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番外編 風邪ひきさん①
***
それは、俺が熱を出して、久々に一人で寝た夜だった。
(あー怠い……明日には引いてると良いけど……)
溜まりに溜まった仕事に胃をきしませながら、重たいまぶたを閉じる。
ウトウトと意識を半分手放した頃、キィ、と何かが開く音がしたような気がした。微かに聞こえる物音。身体の怠さのせいで、最初はあまり気にならなかったのだけど。
「……ん?」
ゴソゴソと明らかな違和感がして、流石に意識がハッキリとしてくる。サイドテーブルに置いたリモコンで部屋の明かりをつけるとそこには、枕を両手で抱えながら、今にもベッドに入ってこようとしている心の姿があった。
「あ……」
目が合った瞬間、心は悪戯がバレた子どものような、バツの悪い顔をした。数秒の間の後、俺はガンガンと痛む頭を押さえながら、なんとか上体を起こした。
恐らく、寝ぼけながらトイレにでも行って、無意識のうちに、いつもと同じようにこの寝室に来てしまったのだろう。
固まって動かない心の頬に手を添える。いつもは俺のより高い体温が、今日は心地いいほどにひんやりと感じた。
「どした?移ったら困るから、今日は別々に寝ようって言ったろ?」
そう言っても、心は俺の目をジッと見つめたまま微動だにしない。頬をスリスリと撫でてみても、ちょっとだけ摘んでみても、心はただただ俺に視線を注ぐだけだった。
(……?)
「ほら、戻って?」
不思議に思いながらも、両手で薄い肩を掴んで戻るように促す、ついに心はふるふると首を振って、ポツリと呟いた。
「やだ……」
「やだって……」
心の言葉が意外で、つい呆気にとられてしまう。
「……でも、さっきは普通だったろ?」
俺のことを心配した様子はもちろんあったが、別々に寝るのを嫌がった様子は、全くと言っていいほど見当たらなかった。
どんどん俯きがちになっていく幼い顔を覗き込むと、その大きな目には微かに涙が溜まっていた。
「え、ちょ、心?」
誰だって好きな相手の涙には弱い。俺は頭痛も忘れるくらいにビックリして、とっさに心の小さな頭を胸に抱えた。ふわふわの髪を何度も撫でて気持ちを落ち着かせようとするも、心は俺のトレーナーをギュッと握りしめてきた。
「先生が苦しいときは、側にいたいの……」
あまりに健気なその言葉に、心臓が跳ねる。思わずキスをしたくなった衝動をなんとか抑え、俺は頭を撫で続けた。
「心……気持ちは嬉しいけど、俺だって心にキツい思いさせたくないから……」
心が風邪で辛そうに寝込んでる姿なんか見たくない。この子には、ずっと元気でいて欲しいと思う。こんな風邪くらいで、ちょっと大げさかもしれないけれど。けど、この子には笑っていて欲しいから。
「だから、また朝にな?」
「やだ。寂しいもん……」
即答に苦笑いが漏れてしまう。
(なかなか頑なだな……)
「……しーん。そんな可愛いこと言われると、抑え効かなくなるんだけど?」
半分冗談で、半分本気。
病人が何を言ってるんだと思われるだろうが、仕方ないだろう?普段は聞き分けのいい子が、こんなにワガママになってる。しかも、俺のことが心配なのと、自分が寂しくて寝れないからって理由で。
そんな可愛いこと言われて嬉しくないわけがない。
(まぁ、流石に本当にしようとは思わないけど……)
こんな俺でも教育者の端くれ。教師として大人として、この状況で行為に移すほど、常識がなくはない……はずだったんだけど。
「我慢なんてしないでください……」
「し、ん?」
ゆっくりと見上げてくる潤んだ瞳。一見すると純真無垢なその瞳は、わずかに儚い色気を放っている。
「俺に風邪、移して……?」
極め付けの殺し文句と、誰もが聞き入る甘い声。
この誘惑に勝てる人間がいるなら、俺はその人に会ってみたい。
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