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第1話
「んっ」
軽い息苦しさに片倉健人(かたくらけんと)は何故か、閉じられている目蓋を眉間の皺の方へと押し上げた。すると、目に飛び込んできたのは若い男の顔だ。骨の輪郭がはっきりとしているややシャープな顎と高めの鼻をしているが、垂れた目が優しげで、美しい顔立ちをした男だった。
「ンんっ! はぁ、んっ」
その美しい顔が再度、片倉の顔へ近づくと、唇を奪った。それは先程の唇と唇が押しつけられているものとは違っていた。男の舌が片倉の口内へと入ってきて、片倉は反射的に顔を男の舌は勿論、その唇から逃れるように顎だけを背けた。
顎だけ。片倉としては、本当は身体ごと捩りたかったが、顔から胴体へと向かって腕から掌、脹脛から踝へと伸びてなど、首という首にはベルトのようなものが巻きつけられていて、片倉の身体の自由は失われていた。しかも、それに加えて強い眠気もあり、片倉は幾度となく目蓋を閉じてしまいそうだった。
「先生は俺と違って、体も鍛えているようなので。さっきの珈琲に睡眠薬を少し入れて、縛らせてもらいました。本当はこちらとしても、望んだ形ではなかったけど」
男はあっさりとした態度で口にして、眠気で意識が半ば宙に浮いてしまったような片倉のこめかみから顎の先端までをなぞるように見る。
「涙で潤んだ先生の横顔も素敵ですよ」
男の長くて、細い指で片倉は顎を捕らえられると、唇や舌は言うまでもなく、唾液や意識さえも奪われてしまった。
男に抵抗する事も叶わず、されるがままにされた。そんな事があって、何時間くらいが経ったのだろうか。
片倉が再び目蓋を眉間の皺の方へ押し上げると、その部屋には先程までいた男はおろか、誰もいなかった。
「夢……だった?」
子供のような稚い様子で口にすると、片倉は横になっていたソファからのろのろと身体を起こし、テーブルを見た。テーブルの上に置かれてあったのは時計と片倉がこの家に来た時に着てきた背広だ。それと、何かの封筒のようなものがあった。時計には5月3日と表示されていて、5時を少し過ぎたところのようだ。ソファの背に向かい合うようにある窓からも夕日の光が差し込んでいて、どうやら時計は正確らしい。片倉も何日か前からかゴールデンウィークになり、春から夏へ近づき日が長くなっていっている、と感じたばかりだった。
時計や背広と一緒に置かれていた封筒を片倉は何の気なしに掴み取ると、緩慢な手つきで開ける。封筒の中には何枚かの写真があり、そこに写っているのは肌を晒し、身体の隅々に吸いついたような赤い痕が残り、白い体液で滴る片倉だった。
「これ……」
月並みではあるが、片倉は驚いて、言葉というより、声そのものが出なかった。生々しいが、現実感のない出来事をその何枚もの写真によって突きつけられ、彼はテーブルから背広をひったくるように手に取ると、玄関へ急いで出て行った。
「はぁ、はぁ……」
この家へ来たときに脱いだ靴を履き、扉を引く。自宅のアパートまで全力で走り、自宅の鍵を開ける。自宅へ入り、自宅の鍵を閉めた。
睡眠薬やベルトで身体の自由を奪われて、その後にされたであろう恥辱に頭が混乱してはいたが、片倉はそれだけの事をする。その後はぷつりと糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。
片倉はこの4月から地方にある小学校教諭になったばかりの青年だった。平たく言えば、小学校の先生で、彼が人生で初めて担当するクラスは2年2組。生徒の数は昨今にしては多く30人の学級だった。
「今日の学活は学級代表と係を決めていきたいと思います」
学活。中学高校で言うところのホームルームの時間。片倉はそんな事を言うと、新品の白いチョークを右手で掴み、黒板へ『学級代表』という文字と10数個の係の名前を書いていく。名称は学校によって違うのかも知れないが、学級代表をまずは決めなければならない。
「最初に学級代表を2人、決めます。誰か、なって欲しい人を推薦でも良いですが、できれば、自分からなりたいと立候補するのが良いですね」
小学校の低学年の児童達に「推薦」や「立候補」と言って、通じるのかは分からない。だが、あまり子供扱いをすべきではないと思っている片倉は丁寧に言葉を尽くす。
片倉が「立候補」の意味を説明し終えると、小さな手が1つだけ上がった。
「はい、久川さん」
彼女の名前は久川灯英(ひさかわともえ)といった。小学2年生だという事を加味しても、小柄で、子猫のようにやや吊り上った大きな目と長い髪が印象的な可愛らしい女の子だった。
「それでは、1学期の学級代表は久川さんと国富(くにとみ)さんに決定します」
片倉が学級代表を決めようと言い出してから十分程が経ち、久川灯英が満票で、それに続いて、国富という男の子が次に多い票数を得ていた。ちなみに、男女を問わずに敬称が「さん」なのもこの学校によっては方針が違うのかも知れないが、この学校の方針に倣っての事だった。
「次にこの2人を中心にしてみんなで係を決めてもらいます。保健係は2名、体育係は……」
それから、片倉は時間はかかるが、児童達に係を決めさせた。それが終わると、プリントを配った。
「学級通信が1枚と家庭訪問の希望調査です。特に、家庭訪問の希望調査はお母さん、お父さんなどの都合もありますから今日、絶対に渡して、20日までには先生に渡してください」
若干、低い高いと個人差もあるが、「はい」と子供特有の伸びのある声が教室中へ響き、この日の学活の時間は終わった。
「今日はすみません。学校も先生もお休みなのに無理を言ってしまって」
自宅に小学校まで行くのに乗っていたバイクを置き、滅多に着ない背広姿になって、久川写真館の横を通る。個人でしているらしい小さな写真館で、あっという間に過ぎると、久川と彫り込まれた表札の家があり、インターフォンの前で「××小学校の片倉です」と名乗った。片倉に応じたのは片倉くらいの若い男性、久川灯英の父・久川港(みなと)だった。
「いえ、久川写真館さんにはお世話になっていますから。お気になさらないでください」
片倉は久川に家へ招かれると、通されたリビングのソファに腰をかけた。持っていた皮製の鞄から先程、学校へと取りに行ったファイルを手にする。すると、久川はダイニングから珈琲の入ったカップが2つ、乗ったお盆を持ってきた。
本来はお茶菓子などと同様に飲物もあまり手をつけないように。という指導が教員にはされているのだが、自分と同じくらいの年齢くらいの男性が淹れてくれたのだと思うと、片倉は珈琲を断る事も口をつけない事もできなかった。
「いただきます」
片倉は珈琲と一緒に出された砂糖とミルクで味を調えて、カップへ唇をつける。すると、久川の唇が動いた。
「失礼ですが、片倉先生はおいくつですか?」
もしかして、我が子の属しているクラスを担当しているのが新任教師だという事で、心配しているのだろうか。片倉にとって久川灯英の家庭訪問が最後で、それまでの家庭訪問でもそのような事はなかった。だが、そういった事を思われる事もあると聞いた事もあり、気後れのないように答えた。
「今年で26歳になります」
新任教師とは思えないくらい、片倉は毅然としていた。ただ、久川の返事は思いがけないものだった。
「やっぱり。私は今年で28になるんですけど、もしかして、あまり変わらないんじゃないかなって思ったんですよ。ってすみません、関係のない事を」
「いえ、構わないです。早速、灯英さんの学校での様子ですが」
片倉は珈琲のカップの代わりにファイルを持ち替えると、本題へと入った。
落ち着いた声質に、穏やかな口調をしている久川の相槌。それは彼が家へと招いてくれた時や珈琲を淹れながら、休日の家庭訪問になってしまった事を詫びてくれた時、先程のたわいもない事を話してくれた時にも片倉は思っていたが、職務の一環だという事や休日を返上したという事を忘れるくらい心地の良いものだった。
「そうですか。あの子が学級代表になったというのは聞いていたのですが、頑張っているようですね」
「はい。あとは大人しそうな雰囲気はありますが、色んな友達といるのもよく見かけますし、授業中に率先して、手を挙げてくれたり、宿題もただしてくるだけではなくて1つ1つ、綺麗な字で書いていたり、日記とか感想といったものも文章がしっかりと書いていたりするのも印象的です」
自分の言葉に一瞬だけ、久川の表情には翳りのようなものを片倉は感じたが、久川はその口調と同様に穏やかに微笑んだ。
「それは夏英(なつえ)さんのお陰かも知れないですね」
「夏英さん……?」
「あ、妻の双子の妹さんです。あの子にとっては叔母さんになりますが、よく懐いていますよ。このゴールデンウィークも夏英さんと彼女の旦那さんとイギリスの方に行って」
久川はそこで言葉を切ると、落ち着いた色合いをしたシェルフの上に1枚だけ飾っている写真の方に目線だけを向けた。片倉も久川が珈琲を淹れている時にちらっと目にしたのだが、今より少しだけ若い久川が生まれたばかりの灯英を抱いて、その横にはお互いによく似た女性2人、男性1人が笑っていた。おそらく、彼女達が奥さんと夏英さん、それに夏英さんの旦那さんなのだと片倉は思った。
「妻もカメラマンでしてね。私と出会う前から海外で活動していたんです。さすがにあの子を産んで、私にとっては義理の母になりますが、彼女の母親の葬儀が終わるまでは日本にいましたけど」
久川の話はそこまで進むと、先程の灯英と夏英、それに、夏英の夫とのイギリス行きの件に戻った。
「実は妻の乗ったかも知れない船がイギリス近くで沈んで、それ以降、彼女から何の連絡もないんです」
久川が続ける話に片倉は何も言えなかった。それは単に重々しい話だからという訳だけではなく、耳で聞こえた事を脳が理解をしないという感じだった。しかも、
「亡くなった方も大勢いて、何日間も捜索もされたんですが、彼女の遺体は最後まで見つからなくて」
その久川の様子は話している話題にそぐわず、最初、出会った時のように穏やかで、心地の良いものなのは変わらなかった。まるで、眠る前に子供が本を読んでもらうような感じが片倉にはしていた。
「勿論、その船には乗らなかったという事も考えられますが、それから、4年。毎年、あの子へ贈られていた誕生日プレゼントは言うまでもなく、葉書の1枚も送られてこなくなった」
片倉は久川が話すのを聞きながら、自分の散漫になってしまっている意識が急激に離れていくのを感じた。
シャープで、骨の輪郭がはっきりとしている顎に、高めの鼻。声質や口調と同じように優しげな垂れた目。美しい顔立ちをした久川は何かを言うと、最後に「そんな事があるでしょうか?」と笑っているように片倉には見えた。
翌朝、片倉はアパートのベッドの上で背広を脱いだだけの、昨日、久川家へと赴いた時の姿で横になっていた。自分の教え子の家庭訪問へ行くと、その父兄から身体の自由を奪われて、キスをされてしまった。そして、一方的に愛撫されて、自分か、久川のどちらの体液かは分からないが、自らの身体にかかっていた。常識的に考えると、やや考えにくい出来事だった。しかしながら、自宅へと持って帰ってきたしまった、原則学校で保管する筈の個人情報の掲載されたファイルやタオルか何かで白い体液は拭われたものの、赤く残る吸い痕はその出来事を片倉に再認識させた。
「とにかく、ファイルを学校に戻しに行こう」
まだあまり上手く動かない脳でそれだけを考えて、自分へ言い聞かせるように口にすると、片倉は着ていたワイシャツやスラックスを脱いだ。それに、シャワーも浴びた。
今日だけは誰にも会わないように。そんな淡い期待を込めながら身支度を済ませると、片倉はアパートの外へと出た。
「片倉先生」
空は初夏の晴れた日に相応しく、気持ちの良い青だった。それに対して、白の、大きめの車が片倉の目に飛び込んでくる。運転席のドアから1人の男が出てきて、片倉に向けて会釈した。
「片倉先生」
と、もう1度呼ぶ男は他の誰でもない、久川港だった。
白く、大きめな車は内部もゆったりとしていた。一般的な男性と比べると、背が高く、胸板もある片倉でも余裕のあるシートだ。久川の話だと撮影の為に沢山の機材を載せる事もあり、他に同乗するのが滅多に日本にいなかったという妻と身体の小さな灯英だけでも大きな車に乗っているという事だった。
「そんなに構えなくても」
運転手席でハンドルを握る久川が居た堪れなくなって、柔らかな声で言う。片倉は自分に向けられた言葉なのに人事のように思って、「別に、構えてはないです」と返した。
「それなら、良いです。折角の先生とのデートですしね」
久川が軽口を叩くのに対して、片倉は腿の辺りで硬く拳を作っていた。自宅を出た時に持っていたファイルが彼の手にはないのは先程まで久川の運転するこの車で片倉と灯英の通っている××小学校へ行っていたからだ。
「私はここで待っています」
「えっ」
小学校の来客用の駐車場に車が停まり、助手席からドアを引いて、車を降りようとする片倉は思わず、声を出してしまった。
すると、久川は片倉の心中を察したように言葉を足した。
「俺がついていかなくても、先生は逃げないと思います。多分、昨日の事が気になるだろうから」
私から俺へ。久川の一人称が変わっただけで、敬語が崩れたとか、語調が粗くなったとか。そんな訳ではないものの、片倉には先程までの久川とは別人のように聞こえた。
「昨日の事が気になる……か」
片倉はファイルを昨日、家庭訪問を終えてからすべきだったように自分のデスクの中へ収めながら、口にした。『気にならない訳がない』と思うと、職員室に入る前のように戸締りをして、再び久川の待つ車へと戻ったのだった。
「昨日の事、ですよね」
久川の運転する車が高速道路の料金所を通り過ぎ、暫く走った頃だった。
高速へ乗ろうというのは久川が提案した事だったのだが、片倉の家で久川と2人きりになるのは戸惑われた。かといって、下手に自宅の近所の店に入り、話をする。それも自分達を知る者、特に、自分が受け持っている児童と保護者の耳に入ってもいけない。片倉もその案に同意した。
「ええ」
その片倉の声にはいつもの堂々とした雰囲気はなかった。本当に聞いてしまっても良いのだろうかと戸惑う。何を聞かされるのかは分からないが、聞いてしまってからの反応はどうすれば良いのかという不安もあった。が、それらは久川の呑気な言葉で吹き飛んでしまった。
「その前に何か、食べません? 次のサービスエリア、停まりますし」
久川の言う「次のサービスエリア」は規模としてはバーガーショップが入っている、大きなものだった。久川は特にトイレやフードコートの入口が近い場所ではなく、それらからは離れた、駐車スペースの空いている場所に車を停めた。
「じゃ、何か、買ってきますね」
久川はシートベルトをはずすと、片倉に「何が良いですか?」と尋ねたが、片倉は「お任せします」とだけ言うだけで精一杯だった。
「お待たせしました」
久川が片倉を車内に残してから20分程が経っただろうか。
2人分のバーガーとフライドポテト、それに、シェイクの入った容器の入った大きな紙袋を持って、久川が車へ帰ってきた。
「ちょっとレジが混んでいて・・やっぱり、ゴールデンウィークも終わりですね。実家から帰っていく人もいるんでしょうね」
「そう、ですね」
「暑くはなかったですか?」
久川は一旦、紙袋を片倉に預けると、車の運転席へ乗り込んだ。
この日は晴れていたが、ここ何日かに比べると気温が高くないのと、サービスエリアが山に囲まれているという事もあるのだろう。カーエアコンをつけなくても、窓を開け放すだけで片倉は平気だった。
「大丈夫です」
「良かった。じゃ、まずは食べましょうか」
車のダッシュボードを久川が片倉に断って開ける。車検証等と一緒に赤い手帳のようなものが載せてあり、ウェットティッシュの入った箱が傍らにあった。久川は2枚、ティッシュを引き抜くと、その1枚を片倉へ渡した。
「ありがとうございます」
「いえいえ。あ、これ、先生のです」
片倉は久川から紙袋を受け取ると、袋の口を開け、バーガーの包みを開いた。ハンバーグやチーズ、トマト、バンズといったものに齧りついて、ストローでシェイクを吸い上げる。そんな飲食物を咀嚼する音や嚥下する音が車内に静かに響く中、シェイクを一口だけ咽喉に通していた久川が口を開いた。
「本当はこんな風に何でもない事をして、過ごしてみたかった。好きだと思った人と二人で」
久川は両手の親指と人差し指とで四角形を作ると、カメラのピントを合わせるように動かした。そのカメラに写るのは少し顔を顰めて、真面目な表情をしていた片倉だった。
「本当に先生には申し訳ない事をしたと思っているんです。ただ、先生の事が好きです。キスだけで良い、キスをしても? そんな事を言っても、先生は困惑したでしょう。困惑して、きっと俺を拒んだ」
久川の視線は片倉の方へ向いているようで、向いていなかった。あの優しく垂れた目は何を映しているのか。片倉は苦しくなるのを堪えた。
「昨日の、あの行動の理由は分かりました」
片倉の返答に久川は何も答えなかった。というより、片倉は言葉を一時的に切っただけで、「私も話しても……というより聞いても、良いですか?」と続け、久川は頷いた。
「いつ、私の事をその……好きになったのか。睡眠薬を用意していたところを見ると、昨日、初めて会って、急にあんな事をしようと思った。そうではないですよね」
「ふふ、先生は頭も良いですね」
久川は「ますます、貴方が好きになります」と続けると、片倉の問いに答える。
「あれは小学校の入学式の写真が上がって、学校へ持って行った時だからちょうど3週間程。貴方は色んな学年の子供達に逆上がりを教えていた」
「逆上がりですか」
「ええ、その時の貴方は本当に月並みだけどキラキラしていて。俺はあの子に貴方の事を聞いてみたんです。真面目で、誠実で、それは大人に対してだけでなく、子供達にも変わらない先生。勿論、その分、とっつきやすい性格ではないかも知れないけど、いつでも懸命で」
久川は丁寧に、愛しむように言葉を紡いでいて、本当に片倉の事が好きなのだろう。その口元は優しく緩んでいて、片倉は面を喰らう。
「分かりました。次に聞きたいのはご家族の事です」
久川の家族。それは現在、生死が分からないものの、仕事の為に外国へ渡ったカメラマンの妻と片倉が担当しているクラスの児童である娘の事だった。
「ああ、何故って思うかも知れないですね。妻やあの子の事を愛していないのか」
先程とは打って変わって、自分を責めるような、皮肉めいた言葉を紡ぐ久川に片倉は慌てて否定した。
すると、久川は「分かっているつもりですよ」と返した。
「貴方は固定概念に縛られるような人ではないし、そこからはみ出た人間を非難するような人でもない。でなければ、そもそも娘の担当の男の先生を好きになって、あんな事をした時点で軽蔑しているでしょうしね」
久川の言った『固定観念』とはおそらく、自分の妻や子どもを愛していない筈がない、そして、その愛している子どもを担当している教師を好きになる。そんな事が起こる筈がないという事だろう。
「勿論、愛しています。ただ、所詮は紙の上だけの父親だ」
妻である女性が海外で行方不明である。もうこれ以上、驚く事がないと思っていたのに片倉はもはや言葉もなかった。その一方で勘のようなものは鋭くて、昨日、久川に通されたリビングのシェリフへあった写真には夏英の夫の姿もあったと片倉は思い出していた。
「生物上の、本当の父親。それは言えないですが、子供が欲しかった彼女に俺は子供を作る事ができなかった。だから、俺は紙の上だけの父親になる事にした」
久川の言葉が終わる。
片倉は何を口にして良いのか、たとえ、言うべき事が分かっても、どんな風に口に良いのかが分からなかった。分からなかった上で失言をする。
「離婚は……考えなかったんですか?」
片倉の考えを無視して出たその呟きは静まり返った車内では明確に久川の耳に届いてしまった。片倉はすぐにその不用意な発言を打ち消し、侘びる。夫として、実父としては愛していなかったかも知れない。しかし、久川は妻子を大切にしていた。それが今まで久川の話を聞いていただけの片倉にも分かる気がしたからだった。
「構わないですよ。彼女と離婚しなかったのは愛している、いないかは別として、彼女は俺には勿体ないくらい素敵な女性だったから。あの子を夏英さんと、まだ当時は結婚していませんでしたが、旦那さんに預けきってしまうのは忍びなかったから、かな」
少しだけ息を吐くように久川は笑いながら「それは間違っていたのかも」と続けた。
「夏英さんと旦那さん、光臣(みつおみ)さんというんですけど、彼とあの子とを見ていると、少し思うんです。楽しそうで、幸せそうで、俺はそこにいてもいなくても変わらない」
『いなくても』と呟いた久川の声だけが片倉の耳に響く。その後で久川はまた自らを咎めるような言葉を口にしたようだったが、片倉はそれどころではなかった。
「片倉……先生?」
久川は話し終えると、そこで片倉の様子がおかしい事に気づいて、無言の片倉の名前を何度か呼んだ。それから、しばらくすると、まだ考えが定まっていない片倉はポロポロというような調子で口にした。
「私の事が好きだというのは単なる冗談で。家庭も顧みないで捨ててしまって。貴方がそんな勝手な人なら良かったのに」
ポロポロと千切れたような口調ではあったが、今までよりも必死な様子の片倉に久川は人の悪そうな笑みを浮かべることも止めた。というよりも、浮かべ続けることができなかった。
「十分、自分勝手な奴だと思いますけど?」
「ある意味、そうですね」
「ある意味?」
「自分でも飛躍していると思うのですが、貴方は灯英さんから、私の目の前からもいなくなるつもりなのでは?」
片倉の指摘に久川は驚いたようだった。いつでも、穏やかで優しげに垂れた目が見開かれ、緊張が走ったようになる。
「ハンバーガーを食べる前に開けたボードの中。その中に赤い手帳のようなものが見えた。一瞬だったけど、あれは……パスポートだった」
サービスエリアを利用している家族連れや大学生くらいのグループの声が遠くで聞こえる。完全な静寂ではないものの、重い沈黙が流れる。
「俺のじゃない。と言っても、あの子も夏英さん達もついでに、妻も今は海外だ。他人のパスポートがこんなところにある訳がない」
片倉の根拠に久川は諦めたように言うと、片倉の座る助手席の方に軽く身を寄せる。ダッシュボードを開けると、赤いパスポートを取り出して、片倉に渡した。
「先生の言う通りですよ。俺はイギリスへ彼女を探しに行こうと思っていた。写真館は知り合いのカメラマンの方に任せる事にした。あの子には夏英さん達がいる。もし、彼女が生きているのならあの子に会わせたいとも思っている。あとは今度こそ離婚して、貴方のように好きだと思える人と一緒に暮らそうかな」
久川の言葉はそれ以上、続く事はなかった。久川の肩の辺りに片倉の手が触れるように優しく置かれる。いや、置かれるというよりは寄りかかってしまいそうになるのを抑えたという表現が正しいだろうか。久川はその片倉の行動にただ、呟くしかなかった。
「せん……せい……?」
片倉の思いがけない、その行動に久川は戸惑う。その一方で、片倉の言葉は行動以上に明確だった。
「貴方の事、好きかまでは分からない。昨日、された事も……理由を聞いても、理解する事はできない」
「当然です。できなくていいし、しなくていいんですよ」
「でも、なんで、貴方と奥さんが出会う前に俺は出会う事ができなかったんだろうって思ってしまう」
その後、久川と片倉の乗った車はサービスエリアを出て、再び高速道路を走る。一旦、高速道路を降りて、片倉達の住む町の最寄にある料金所へ向かう。片倉の住むアパートに着くまで2人で交わされたものは言葉を始め、想いさえもなかった。
その言葉や思いは何も「ない」というのではなく、何も「伝えられない」というものだった。
完
◆オフィシャル作家への意気込み◆
初めて投稿させていただきます。拙い作品かと思いますが、誰かに読んでいただいて楽しんでいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
最上語子
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