7 / 16
7.マトリ
体中の毛が逆立つ。カブフリの唇に肌を撫でられ、マトリは声にならない悲鳴で喉を震わせた。身をよじろうとしても、おおきな体にかぶさられて自由が利かない。押しのけようと力を込めても、カブフリはピクリとも動かなかった。
力の差をまざまざと感じたマトリは、絶望に青くなった。
「やめ……っ、カブフリ!」
残る手段は、やめてくれとうったえるだけだった。マトリの声に、カブフリは目も上げない。マトリの肌に唇を滑らせたカブフリは、マトリの腰ひもを外してズボンをずらし、やわらかなままの肉欲をつかんだ。
「っ、カブフリ」
「俺は、おまえを手に入れる。絶対にだ」
こわばったカブフリの声に、いつもと違う気配を感じたマトリは首を伸ばし、腹の底から声を上げた。
「こんなことをしたって、僕は手に入らない!」
「おまえは俺のものだ。いまからそれを、思い知らせてやる」
「うっ」
カブフリの手が動き、マトリは肉欲を強引に高められた。胸の先を口に含まれ、ゆるゆると肉欲を扱かれると、望んでいない快楽がゾワゾワと体の裡から湧き出てくる。吐き気すら覚えるほどに気持ちが悪いのに、体は欲に熱くなる。意識と本能のはざまで、マトリは歯を食いしばった。
「んっ、やめ……カブフリ、どうして、こんな」
「だれもが、おまえと俺がツガイになることを望んでいる。俺は人狼すべてを導くだけの力がある。その俺にふさわしいのは、マトリ。おまえだけだ」
「そんなの、勝手すぎる」
「おまえも俺の能力は認めているだろう。だからこそ、俺の後を追い続けてきたんじゃないのか」
「それは……っ、これとはまた別の問題だろ」
「おまえはオメガだ! 俺とツガイになれ……おまえのすべてを、俺によこせ」
「いやだ、こんな……こんなことをするような相手に……っ、は、くぅうっ」
おおきな手に包まれて擦られるマトリの陰茎が、しっかりと硬く育って先走りをこぼしはじめた。カブフリの指はそれを先端に塗り広げ、さらに液を絞り出そうとこねくりまわす。
「ひっ、ぁ、ああ……いやだっ、カブフリ……ああっ、いや、あっ、ああ」
首を振って、全身で拒絶を示すマトリを、カブフリは黙殺する。マトリの白い肌はほんのりと薄桃に染まり、意志に沿わない快楽に粟立った。
「ぁ、は、ぁあうう……っ、んぁ、いや、だ……ああっ、やめ……やっ、ぁ、あ、ああっ!」
はかない悲鳴とともに、マトリは絶頂を迎えた。腰を突き出し痙攣するマトリの頬に、カブフリの唇が触れる。
「マトリ……おまえは、俺にふさわしい。おまえに似合う相手は、俺だけだ」
ささやかれた息の熱さに、マトリは怯えた。圧倒的なカブフリの存在感と肉厚な肌の熱がおそろしい。
「マトリ」
呼びかけられ、唇を寄せられたマトリは顔をそむけた。
「なぜ俺を拒む。俺以外に、だれがおまえとツガイになれると言うんだ」
マトリの脳裏に、アユイの姿が浮かんだ。
「マトリ」
カブフリの声音がやさしくなった。押さえつけてくる力がゆるんで、その隙にマトリは狼の姿になった。すばやくカブフリの下から飛び出し、全速力で駆け抜ける。もしもカブフリが追いかけて来たら、逃げられない。カブフリの速力がどれほどのものか、マトリは知っている。全力で走っても、カブフリにはかなわない。
しかし、おとなしく捕まるつもりはなかった。
ひたすらに駆け抜けて、足がもつれて倒れるまで、マトリは止まらなかった。
「はぁ……はぁ」
息を切らして、よろよろと起き上がる。カブフリが追いかけてくる気配はなかった。鼻先を空に向けて、水の匂いを探す。疲れ切った体をひきずるように、小川にたどり着いたマトリは水を飲み、その場にうずくまった。
(どうして、あんなことを)
恐ろしさに、ブルリと全身を震わせる。あんなカブフリ、見たことがなかった。いつも余裕の笑みを浮かべて、悠々とした態度でいた。さきほどのカブフリは、なにかに追い詰められた顔だった。
(カブフリが? まさか)
笑おうとしたマトリは、笑いきれない自分に気がついた。いつも堂々としているカブフリも、周囲からの期待に応えなければとプレッシャーを感じているのではないか。その中のひとつが、自分なのではないかとマトリは考える。
(僕とツガイになるのが当然だと、周囲のだれもが思ってる。僕がそれを重荷に感じているように、カブフリも――? でも)
求愛をしてきたのはカブフリで、マトリはそれを断っている側だ。周囲からの圧力の質が違う。いつまでもマトリを手に入れられないカブフリを、陰で笑う相手がいて、それに対して苛立っているのだろうか。
(でも、だからといってこんなことを、していいわけじゃない)
水を飲んで落ち着いたマトリは、水浴びができる程度の深さのある場所に移動した。人の姿になって、川に身を浸す。走っている間に、カブフリに引き出された熱は引いていた。流れに乗ってカブフリに襲われた記憶が消えてしまえばいいのにと、川の水で肌を擦った。胸のあたりに、薄いうっ血が残っている。
「僕は」
反応をした自分の肌が恨めしい。カブフリの手の中で達してしまった。なんて汚らわしい体だと、マトリは唇が青くなるまで川で体を洗い続けた。
鳥肌が立ってようやく川から上がったマトリは、獣の姿に戻って森の草木に体を擦りつけた。カブフリの匂いが肌に残っている気がして、気持ちが悪い。
カブフリのことは尊敬している。彼の能力の高さやカリスマ性を認めている。だからこそ、子どものころは「ああなりたい」と努力した。それをカブフリも周囲も勘違いしている。
恋心とあこがれは似て非なるものだ。
(僕は、アユイが好きなのに)
それを口に出せない自分がなさけない。アユイとのいまの関係が壊れるのが怖ろしい。そんな自分のふがいなさが、今回のことを引き起こした。
(でも……それでも、あんなふうに乱暴をするなんて)
信じられなかった。たしかにカブフリは自信家で、時々ちょっと居丈高に感じることがある。けれどだれかを傷つけたり、無理やり言うことを聞かせたりなんてことは一度もなかった。だからこそ、だれもがカブフリを次代のリーダーだと認めている。
(怖い)
またおなじことがあったらと、マトリはしっぽをまるめた。このまま森に身を潜めていたい。集落に帰って、カブフリが待っていたらどうしよう。どうしてカブフリは、追い詰められた顔であんなことをしでかしたのか。
わからない。
マトリは森の中をしばらくさまよい、こうしていてもしかたがないと腹をくくって、カブフリに襲われた場所に戻った。木の枝にマトリの服がかけられている。カブフリの匂いも気配も感じられない。それでも警戒をして服に近づき、人の姿になって着替えた。
周囲を見回しても、服のほかにはなにもなかった。カブフリの謝罪かなにかあるのではと、しばらく探してみたが見つからない。
(いったい、なにを考えているんだ)
わからない。
マトリはカブフリの気配を気にしながら、目的の薬草や木の実を摘んで集落に戻った。
「おかえり、マトリ。アユイから魚が届いているわよ」
子どもを抱いているメスに声をかけられて、ありがとうと返事をする。
「これ、子どもが夜泣きをするようなら、煮だした汁を飲ませればいいから」
「ありがとう、助かるわ。――あら?」
クンッと鼻を動かされて、マトリはわずかに後じさった。
(カブフリの匂いが、残っているのか?)
メスはつややかに瞳をかがやかせて、声を潜めた。
「体調は、大丈夫?」
「え」
「はじめてでしょう? 発情期を迎えるのは」
キョトンとしたマトリは、彼女に袖を引かれて小屋の影に連れていかれた。
「はじめは、自分がどうなっているのか、よくわからなくなるものだけど。でも、それは自然なことだから怖がらなくてもいいのよ。奇妙な衝動にかられるけれど、大切な人とツガイになる準備が整ったってことだからね。それと」
言葉を区切った彼女は、マトリに耳を近づけるよう目顔で合図した。彼女の唇に耳を近づけたマトリの顔に、赤子が手を伸ばしてくる。
「発情期の匂いにつられて、妙な目を向けられることもあるけど、それだけ魅力的だってことだから。それがいやなら、はやくだれかとツガイになるか、発情期がおさまるまでは、あんまりオスと近づかないようにしたほうがいいわよ」
赤子の手に顔中をまさぐられながら、マトリは彼女の言葉を吟味した。
「それって……僕が発情期の匂いを出している、ということ?」
「そうよ。まだそんなに強くないけど、これくらい近づいたらハッキリわかるわ」
キャッキャッと赤子がはしゃぐ。笑顔で赤子の頬をつついて、マトリは彼女を見た。
「発情期の匂いとか、僕はよくわからないんだけど」
「それはそうよ。マトリはオスだもの。だから、そういうことを教えてもらっていないのね。よかったら、お茶を飲んでいかない? 元気なオスはみんな狩りに出かけているから、ゆっくりそういう話ができるわ」
マトリは彼女と赤子を交互に見た。赤子はニコニコとマトリに笑いかけてくる。
「知っておいたほうが、なにかと便利というか、知識がないままだと困ることもあると思うの」
小首をかしげた彼女の親切を、マトリは受けることにした。
赤子を受け取り、あやしながらお茶の準備をする彼女をながめる。かろやかな動きはたのしそうだ。
「ほんとうは、私が話し相手に飢えていたのよ。だから、ちょうどよかったわ」
ウフフと笑った彼女が、テーブルにお茶と炒った木の実を並べて、マトリの腕から赤子を抱き上げた。
「さあ、座って」
彼女は赤子を寝台に乗せて戻ってきた。席に着いたマトリは、勧められるままにお茶に口をつける。お茶は花の香りがした。
「それで、発情期のことなんだけど。そろそろツガイになりなさいっていう、体の変化だって私たちメスは、成人の儀式の前に教わるのよ」
「へぇ」
「オスはメスの発情の匂いにつられて、興奮をするんですって。だから、オスには発情期というものがないらしいの。――感情が高ぶって、そういう気持ちになったりもするらしいけど。それは、メスもそういうことがあるから」
話しながら、ほんのりと頬を染めた彼女をマトリはまじまじと見つめた。
「そんなに見ないで。恥ずかしいわ」
「あ、ごめん」
あわてて目を伏せたマトリは、ドギマギしながら木の実をつまんで口に入れた。
(そういう経験があるんだな)
その結晶が赤子なのだと、マトリは横目で乳児用のちいさな寝台を見た。
(僕も、アユイとツガイになったら)
腕の中にあった赤子のぬくもりと重さを思い出して、マトリは真っ赤になった。
「あらあら」
クスクスと彼女が笑い、マトリはますます赤くなった。乱暴に木の実を噛み砕いてお茶を飲み、ひと息ついて顔を上げる。
「発情の匂いにつられて興奮って……それって、怖くなかったの?」
「そうねぇ。怖いけど、ちゃんとツガイになる相手が決まったら、ほかは遠慮をしてちょっかいをかけてこなくなるから」
たのしげに顔をのぞきこまれて、マトリは目をぱちくりさせた。
「なに?」
「だからマトリも、はやくカブフリとツガイになっちゃったほうがいいわよ」
一瞬でマトリの顔がゆがむ。おどろいた彼女は口元を手で隠した。
「やだ。私、なにか悪いことでも言った?」
「いや、うん」
言葉を濁したマトリの脳裏に、乱暴をしてきたカブフリの切羽詰まった表情が浮かぶ。
(あれは、僕が発情の匂いをさせていたから?)
それだけではない気がする。
「あの、こんなことを言うと、おどろかれてしまうだろうけど……僕は、ほんとうにカブフリとツガイになる気はないんだ」
目をまるくした彼女に、苦々しい笑顔を向けてマトリは言う。
「ツガイになりたい相手は、べつにいるんだ」
全身でおどろく彼女に、マトリは秘密だよと唇に人差し指を当てて示す。うなずいた彼女は、好奇心を顔中に広げて身を乗り出した。
「それは、だれなの?」
ゆるくかぶりを振って、マトリはさみしげにほほえんだ。
「言えない。相手にも迷惑がかかるから」
「その人は、マトリの気持ちを知っている?」
「知らない……と、思う。きっと、皆とおなじで僕とカブフリがツガイになればいいと考えているんだ」
「そう。でも、マトリはその人とツガイになりたいのよね」
「ほかのだれとも、ツガイになんてなりたくないんだ」
「だったら、気持ちを伝えるしかないんじゃない?」
指を組んだ彼女に祈るように見られて、マトリはため息をこぼした。
「怖いんだ」
「なにが」
「いろんなものが壊れてしまいそうで」
「でも、このままではいられないでしょう」
「それは……うん」
「いまのまま、カブフリを断り続けても、なんの解決にもならないわよ。怖いだろうけど、ちゃんと意思表示をしないと。気持ちの整理がついていないから、カブフリを受け入れていないだけなんだって、だれもが思っているわ」
「うん」
「あきらめてカブフリのツガイになる気もないんでしょう?」
「なれないよ」
「なにかあったら、うちに来て。このことは、だれにも言わないから。どうすればいいのか、しっかり考えないと。発情期を迎えて、なしくずしにカブフリとツガイになってしまわないように、ね」
「うん……ありがとう」
「ううん。勝手にマトリの気持ちを決めつけちゃってて、ごめんなさいね」
首を振ったマトリは、乳児用の寝台に目を向けた。ふくふくとしたぬくもりを思い出し、自分の腹に手を乗せる。
「帰って、ゆっくり考えてみるよ」
席を立ったマトリは、薄い笑顔であいさつをして小屋を出た。
ともだちにシェアしよう!