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BABY BLUE

 義弥(よしや)が翌日に仕事の時は、裕一(ゆういち)は幾らか努めて加減する。だが今日は、何ヶ月ぶりか、二人揃って朝寝坊の出来る日だった。まだ少し花冷えのする朝、裕一は宝物を抱くように両腕の中にしっかり、文字通り可愛い後輩の義弥を閉じ込めている。いつも同じ時間に鳴る筈の目覚まし時計は、止められていた。何度も裕一に穿たれ、心地よい疲労に任せて、今日は義弥も寝坊する筈だった。  ――しかし。いつも耳にしている、裕一の軽いイビキの他に、耳に入ってくる音がある。それは、義弥の夢うつつの壁をノックし続けていた。 「ん……」  薄く目を開けると、鼻先が触れ合う距離に、裕一のそれがあった。常通りの光景に、安堵して再び目を閉じようとしたが、一際大きく上がったその"声"が、義弥をうつつに引き摺り出した。最初は昨夜の名残にぼんやりと目を泳がせていたが、やがて焦点を結ぶと、その"声"にハッと起き上がった。ゴロリと、義弥に腕を回していた裕一が反転し、微かに呻いたが、まだ夢の中、小さく義弥の名を呼んだ。  始めは、盛りのついた猫のようにも聞こえた。だがこのアパートはペット禁止だ。そして、かつてよく耳にした"声"であると気付き、義弥はベッドを抜け出すと、戸口へ急いだ。他の部屋ではない。それは、確かに戸口の向こうから聞こえているのだった。戸惑いに、裕一を起こそうかどうしようか、しばらく顔を往復させて逡巡した後、義弥は意を決して玄関の扉を開けた。     *    *    * 「……いち! 裕一!!」  大音量で起こされた裕一は、開けっ放しの戸口から差し込む陽光と冷気に、ひとつ身震いしてから、手の甲で瞼を擦った。大声で起こされるのはいつもの事なので、特に気にならなかったが、ややあって、今日が二人揃っての休暇なのをかろうじて思い出した。サイドテーブルの時計をチラリと見ると、そのデジタル表示は、まだ『07:16』。これでは、仕事のある日より早い。 「なんだよ、義弥……今日休み……寒みぃ……」  苦情を入れたが、義弥が、扉を閉める事もおはようのキスをしてくれる気配もなかった。ただ黙って、突っ立っている。いや、義弥は黙っていたが、別の"声"が、非日常の始まりを宣言していた。 「……ん?」  逞しい上半身が冷気にさらされている事もあり、寝起きの悪い裕一もようやく身を起こす。すると、逆光の中に、ベビーブルーのバスタオル玉を片手に、一枚の紙切れを裕一の方へ向けて突き出している義弥が目に入った。まだ覚めやらぬ頭で、その紙切れを受け取る。そこには、パソコンで打たれた短い文章が、ただ事実だけを告げていた。 「んー。……ん!?」 「どうするつもり、裕一!」 「いや、何かの間違いだろ、俺がそんなヘマ……」 「という事は、身に覚えがあるんだな……」 「あっいや……そういう意味じゃ……!」  一枚の紙切れと、ひとくるみのバスタオル玉が、甘くなる筈の二人の休暇を一変させた。紙切れには、こう書かれてあった。 『あなたの子よ、裕一。名前は(つよし)』  眩しさに見えていなかった義弥の表情が、目が慣れて見えてくる。その顔は、泣いても拗ねてもいなかった。キッと切れ上がったまなじりを上げ、裕一に答えを迫っている。 「どうするつもり」 「どうって……み、見せろ」  義弥が抱えていた包みを、少し傾ける。ベビーブルーのバスタオルの中には、同じくベビーブルーのジャンプスーツを着た赤ん坊が、母を求めて泣いていた。茶色がかった髪に天然パーマ、スッと通った鼻筋が、幾らか裕一に似ていない事もない。だがまだ数ヶ月と思われる赤ん坊を見て、裕一は俄然声に力を込めた。 「……義弥。俺は、お前と付き合ってから、浮気をした事がねぇ」 「嘘」 「嘘じゃねぇ。俺たちの関係がバレないように、たまに合コン行ってこいって言ってるのは、お前だろ」 「そうだけど……」 「いつも一次会で帰って、アパートに寄るか、電話してるだろ」 「そう……だけど……」  義弥は窺うように裕一の瞳の色を見るが、彼はけして目を逸らさなかった。  確かに、裕一の言は正しかった。付き合う前の彼の乱行を知っていたから、つい疑ってしまったが、挙動にも怪しい点はない。と、裕一が派手にくしゃみをした。 「あ……ごめん」  扉を閉めるのも忘れるほど怒っていた義弥だが、いつもの凛とした優しい声色に戻ると、慌てて閉めに行った。すぐに帰ってくると、裕一が風邪をひかないよう、布団を首元まで上げてやる。 「ん、サンキュ」  素直に礼を言い、そのままおはようのキスをしようと裕一は掌を義弥の首筋にかけたが、その二人の間で、一際高く赤ん坊が泣きじゃくった。 「あ……」 「どう……するか義弥……」 「……これ、おなかが空いてる時の泣き方だ」 「何で分かる?」  キョトンとした裕一に、困り顔で義弥が答えた。 「姉が二人いるんだ。甥っ子も二人」  半ば開き直ったように、ガシガシと寝癖の付いた天然パーマをかき乱した後、裕一は言った。 「じゃあアレだ。今日のデートは、ベビーショップだな」     *    *    *  ベビーショップだけあって、男性用トイレにも、授乳・オムツ用のベビーベッドがあったのは、二人にとって幸いだった。義弥が選んだ粉ミルクを、義弥が選んだ哺乳瓶で、剛に含ませる。ずっとぐずっていた剛だが、義弥が言い当てた通り、勢いよく哺乳瓶に吸い付いた。っく、っく、と喉を鳴らして、あっと言う間に飲み終えると、今まで泣いていたのが嘘のように機嫌良く笑った。背中をトントンと軽く叩きゲップをさせるその間まで、ただ眺めている事しか出来なかった裕一だが、大慌てで作ったミルクのパッケージなどの後始末をする為に、 「ちょっと預かって」  と剛を渡され、途方に暮れたような顔になった。 「裕一、首を支えて。落とすなよ」  言われた通りにするが、何だか足元が覚束ないような、心細い心地になる。大抵の事は――特に夜――主導権を握っている裕一だからこそ、情けない表情で、ダァダァと笑う腕の中の剛を見下ろした。落とすなと言われても、力加減を間違えれば、折れてしまいそうに柔らかい。 「……あっ」 「どうしたの裕一?」 「生あったけぇ……」 「あ……じゃあ、オムツも買いに行かなきゃ」 「こ……これ」 「ごめん、重いだろうけど、オムツと着替えも選ぶから、ちょっと抱いてて」 「いや、軽いけどよ……」  日ごろ義弥を軽々とベッドまで運ぶ裕一だから、言葉通り、不安になるほど軽かった。そう、裕一は不安なのだ。覚えもないのに、いきなり『父親』役を任されて。その点、義弥は切り替えが早かった。 「グリーンが良いかな。淡い色なら、女の子でも着られるし……」  言ってから、クスリと笑った。 「あ、姉さんたちが、二人目のお下がりを考える癖が付いてる。俺たちには、二人目は出来ないよな」 「よく冷静でいられるな、義弥」  オムツが濡れた事で、またぐずり始めた剛を抱いて、裕一は不慣れに両腕を揺り篭代わりに僅かに揺らしていた。それを見ると、義弥は可笑しそうに笑った。 「大丈夫だよ、裕一。オムツを替えれば、また泣き止むから。赤ちゃんは泣くのが仕事だから、慌てなくて大丈夫だよ。……ふふ、何て顔してるんだ、君の方が泣きそうだな」  普段はあまり人前でスキンシップを取りたがらない義弥だが、微笑みながら軽く頬に触れられ、思わず裕一はその母性の強い笑顔に一瞬、見惚れた。 「どうしたの?」 「いや……。お前、良い母親になるよ」  しかしそう言われると、義弥は仄かに頬を染めた。 「何言ってるんだよ裕一……」 「あ、いや。その」  場所が場所だけに、周囲は幸せそうな若い夫婦で溢れている。その中での、ひとに聞かれたら何と思われるか分からない発言に、二人はギクシャクと瞳を逸らした。     *    *    *  周囲の目が急に気になりだした事もあって、結局義弥は、一番最初に手に取ったライトグリーンのジャンプスーツを着替えに選んだ。手早くきっちりオムツを替えてやると、再び剛の機嫌も直る。奇妙な三人の買出しは終わり、帰りは何だか照れくさくなって、口数少なめに、だが花見がてら散策でもするように、少し遠回りして川沿いをゆっくりと歩いてきた。赤ん坊を抱き慣れた義弥の腕の中で、剛はうつらうつらと身動きをする。 「おっと」  春一番の名残に吹いた風に飛ばされて、花弁が剛の口に入ってしまいそうになると、自然と裕一が手を伸ばして取り除いた。義弥が切なげに笑った。 「ん? 何だ?」 「いや……。俺が女性だったら、こんな風になってたんだろうなって」  今朝見せたように、義弥は裕一が女性と浮気するだろう事を、常に念頭においていた。何も残せない、自分を悔いて。何度目か、発された言葉に、裕一が食い気味に割り込んだ。 「馬鹿。俺は、お前が、義弥が好きなんだ。男女は関係ねぇ」 「でも……俺たちは、いずれどちらかを独りにしてしまう。子供でも出来れば……」  ――パンッ。  乾いた音が、小さく鳴った。義弥の頬に。力は込められていなかったが、初めて裕一に手を上げられた事に驚いて、義弥は両の瞳を見開いて立ちすくんだ。裕一は、行く手に立ち塞がるように向かい合い、瞬間、赤ん坊ごと義弥を抱きしめた。すぐに身を離すと、義弥の二の腕をやんわりと掴んで真摯に話す。 「じゃあ、こいつを育てるか? 何かの縁があって俺たちのトコに来たんだ。お前は……お前だから、愛してるんだ」  ひと気のない平日の川沿いだが、二人――いや、三人だけの秘め事にして囁く。義弥は、我に返って、その言葉に俯いて赤くなった。 「うん……。うん、裕一。ごめん……」 「分かったんなら、良い」  うららかな季節の中、名も知らぬ花が咲く川沿いを、ゆっくりとゆっくりと三人、歩む。その姿はもう、奇妙ではなく、確かに幸せそうで。 「裕一」 「ん?」 「俺……」 「ん」 「……いや……何でもない」 「?」  ひょいと裕一が義弥の横顔を覗き込むと、先程よりももっと赤くなって俯いている。その様子に、裕一は忍び笑うと、義弥のサラサラした黒髪をぽんぽんと撫でた。 「言わなくっても分かるから、安心しろ」 「え……うん……」  いつの間にか、アパートに着いていた。無下に警察に置いてくるのも気が引けて、取り敢えず一日、親代わりになっただけの筈が、こんな結末になろうとは、と義弥は幸せを噛み締めていた。  赤ん坊と、暖かな気持ちを抱いて、階段を上がる。 「ちょっと、遅いわよ、お二人さん!」  目的の階に上がりきる前に、聞き慣れた声が降ってきた。 「……新垣(にいがき)……」 「さん……」  陰で『お局様』の悪名高い、新垣だった。会う約束をした覚えはない。第一、アパートを教えていない。休暇を二人で過ごしているとバレた事に、気付く間もなかった。新垣が、マシンガントークで喋りだす。 「午前中だけで良かったのに、なぁにやってたのよ。幸せそうなカオしちゃって! 幸せな家庭に波風立ててやろうと思ってたのに、逆に幸せ提供しちゃったみたいね、あー、ツマンナイ事しちゃった。早く返して頂戴」 「「へ?」」 「だ・か・ら。あたしの子なの。父親は勿論、部長よ!」 「「へ!?」」  呆然とする義弥の腕から剛を掠め取ると、義弥よりも慣れた手付きであやし始めた。 「つよぽん、ママよ。寂しかったわよねー? ヨチヨチ」 「ちょっと待て! お前の子の訳ねぇだろ。誰の子なんだ!?」  思わず裕一が、先輩後輩の垣根を越えて、怒声を上げた。こんな喋り方だが、新垣はれっきとした男性だ。 「何よ。やっぱりツマンナイわね。従妹から預かったのよ、午前中だけ。あぁら、着替えさせてくれたの? なら、コレ買いに行って、選ぶのに迷ってたって事にすれば良いわね、ありがと!」  声もない義弥の代わりに、裕一が再び怒鳴った。 「お前なぁ! やって良い冗談と、悪い冗談の区別も付かねぇのか!?」 「まっ、恐いわね~、つよぽん。ヨチヨチ」  日ごろから自分の子扱いしてるのか、よく懐いた剛の頬に、チュッとキスを落としてから、上目遣いに新垣はリップクリームで光る唇だけで笑った。 「今日怒るなんて、無粋もいいトコだわ。今日は? 何の日?」 「何の日だと?」 「……あ!」  怒りの余り想像力の欠けた裕一の代わりに、義弥が気付いた。目ざとい義弥に、ひとつウインクして見せてから、新垣は得意げに披露する。 「そう! エイプリルフール!」  ポカンと見送るしかない二人を残し、高笑いしながら、新垣は細いヒールで器用に階段を下っていった。 「……義弥」 「へ?」  腕の中に半日収まっていた温もりを無意識に嘆き、掌を見つめていた義弥に、裕一がぶっきらぼうに声をかける。 「それでも俺は、お前を愛してんだからな!」  顔も見ないで言って、合鍵で素早く部屋の中へ入ってしまう。 「……裕一……」  あれほど大胆に発された告白は、小さな訪問者が裕一の背中を押したものだったのか。子供はいなくなってしまったが、そこには確かに、『幸せ』が残った。裕一は、部屋の中でどんなカオをして待っているのだろう。想像して、義弥はふふと含み笑った。 「……裕一!」  扉を開け、義弥は笑顔で裕一の後を追いかけた。 End. 【オフィシャル作家への意気込み】  BLを書くのが、心から大好きです。  ちょっとした萌えフレーズから妄想したり、与えられたお題からお話を膨らませたり。  時には、断片的に覚えている夢(眠っている時に見るやつ)から、十万字まで引き伸ばしたりします。  短編(一万字以下)なら一~二日、長編(十万字くらい)なら二週間~一ヶ月で書き上げる事が出来ます。  出来る事なら、全ての時間をBL創作に捧げたいくらいです。  『BLはファンタジー』だと言ったどなたかの言葉は的を射ていると思っていて、読んだ方が、ほっこり幸せになったり、キュンと切なくなったり、『感動』出来るファンタジーな愛に溢れた作品が書けたら幸いだと思っております。  BL好きな皆さんを満足させられるよう、日々頭の中の引き出しを覗いては、新しい言葉の原石の欠片がないか、探しております。  BL馬鹿と呼ばれたい、圭 琴子でした。  心の琴線に触れるものがありましたら、是非投票よろしくお願い致します!

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