのでまひるになったそうだ。そんな理由でいいのか両親よ…と子供ながらに思ったのを覚えている。閑話休題―  俺は、あの姉がそんな普通の女の子みたいにハマるものがこの世に存在するのかと信じられなくて、小学生のある日、こっそりその本を手に取ってしまったのだ。  あれがいけなかった…  いま振り返ってもそう思う。けど、好きになってしまったのだからもうどうしようもない。今ではどちらかというと、俺もこんな漫画みたいな恋がしたい!と、分不相応にも憧れを抱いてしまった事を後悔すべきだろうと思う。好きになる事と憧れるのでは、その後の現実から受けるダメージが格段に違う。  待ちに待った高校デビューだ!  はっきり言って自分の顔は中の下くらいで、決して褒められたものではない。目が二重でそこそこぱっちりなのだけが救いだ。(一重の皆さんすみません)それでも眉毛を整えて、慣れないワックスで茶色味掛かった柔い髪をセットして、清潔感を忘れない程度に制服を着崩す。少しでも、青春を感じることが出来れば良かった。少女漫画のような出会いなんて期待は…ちょっとだけしか…期待していない。 しかしそんな淡い夢は、クラス分けが発表されて直ぐに打ち砕かれることになる。 「女子…3人…まじか…」  正直、頭の出来は褒められたものではない。進学した高校は学科が三つあり、俺が進学したクラスは情報会計科。進学よりも就職を目指す奴が進む所だ。他の二つの学科に比べて偏差値も低く入学しやすい。まぁ、頭の弱い男子が集まるには都合の良いところだった。 「いや、にしてももう少し…」  さようなら俺の高校デビュー…中の下である自分には、40分の3である高嶺の花を手に入れる度胸も器量もない。かと言って、女子の比率が少しだけ高い(40分の6)隣のクラスにわざわざ友達を作りにいく勇気はない。漫画のような出会いなんて、所詮漫画の中にしか存在しないのだ。  そうして自然に、それはもうごくごく自然に、クラス内カーストは出来上がっていった。貴重な女子の周りには上の上であるイケメンが集い、所謂三枚目に属する上の中~下が金魚のフンのように囲いを作る。俺は会話をすることなど到底許されず、同じ空気を吸わせていただいているだけでも感謝せねばならない。 「はぁ…俺の高校デビュー…」 「お前まだそんなこと言ってるのかよ。そんなに女子と話したいなら他のクラスの子にでも話しかけてこいよ。」 「そんな事出来る訳ないだろ!出来てたらあの3人にだってとっくに話しかけてるわ!!」 「ははは、そりゃそうだな。」  佐久間は中学からの同級生だ。といっても、中学では一度もクラスが同じになったことがない。正直、同じ高校に進学するまで俺は“佐久間 涼”という人間を知らなかった。それなのにも関わらず『高橋だよな?良かった、あんまり知ってる人いないから心細かったんだよ』と、入学式の日に話しかけてくれたとっても良い奴だ。クラス内カーストだって、佐久間ならきっと上位に居れただろう。女子とだって普通に話せるはずなのに、気が合うからと俺のそばにいてくれる。凄く良い奴だ。  「…いつか、俺だって青春してやるんだ。」  俺の小さな決意は、佐久間に軽くあしらわれて終わった。  6月中旬、その日は唐突にやってきた。  いつも通りの日常が始まるだけのホームルーム。窓の外では小雨が降る中、担任の鶴の一声でクラスの空気が一変した。 「そろそろクラスの雰囲気もわかってきたし、このへんで席替えでもしようと思う。」  生唾を飲む音がそこかしこから聞こえてきそうだ。貴重な女子3人の隣になる可能性が誰にでも平等にできたのだ、そりゃぁ沸き立つというものだ。 「最初は簡単にくじ引きでいいな。出席番号順に引きに来いよー」  心臓の音が耳のすぐ近くで聞こえる。たかが席替え、されど席替え。男子高校生は単純なのだ。モチベーションは大事だろう。 唸れ俺の右手!封印されしその力を今こそ解放する時! 密かに右の拳を握り締め心の中で気合を入れる。それはもう爪が食い込んで痛みを感じるほどに。そして、動揺した俺は左手を箱の中に突っ込んだ。  何がどうしてこうなった。俺の左手にはいったい何が封印されていたというのか。  窓際2列目最後尾、俺の右隣には3人の中でも飛び抜けて可愛いと評される渡辺さんが座っていた。そして渡辺さんの隣には、渡辺さんに劣らない可愛さと噂される林さんがこちらを見て微笑んでいる。勿論、その微笑みの相手は渡辺さんなのだが。  しかし、それにしても凄くいい匂いがする。匂いと表現するのもはばかれる様な、フローラルな香りだ。母さんや姉さんもフローラルな香りと謳う洗剤を使っているはずだが段違いだ。あんなものは紛い物だ。これこそが本当のフローラル…これから毎日この香りに包まれた生活を送れるのかと思うと、まるで天にも昇る気分だ。  諦めかけていた少女漫画のような学校生活が、今、俺の目の前に広がっている。可能性は無限大だ!  教科書を忘れてみようか、机を寄せたら息遣いまで鮮明に聞こえてきそうだ。消しゴムを落としてみようか、拾ってもらった瞬間に手が触れ合ったらどうしよう。授業中不意に視線が交わって、恋が始まることがあるかもしれない…どちらかと言うと、少女漫画というよりストーカーのようだと思わなくもないが…ああ、胸が躍る。  まるで結婚式の鐘のように、高らかにチャイムが鳴り響いた。さぁ、楽しい一日の幕開けだ。しかも1時間目は珍しく予習をしてきた会計だ!華麗に問題を解く様をアピールするチャンスではないか。教科書には書き込みもしてきている、抜かりはない!そう、抜かりはない、はずだった… 「…………………………………ごめん、教科書、見せてもらえないかな…?」 「……別にいいけど。」  勿論、己の首は左を向いていた。  そっと、静かに、何事もなかったかのように机を左側に寄せた。佐久間が笑いをこらえているのを視界の端に捉える。あいつ、絶対休み時間馬鹿にしに来るぞ。しかし言い返せない。ここで渡辺さんに声をかけられたら俺は英雄となっただろうに。  “山中 文季”はごくごく普通のクラスメイトだったと思う。第一印象はと聞かれて、ぱっと答えられるほどの印象は特にない。そのくらい普通だった。  今まで染めた事などないだろう黒髪に、銀縁の細いフレームの眼鏡。フローラルに負けてしまいそうな、石鹸の匂いがほんのりと漂ってきていた。確か身長は同じくらいだったはずなのに、猫背のせいか横に座っていると自分よりも大分低く感じる。勉強は不得意というわけではなさそうだけど、理解するのに時間がかかるタイプなのだろうか…先生の板書をノートに追って、数秒後に納得しているようだった。眼鏡キャラなのに…  予習を完璧にしてきたおかげで実習問題をはやく解き終わってしまった。理解している事の説明というのは退屈以外のなにものでもない。本音は右を向いてまじまじと、それはもうまじまじと渡辺さんを視界いっぱいに堪能したいのだが、そんな事は出来るはずもなく…そんな事が出来るのだったら、あの時教科書見せてとお願いしてるわ…仕方なしに時間を潰すため出来ることは、親切な山中文季というクラスメイトの観察だった。 「ぁ、そこ間違えてる。」 「え、嘘…」  口に出している意識はなかったのだが、思いのほか響いてしまった声はばっちり山中文季の耳に届いてしまったようだ。教科書を借りている分際で、何を偉そうに。そう言ってアッパーでも食らわせられても文句を言えない状況だったが、有り難くも彼は目の前の問題に夢中のようだった。 「そこは……」  これぞ理想の俺。ただ一点違うとすれば、相手が渡辺さんじゃなかったという事だけだ。 「ぁ…ありが、とう…」 「いや、俺も最初意味わかんなかったし。これ引っ掛けだよなー」 「…………」  問題を解説し終わっても、じっと山中の視線が俺の手元から逸れない。言葉も瞬きもなく、時間がこの空間に沈んでしまったようだった。その、とても…とても視線が痛い。余談だが、視線を痛いと感じるところはどこなのだろう。皮膚なのか、皮膚だとすれば体のどこなのだろう。腕か、顔か、胸か…いま視線が降り注がれているのは俺の右の手元だが、実際に何かがそこに刺さっているわけではない。なら痛いと感じるのはそれ以外の感覚なのだろうか。例えば、嗅覚味覚聴覚視覚?そんな現実逃避の考えが頭の中を巡っている間も、山中の視線はじっと俺の手元にあった。 「ぁー…ごめん。なんか、余計な事だった、よな…」 「いや、というか…案外可愛い字を書くんだな、と思って。」 「そりゃぁ、どうも、ありが…とう…?」  気まずい視線を逸らしたくて謝ったのに、余計気まずくなるとはどういう事なのだろう。頬に若干熱が集まるのが分かる。赤くなっているかどうかは自分では確かめられないから、せめて元凶の彼に気づかれませんようにと祈る。  男にしては丸い癖字はちょっとしたコンプレックスだ。今更治るとは思っていないし、原因は分かっているから後悔はない。ただ、それを指摘されるのはやはり幾分か恥ずかしい。まぁ、原因というのはお察しのとおり少女漫画の影響だ。 「はい、そこまで。それじゃぁ解説していくぞー」  ざわざわしていた教室が再び静かになる。黒板を滑るチョークの音と、低音の教師の声。ちらほら電卓を叩く音が聞こえる。気まずくて逸らした視線を山中の観察のために戻して目が合うのも気まずいので、少し前方の窓の外を見た。朝降っていた雨は上がったようで、所々雲の隙間から青空が覗いている。これは午後の体育は土手のマラソンか体育館か微妙なところだな… 「案外っていうのは…」 「…ん?」 「案外っていうのは、失礼だった。ごめん。」 「いや、別に気にしてないけど…」  とても小さな声だった。俺が先生の解説に集中していたらきっと取りこぼしていただろうと思える程に小さな声。目線は黒板とさっき解説したノートとを行き来している。その少し下を向いた表情が、なんとなくバツが悪そうな顔に見えた気がした。今日初めてちゃんと顔を見たクラスメイトの表情を読み取るなんてできるはずもないから、本当に“気がした”だけかもしれなかったが。 「あとそれ、花の嵐って漫画のマスコットだろ?可愛いよな。僕もあの漫画好きだよ。」 「…ぇ」 「え?」 「ええええええええええええええええッッッ!!??」 「…ぇ」 「高橋、着席しなさい。」 「………………………はぃ。」  やってしまった。クラス内カースト下位の自分がやってはいけない目立ち方をしてしまった。視線が一斉に集まり、渡辺さんも不思議そうな顔をしているのを視界の端に捉える。渡辺さんの上目のきょとん顔は凶器にもなる可愛さだった。  ガタンと大きな音を立てて倒れた椅子を起こし、細心の注意を払えるだけ払って静かに座り直す。集まった視線が散り散りに前を向く中、左の彼からの視線だけがずっと俺を捉えていた…前言撤回、佐久間も先生に注意されているにも関わらずずっと俺を見ていた…あいつとは色々話さなくちゃいけないようだ。 「だ、大丈夫か?顔真っ赤だけど…あと汗すご…」 「うん。うん、ごめん…」  今なら顔でお湯を沸かせそうだ。先ほど感じたものの比じゃない程に頬が熱い。大人しく着席したが、黒板を見る事も窓の外に逃避する事もできず、ただじっと小さくなって白いノートの上に視線を落とす。早く時間が過ぎればいいと思いながら、休み時間になって上位の皆様の話題の種になるのかと思うと永遠に授業が続けばいいのにと願わずにはいられなかった。  『花の嵐』というのは、俺が今青春を現在進行形で捧げている人気の少女漫画だ。昔好きだった人と、今好きな人の間で揺れる女子高生。そこに前世が絡んできて、三角関係とか運命とかを絶妙な加減で描いている。最高だ。そのヒロインが飼っている猫がマスコットキャラクターになっていて、その猫のデザインのシャープペンは俺の愛用品だった。  幅広い年代に読まれている漫画だが、男子高校生がその存在を知っているとは思ったこともなかった。佐久間には『なんだそれブッサイクだなー』と一蹴された。それを!この山中文季は!可愛いと言った!今!僕も!好きだって!言った!好きだって!僕もって!確かに言った!そりゃ興奮して句読点の代わりにエクスクラメーションマークを乱発するようにもなるさ!  誰かに受け入れて欲しくて好きになったわけではないが、この趣味は一生理解してもらえずに隠して生きていかなきゃいけないのかなと、心のどこかでずっと思っていた。好きなものを好きと言うのが恥ずかしいなんて、それはとても失礼な事なのではないかと。だから初めて、家族以外で肯定して貰えたような気がしてとても嬉しかった。じわじわと興奮が心の内側から沸き上がってくる。涙まで溢れそうだ。  当の山中くん本人はそんな重い感情を抱かれているとは露とも知らず。ちらりと仰ぎ見た表情は、今日初めてちゃんと見たクラスメイトでも分かる程に困惑しきっていた。 キーンコーン… 「はい、今日はここまで。明日は続きからやるからな。」  先生が授業を締めて礼を終えると、上位の方々がこちらを向いて話題にするよりも早く、佐久間がからかいに来るよりも早く、並んだ机を戻すよりも早く、俺は山中くんの手を引いて教室を出た。  足早に目指すはあまり目立たない場所。『ちょっと、待てって』と静止の声が背後から聞こえる気がしたが、足が止まることなく動いているので山中くんはちゃんと着いて来てくれているようだ。引っ張っている自分が言うのもなんだが、クラスメイトとは言えほぼ初対面状態の相手にホイホイついて行くとか大丈夫かこの人…と心配になったりもした。  1時間目と2時間目の間の休み時間は短い。人気のないところまで行きたかったが、教室から2番目に近い男子トイレで妥協した。幸いな事に人は居なかった。掴んでいた腕を放して、振り向く。 「山中!…くん!」 「!?なにッ」 「山中くんは花の嵐知ってるの!?好きなの!?」  食って掛かりそうな俺の勢いに押されてか、山中くんの背中はトイレの壁にべったりくっついている。それでも足りないと言うように顔の表情筋がこれでもかという程引き攣っていた。そこまで引かなくてもいいんじゃないだろうか… 「なんで!?なんで知ってるの!?」 「いや、だって有名な漫画だろ?」 「でもっ…でも、少女漫画だよ!?」 「そうだけど…あんまり、ジャンルは気にしないんだ。本を読むのが好き、で…結構漫画も色々、読んで…て…」  山中くんの声が尻すぼみになっていく。瞼が大きく開いて、口は閉じることを忘れてしまったみたいだ。きっと漫画なら、顔の上部がストライプで埋められ汗マークがそこかしこに描かれるだろうに違いない。実際に肌が青く染まるわけでもないのに、あの表現を最初に思いついた人は天才だと思う。驚愕、という形容詞にぴったりの表情のまま山中くんは固まってしまった。まぁ、 「ありがとう!ありがとう神様!!」  …まともに口をきいたこともないクラスメイト(男子高校生)が、目の前で天を仰いで涙を溢れさせていれば当然の反応だと思う。  初めて、神様という存在を信じて、その存在に心から感謝した。今までの人生普通に生きてきて、普通に不運な目にあっていた。気にする事でもないような小さな悪いことが重なって、あまり幸運な事に恵まれていない印象の人生だった。だが、それは全てこの日の為に貯金をしていたのではないか。 「山中!…くん!是非俺と友達になってくれ!というか、今日から俺たちは友達だ!」 「別に無理に君付けしなくていいけど…高橋って変な奴?」 「俺ッ俺初めてなんだ!男であの漫画の話ができる奴に会ったの!俺あの漫画大好きで!」 「……やっぱ変な奴だな。」  俺の一生懸命な告白は山中くんのツボに入ったのか、彼はふふっと息を零して笑っていた。その柔らかい笑みに、興奮で上がっていた息が少し落ち着いた。知らず握り締めていた両の拳からゆっくりと力を抜く。ほんの少し食い込んでいた爪の跡がじんわりと痛んだ。 「いいよ。僕でよければ話くらいならできるし。」 「本当!?あ゛り゛か゛と゛う゛ッ!!」 「うわっ汚いな。ほら鼻水拭けよ。授業始まっちゃうし…」 「う゛ん゛っ」  山中くんは優しいのか辛辣なのかわからない絶妙な加減で俺の面倒を見てくれた。予備のトイレットペーパーを適量とって、涙や鼻水や涎で汚れた顔を拭く。コストパフォーマンス重視であろう紙はとても固くごわついていて、強く充てられたものだから肌がヒリヒリした。  あぁ、なんだか高校生活が一段と楽しみになってきた。高校デビューが失敗に終わった事も、このあと教室に戻れば一軍様達にからかわれるだろう事も、この時ばかりは俺の頭の中から綺麗に抜け落ちていた。きっとこれからこの山中文季という親友(予定)と青春を謳歌するのだ。漫画のように時には衝突しながら友情を深め、好きな人の相談をしたり、泥臭く土手で語らうのも良い。妄想は止まるところを知らない。 「とりあえず、戻ったら連絡先交換しよ?」

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