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微笑の残滓

「好きなんだ、お前が。俺と、付き合って欲しい」  茜色の夕日が射し込む、放課後の誰もいない廊下。目の前に立った彼はそう云って微笑むと、少し照れくさそうに頬を掻いた。夕日が廊下を、彼と僕を、美しいオレンジ色に染め上げ、ドラマティックな舞台を作り上げる。  驚いた。ずっとずっと……密かに想いを寄せてきた相手にたった今、純粋な愛の告白をされたのだ。……驚かない方がおかしいだろう。 「……どうして」  僕は、どうしても信じることができなかった。僕と彼は、幼稚園来の付き合いであり、所謂腐れ縁という関係だ。同時に長年ずっと、“親友”と呼べる親しい仲でもあったが、それだけだ。  僕はいつからか、彼を知るうちに、彼に友情とは違った好意を抱くようになっていたのだが__、残念ながら彼は違った。彼が恋心を抱くのはいつだって女の子で、現に今までに何人もの女性の恋人をつくっている。  なのに、どうして。 「どうして君が、こんな僕なんかと……」  付き合いたいだなんて、云うのか。そう聞こうとする前に、僕は彼の腕の中に抱きすくめられていた。 「せっかちだね、君は」  僕より頭一つ分背の高い彼の、笑みを含む少しおどけたような声が、頭上から降ってくる。……突然与えられた他人の温もりに、どうしていいのか分からない。 「理由なんて、どうだっていいだろう? 俺はお前のことが好きだから、付き合いたいんだ。他意なんてないよ」  優しげな声が、僕を包んだ。  __そうか。理由なんて、どうでもいいものなのか。  僕は瞬時に彼の言葉に意識を奪われた。心身共に、何の疑いもなくその言葉を信じ切る。 「……そっか、どうでもいいのか」 「そうだよ、どうでもいい」  僕はそろそろと、自身の両手を彼の背中に回した。とくん、とくん、という二人分の心臓の音がシンクロして、何とも心地の良いリズムを生み出す。 「……本気にしてもいい?」  心音のハーモニーにこの上ない幸福感を感じながら、僕はおそるおそる、彼に問うた。目前にあるのは彼の胸板なので、表情を読み取ることはできない。  しかし。 「本気にしてもらわないと、困るよ」  その甘くて優しい声音を前に、疑うことなど到底できなかった。 「ありがとう。僕も……僕も、君が好き。ずっとずっと、大好きだった」  ずっと、ずっとずっと好きだった。だけど、その想いは決して叶わないものだと思い込んでいた。思い込んで、諦めていた。  その想いが__ひた隠していた“好き”が、今日、この瞬間に叶った。  嬉しい。そんな言葉では到底足りない。だけどもう、それ以外の言葉は心のどこかに蟠ったまま出てこない。 「相変わらず、泣き虫だなあ」  彼は身体を離すと、僕の顔を見て笑みを漏らした。云われて頬を触ると、指には温かな雫が付着している。 「……僕、泣いている?」 「うん、すっげえ涙出てる」  少し、恥ずかしかった。彼の云うとおり、昔から事あるごとに泣いていた僕だが、こうして想いが通じ合ったあとに泣き顔を見られると、今までには感じなかった羞恥心がじわじわと込み上げてくる。 「恥ずかしいな、なんだか」  僕は涙を照れ笑いで隠して、顔を見られないようにと俯く。瞳に溜まって収まりきらなくなった涙が、ぽたりと床にシミをつくった。 「……見せろよ」 「!」  僕の顎が、彼の長く綺麗な指に捉えられた。そのまま、ぐいっと彼の方を向かされる。 「俺だけに見せる顔、見せてよ」  __そう云って微笑んだ彼の顔が夕日に照らされている様が、涙で歪んだ視界に映る。頬に描かれた光と影のコントラストの、なんと美しいことか。 「っ、うん……」  僕は込み上げる羞恥心を飲み下して、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。迷いの無いその両眼は、他でもない僕の知る、彼のものだ。  どちらからともなく、顔を近付ける。夕日の色が僕らを酔わせて、自然とそうさせたのだ。  ゆっくりと、お互いの唇の距離を縮める。整った彼の顔が、こんなにも近い。  眼を閉じることすら勿体ないと感じた僕は、薄く視界を開いたまま、少し背伸びをして、彼の唇と自分の唇を重ね合わせた。  そして。 「……!」  突如現れた眩しさに、眼を開く。 「あ……」  そうして視界に入ったのは彼の顔ではなく、見慣れた白い天井だった。  __とっくに諦めはついている思っていたのに。まだ、こんな夢を見るのか。溜め息ひとつ、僕はベッドから半身を起こした。  齢十七。世間を知り、酸いも甘いもそれなりに噛み分ける歳だ。……男が男を好きになることが、世間に後ろ指をさされるものだということくらい、知っている。  そしてこの想いが叶わないことは、誰よりも僕自身が分かっている。彼とは幼馴染みで、親友で、それ以上でも以下でもない。密かに秘めたこの想いを伝えることは、彼の近くにいられるその立場を、綺麗さっぱり失うことになる。  ……弱虫な僕には、そんなことはできない。  彼は今、一学年下の、可愛らしい顔とふくよかな胸をもつ女の子と付き合っている。笑い合う二人の間に、僕が入る隙など無い。 「ああ……」  結局は未練タラタラの自分に、じわりと涙が込み上げてきた。夢の中で零したような、驚愕の中に喜びをふんだんに混ぜ込んだ甘い涙ではない。どうしようもない現実を突きつけられた、苦くて醜い涙だ。  叶うはずなんて、ないのに。まだ諦められない自分がいる。  甘い夢の中で、確かに好きと云った彼の微笑の残滓と、微かに残った唇の感触を噛み締めて、僕は静かに啜り泣き続けた。

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