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Miracle du lune de perigee.~月の奇蹟~
洋上120マイル、手向けの花が波に消えてゆく。
「ノワ・グェーリィンヌ、これは命令だ。生きろ。救命艇に乗るんだ!」
そう叫んで、かの人は海に沈んで逝った……。
「何が希望なものか……」
祖先は騎士であったか『Chevalier 』の姓を戴き、神の子を意味する『Jule 』という名を持つ海軍少将ジュール・シェバリィーは『ポート・ドゥ・エスポワール(希望の港)』を敵国から死守した英雄である。金糸の髪を靡かせ、スカーレットの薔薇が花開く如く甘美な唇で檄 を飛ばす姿は、明敏なる忠勇の将と謳われ、見る者を一目で虜にした。
士官学校では教官と教え子だった俺たちの関係は肌を重ねるごとに深まり、ジュールは何処へ行くにも誰憚ることなく俺を伴った。当然、やっかみの眼は俺に向けられ、ある時、コンプレックスだった名前を上級生に愚弄され暴力を受けた。いや、正確にはジュールへの悪罵 に及んだ連中を許せなかった俺が喧嘩を買ったのだ。
いつものようにベッドで彼の精悍な体躯に身を委ね、甘い疼痛に何度も貫かれながら穿たれる最後の一突きに白濁を散らし、この焦がれてやまない美しい躰をいつまで繋ぎとめておけるだろうかと遠のく意識の中、浅ましくも願ったものだ。
「ノワ、恥じることはない。Noix (胡桃)は『知恵』を花言葉に持つ。頭のいいお前に相応 しい名前じゃないか。その上Guein は防御に由来する姓だ。これほど頼もしい部下もないというものだよ」
そう優しく諭して、ジュールは両の腕 で強く俺を抱きしめた。
Je t'aime de mon coeur .
お前を心から愛している、と言って……。
「早く大人になれ、ノワ。お前は私の右腕となり、この国の鉄桶の艦隊を率いるのだ」
熱っぽく語るジュールは短く切り揃えた俺の黒髪を愛でながら、最後にはこう言って俺の頬を染めるのだ。
Bien, embrasse moi ?
さぁ、私にキスをしてごらん?と。
あの頃、確かに俺たちは恋人同士だった。ジュール・シェバリィーは俺に愛の何たるかを教え生きる羅針となり、まさに世界の全てだった。そのジュールが30歳の若さで落命したのだ。
俺は17歳の士官候補生だった。
数々の戦績を誇った軍艦『エクレール(稲妻)』は艦齢を重ね、退役間近だった。海戦には勝利したものの、凱旋の途中で嵐に遭い、暗礁に乗り上げ座礁。投げ出された船員、近づく爆発音、置き去りを覚悟した負傷兵、この事故は戦争に疲弊した生き残りに過酷な追い討ちをかけた。そして、国の至宝とも讃えられたジュールのピジョンブラッドの瞳が波に攫われる刹那、キラリと輝いたのを俺は17年が経った今も忘れられずにいる。
「グェーリィンヌ大尉、間もなくポート・ドゥ・エスポワールに入港いたします」
「ご苦労。久しぶりの陸 だ。羽目を外しすぎるなよ?」
レイモン・バロー艦隊司令官麾下 海軍大尉ノワ・グェーリィンヌ。それが今の俺の肩書だ。
濃紺の軍服はホリズンブルーのシャツと赤のタイを忍ばせた立折襟のダブルブレストで兵科を示す徽章 付きの襟章と、エポレットと袖口には大尉であることを示す階級章が入っている。
すでにジュールの歳を越えて34歳になるが、尚、階級は彼に届かない。
旗艦『リュミエール(光)』の乗組員は502名。全長62.8M、竜骨52.2M、砲数90門を備える3本マストシップだ。この快晴の昼下がりに物資補給のため、かの『希望の港』へ寄港した。
甲板から見渡す街は平穏そのものだ。商業、産業に栄え、人々は活気に満ち、街の至る所に花が咲き乱れている。とりわけ、家々のバルコンに白や紫のアネモネが多いのは、この街の貴族の出で英雄となったジュールの愛した花だからだろうか……。
街の中心部からなだらかな丘陵地を臨み、遠く急峻な山々を巡って視線を返すと、ふと、何者かに見られている気がして埠頭に気配を探した。ボラードの傍で此方を見上げていた少年が、フイッと目を逸らせ身を翻して走り去る。その髪の色に思わず目を奪われた。
「深い海の蒼だ……」
「ええ、まるで夜光虫のようです……」
隣で俺の目線を追ったアラン少尉も夢現 に惑う顔つきで感嘆の声を上げる。彼にも少年の姿が見えていたことに安堵するほど、現世 の者とは思えない美しさだった。
「水夫服でした。海軍志願の子供でしょうか?」
「……かもしれんな」
「お傍近くにとお望みでしたら、調べましょうか?」
「気の回しすぎだ。戦支度に子供は不要」
折襟を寛げ首筋に風を感じると、潮を含んだ花の青臭く熟れた香りが亡き人の胸に懐いた体臭を思い出させ、ジュールの俺を呼ぶ声を幻聴 く。
日没後、俺は黒の光沢のあるシャツに黒のネクタイ、黒のコートという夜陰に乗じるには最適に思われる私服に着替えて人知れず下船した。『行き先は、供は』と騒がれるのが煩わしかったのだ。ひとり静かにジュールと語らいたかった。
大海原を一望できる丘の上の墓地には大戦の記念碑が並び、その一角に彼の名を刻んだ墓標がある。人影はなく、先客か、紫のアネモネばかりを青いリボンで束ねた小さな花束が月明りに花を揺らしていた。
「ここに貴方はいないのに……」
ジュール・シェバリィーの遺体は回収されず、今も海に在る。生前、彼が事あるごとに贈ってくれた赤いアネモネの花束を俺はそっと、先客の花束の隣に供えた。
それにしても、今宵の月の何と見事なことか。
La Lune de perigee .
翼を広げるように大きく両腕を広げて、この一身に目映い光を抱き込み、遠く地平線へと水面を輝かせる光景に、またしても『おいで』という声を幻聴 く。
「ジュール……!」
彼の魂が呼んでいるに違いないと思った。
あの時、ジュールの手を離さずにいれば……、救命艇へと突き飛ばし守ってくれた手を引き寄せられるだけの剛の者であったなら!……ずっと、そう悔いてきた。
『右腕となれ』
そう言ってくれた彼を両の腕を差し出しても永久 に守りたかった。
坂を転げるように駆けながら俺はようやく彼の死を悼んで涙した。軍人たるもの涙は見せるなと、まして最期まで諦めず尽力したジュールの死に己如きが泣くなど許せずにいたのだ。
走って、走って走って走って突き動かされる衝動に、ただ月を追いかけた。
陽気な笑い声に沸く酒場の前を、ガス灯に白む石畳を、路地を塞ぐ馬車を避 けて、突如、目の前に現れたのは大きな大きな今にも落ちてきそうに大きな月と、果てしなく続く、星空を引っくり返したような海だった。
銀砂を踏みしめて浜を歩く。
月さやか、万象影を失うほどに辺りは明るく、この浜に見覚えがない事に俺は気が付いた。
「どうして、ここへ来た……?」
煙草に火をつけて、先ずは落ち着けと紫煙の行方を追う。
ごうと唸りを上げる波頭は月光を砕くが如く飛沫を煌かせ、波打ち際へ近づくほど穏やかに寄せては返す。その蒼に染まって動く気配があった。
月を従えて少年が佇んでいた。波止場で見た、あの少年だ。
髪は昼間よりも夜光虫の青を深め、はためく水夫服の裾から、この子が月から生まれたと聞いても驚かないだろう美しい乳白色の華奢な躰を覗かせていた。そして最も息を呑んだのは、
「……同じ目の色をしている」
少年は、かのピジョンブラッドを彷彿とさせる双眸をしていた。赤いアネモネの唇を開いて、
「お待ちしておりました」
と、玲玲 と鈴を振るような声が届く。
「君が俺を呼んだのか?」
「いいえ。僕はただ、お待ちしていただけです」
「俺を?」
「ええ、貴方を。ノワ・グェーリィンヌ大尉」
素性は承知ということか。
歳の頃は13、4に見える。恐らく刺客ではないだろう、警戒心や殺気は微塵も感じられない。スパイだとしても俺とて丸腰ではない。ただ、少年を守護するように瑠璃の欠片が浮遊するのだ。幻惑の類か、時空の歪みを錯覚しそうに足元が覚束ないのを波音だけが現世 に繋ぎとめていた。不思議と不安はない。むしろ、我々を覗いて誰 も現世の外へ追われたのではないかと思う静けさの中、俺と少年は二人きりだった。
「名は何という?」
「……」
「蛮行に及ぶことはない。警戒してくれるな」
「警戒しているのは貴方の方でしょう?」
こいつ、言ってくれる。
「では、このような夜更けに此処で何をしている?」
「大尉こそ何をしておいでです?」
「質問に質問で返すのか?」
苦笑したものの、実のところ自分でも浜へ何をしに来たのか皆目、見当がつかないでいた。
思い出そうとすると混沌とした頭を砂がざらりと重くする。
「月を……、見に来た。これほど大きな月を見たのは初めてだ」
「然 もありましょう。僕もこの月を心待ちにしていたのです」
見掛けの割に口調は大人びている。或いは精一杯の虚勢なのかもしれない、俺に軍人の威圧感が染みついているのだろう。まずは身長差が良くないと、浜に腰を下ろして少年を見上げてみた。
「この近くの子かい?」
俺にしては声音をソフトにしたつもりだ。
「はい」
と、少年はようやく微笑した。笑ってみれば凄艶な色香を目許に湛えながらも、あどけなさの残る可愛らしい顔立ちをしている。
「良かったら、おじさんと少し話さないか?」
隣に座るよう目配せすると、
「『おじさん』……ですか」
くすりと笑み零れるさまは何とも控えめで好もしい。憂い顔に月を凝視 めて、
「ルーシェン・ミィシェーレ、それが僕の名前です」
と、真隣りに立った。
「Michel ……大天使ミカエルとは恐れ入った。守護聖人よ、死の天使よ、その秤を以て人の魂を司ると言うなら、俺の愛する……愛、する……?」
芝居掛かって道化てみたが、愚かにも俺は口にするべき人の名を忘れてしまった。
ズルリと鈍く脳裡の奥深く掻き回される不吉な感覚が『大切なものを失おうとしている』と警告を発したが、それもルーシェンを見れば掻き消えてしまう。月影を一身に集めるルーシェンの姿は大天使ミカエルを由来とする姓そのままに神々しく、思わず其の手を取って胸に抱き込んだほど蠱惑 的だった。態勢を崩して砂に膝をついたルーシェンは驚いたのも束の間、嫣然と目を細め、馥郁 たる花の香で俺をうっとりとさせる。
「無体はされないのではありませんでしたか?」
「君は無体とは思っていないのではないか?」
ルーシェンが夜目にも頬を染めたのが伝わる体温の上昇で判った。絡めた指と指に遠慮がちに唇を落とし、縋る手で胸に顔を埋めてくる従順さが愛おしくてならない。
「大尉……」
「グェーリィンヌでいい」
「ファーストネームでは呼ばせて貰えないのですね」
「ぇ?……あぁ、いや、慣れないだけだ」
取り繕ったが呼ばせてはいけないと思ったのは確かだ。俺を「ノワ」と呼ぶのは唯一人、脳裡に声はあるのに誰だか判らない、この男だけのような気がする……。
「今、どなたかを思い浮かべられましたね?」
「いいや?」
「嘘です。恋人ですか?」
「ルーシェン……。妬いてくれるのかい?」
腕の中の小さな躰は小刻みに震えていた。若さとは何と情熱的なのだろう。
初対面の……いや、この子はとうに俺を知っていたようだが、それも海軍の入出港やパレードで見掛けた程度であろう中年男に懸想して、そのように震えるほど嫉妬に憤ってくれるのか……、生きていると奇妙な縁もあるものだ。
「……生きて、……いると?」
何かが引っ掛かって、けれどそれも、ルーシェンの紅い瞳を見ては吹っ飛んでしまった。
「グェーリィンヌ…大尉、どこかでアネモネの花を胸に抱かれましたね?」
まだ呼び捨てに遠慮があるのか『大尉』と付け足すルーシェンの生真面目さを笑ったが、聞かれた内容にはまるで身に覚えがなく、どろりとまた頭を悪くする。
「いいや?すまない。花には疎くてな」
「ぇ?」
ルーシェンは怪訝な顔つきで俺を見た。
「この街には沢山のアネモネが咲いていて甘酸っぱく清々しい香りがするのです。大尉の胸から同じ香りがします。丘の上の墓地で紫のアネモネを御覧になったでしょう?」
「墓地……?誰のだ」
「……っ!……」
ルーシェンは一層、赤々と目を瞠 って、言葉をなくしたようだった。
「何を仰るのです、大尉!貴方は赤いアネモネを……」
「すまないが、何を言っているのか解らないよ」
確実に何かが狂っていた。
ルーシェンの眼は嘘をついている眼では無かったが、だとしたら、俺の中で記憶が抜け落ちていることになる。それも、たった数時間前の記憶を、或いはもっと大事な記憶を……。
「駄目です。忘れるなんて絶対に許さない!」
狼狽 えて語勢を強めたルーシェンは、
「大尉は此処へ何をしに来られたのです?何を探しに来られたのです、答えてください!」
と、赤々と燃える月に夜光虫の青を振り乱して、俺の胸倉を掴んだ。
「大尉には思い出して戴かなくてはならない」
その表情は思案顔から不安の翳りを濃くして思い詰めたものへ変わっていく。
「お願いです、誰に会いに来られたのですか?思い出してください!」
必死の形相で詰め寄るルーシェンに頭が石になったように重くなる。その紅い眼を見るたび、意識に靄 が掛かって苛々が募り、ついには「黙れ!」と怒鳴ってしまった。
「……いい加減にしてくれ。仮に俺が墓地へ行ったとしてアネモネが何だと言うのだ。ここへ来た理由……?それが、解らない。だが、君と出逢うために神に導かれたというなら、それが正しいのではないかと思うほど君に惹かれている。それだけは真実 だ」
俺なりに言葉を尽くしたつもりだが、それではいけないのだとルーシェンはボロボロと泣き出した。しなやかな躰を月へと反らせ、怒りと哀しみに満ちた血の色を瞳に滾らせる。
「どうして?僕は約束を守った……、どうして……!」
悔しそうに俺の胸を叩き、砕いたルビーの如き血走った眼に涙を一杯溜め、恨めし気に月を仰いでは繰り言に掴んだ砂を投げつける。あまりの狂乱ぶりに俺は抱き締めることしか出来なかった。
「ルーシェン、落ち着け。わけを訊かせてくれ」
抱き留める腕に力を籠めると、ようやく我に返ったルーシェンは途方に暮れて力なく俺に躰を預けてきた。その細さ、軽さ、この小さな躰にどれだけ抱えきれない想いを抱いて生きて来たのか、望まれれば一生、この手を離すまいと思うほど愛しくてならない。
「君は何者なのだ……?」
「……どうして、玉響 の逢瀬すら許されないのか……」
噛み合わない呟きも今は問わずにおこう……。
惹き込まれる紅い瞳。どこか懐かしいと感じながらも、やはり昏迷する記憶に目を背けて、俺はルーシェンの肩を抱き寄せ、その唇を指でなぞった。この子供にも接吻 けの合図だと判るらしい。初めはそっと啄むように、そして、しっとりと柔らかな唇に唇を重ねた転瞬、美しい瞳の紅を閉じたルーシェンが奇蹟を起こした。厚い靄が晴れ、俺は忘却の淵より全てを取り戻したばかりでなく……、
……ジュール……⁈
触れている躰は子供のものなのに、さらりと乾いた甘美な唇は愛しい恋人の……ジュールの唇に違いなく、俺を動転させた。
「ジュールなのか⁈……ジュールなのだな!」
何が起こっているのかを考える以前に足先から脳天まで突き上げるような歓喜が湧き、俺はルーシェンの細い躰を千切れんばかりに抱きしめていた。
「ノワ……、私が判るのか?」
「判る、判るさ、ジュール!どうなっているんだ、何が起こっているんだ?」
「ルーシェンの眼を見ても、私を感じることが出来るかい?」
「……ぁ?あぁ……」
面妖な景色ではあった。
心細げに見上げて来るルーシェンの紅い眼を見ても、もう記憶の混濁も頭の鈍痛もなく、俺はその小さな肩に手を触れながら、ジュールの思念を感受することが出来た。
「ノワ……。ルーシェンの眼が、お前から私の記憶を失わせていると気付いた時には慌てたよ。原因を鑑みれば如何にも誠実なお前らしい。紅い眼に私を重ねて心を寄せたルーシェンを、いつしか私の記憶を排除するまでに真摯に愛し始めていたのさ。けれど、私を忘れないでいてくれた。葛藤の末、記憶の混濁を起こしたのだろうね」
「俺がジュールを忘れるなど……」
「ずっと、名を呼んでくれるのを待っていたよ、ノワ。赤いアネモネをありがとう」
供花 に亡き人から礼を言われるのは何とも奇妙な感覚だった。
「花言葉は『君を愛す』……当然、知って供えてくれたのであろうな?」
「ぁ……いや……、いつも俺の寄宿舎に生けてくれた花だったから……」
「何と……。では、私からのメッセージも届いていないと言うことか。墓にあった紫のアネモネは私が置いたものだ。花言葉は『あなたを信じて待つ』会いたかったよ、ノワ。お前が訪ねてくれるのを13年も待っていた……」
不思議な感覚だ。俺は確かにジュールと心を通わせていて、ノワ、ノワと名を連呼する話し方も、腰に手をやって肩を竦める道化た仕草も涙ぐんでしまうほどジュール其の人なのに、鈴を振るような澄んだ声や首に噛り付いてくる月のように白い腕はルーシェンのものなのだ。
「……そうだ、ルーシェンは?あの子を、どうしたのだ?」
「お前が抱いているではないか」
「ジュール、この非科学的な現象をどう理解すれば良い?この子の躰に憑りついていると言うなら、今すぐ解放してやって欲しい。俺は幽霊とて驚きはしない。一目、貴方の姿を見ることは叶わないのか?」
「私には最早、実体がないのだよ。『神の子』を名に持つジュール・シェバリィーが魂を継いだまま『大天使ミカエル』を姓に持つ家に転生をした、と言えば解ってくれるかい?」
「転、生……?」
「幽霊でも憑りついたのでもない。ルーシェンは私の生まれ変わりだよ」
俄かには信じ難かったが、そう考えれば、ルーシェンの言動に辻褄の合う点は幾つもあった。
「頭が、おかしくなりそうだ」
「では、私を裸形に剥いてみるがいい。お前が架した十字架を今も背負っている」
いい歳をして紅くなったのはジュールの言葉にではない。その十字架が彼と初めて躰を重ねた夜に俺が爪で引っ掻いた傷だと思い出したからだ。
「何てものを残してくれたのだ」
「私にとっては宝物だよ。さぁ、もっと顔を良く見せてくれ。ノワの黒髪と、この消炭色 の瞳が大好きだよ。それに比べて私の髪の何と忌々しいことか。海の蒼が染みついてしまってね……、酷く醜いだろう?」
「そんなことはない。やはり、貴方は美しいよ……」
俯きがちになる俺の両頬を両の手で挟んだルーシェンがジュールの微笑みで優しく抱き寄せてくれる。海の底で、さぞ苦しい思いをして死んでいったであろうに、その愛は死して尚、俺を求め慈しんでくれるのだ。
「ジュール、貴方は俺に後を追わせることを許さなかった。貴方が『生きろ』と命じたから、俺は生き永らえてきたのです」
「ならば、命令は続行だ。あの海でノワ、最期にお前を救えたことは何よりも私の誇りだった。もし、真の愛を知らずに死んでいたなら、それこそ不幸と嘆いたか、或いは何の煩悶も無く運命 と受け入れたことだろう。死にきれなかったわけではないのだよ。ただ、私は強欲でね。愛を知ったばかりに神との契約を結んだのさ」
「転生の契約……」
「そう、条件つきで。これが中々に試練であったよ……」
ルーシェンの口から聞かされたジュールの試練とは、極めて絶望的な可能性の低い賭けに思われた。ルーシェン・ミィシェーレとして生まれ変わったジュールは、この街を出ることを許されず、俺を迎えに行くことも声をかけることも名乗ることも許されず、よって、待つしかなかったのだ。そして、奇蹟を起こせる機会は満月の夜のみ。しかし、事情も顛末も言動の一切を許されず、俺が気付いて名を呼ばない限り、全ては水泡に帰するはずだったという。
そして……、ただ待つことしか許されなかった神との約束事のうち、ジュールが最も懊悩した約束事が、もう一つ有るという。
「ノワ、私の身勝手で、お前にはまた辛い思いをさせることになるが……、私は……ルーシェン・ミィシェーレは30歳までしか生きられない。それでも!……私を、僕を傍に置いては貰えないだろうか……」
ルーシェンの紅い瞳が昏く揺らめく。
ジュールが亡くなった歳と同じ30歳まで……。あまりの衝撃に言葉を失くしたが、何を聞かされても俺の答えは決まっていたように思う。
「悲観はするまい。もう一度、貴方と生きる時を賜ったのだ。この奇蹟は神の祝福に他ならない」
項垂れる繊麗 な肩を抱き、溢れんばかりの愛おしさに深く深く接吻けると、青く艶やかな髪を撫でて俺は、そっとルーシェンの躰を押しのけた。
一歩退いて、その御前に右膝をつき、恭しく取った手の甲に忠誠のキスを落とす。
「俺はジュール・シェバリィーを愛しています。喜んでこの身を捧げましょう。一生を懸けて、今度こそルーシェン・ミィシェーレを愛し、守りたい」
一秒が永久にも長く感じられる接吻けに、はにかんだルーシェンの鮮麗なピジョンブラッドが一際、神々しく俺を見下ろした。
銀砂を踏みしめてふたり、浜を歩く。
月の船、東天白んで万象影を戻す。
「……大尉は此処へ何を探しに来られたのですか?」
ルーシェンの何度目かの問いかけに繋いだ手の脈打つ温かさを感じながら、俺はこう答えた。
「君を迎えに」
遠くで微かにボースンホイッスルが聞こえる。
「また、戦地へ赴かれるのですね……」
「すぐに戻るさ。君の背中の蚯蚓 腫れを確かめなくてはならないからね」
軽口にルーシェンは愛らしく笑う。
「ノワ、愛しています。生きて、きっと僕を迎えに来てください」
「あぁ、ルーシェン、俺も愛している。……では、」
「はい」
「……、行ってくるよ……」
Je t'aime de mon coeur.
Je vous suis attaché.
振り返ると、月を眠らせてルーシェンが笑顔で佇んでいた。
Fin.
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