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第1話

風が強い。 ぼんやりとホームに立っているだけで足元が危うくなるなるなんて、酔っているわけじゃないし、体調が悪い訳でもない。 身体は元気だ。 自分の足元に視線を落としてそう考えてみたが、誤魔化せなかった。 いつもと同じ朝のホーム。通勤時間帯で人が多いのは当たり前なのに、周囲の音が頭に入らなくて。 落とした視線の先にあるビジネスシューズはいい加減買い換えろとアイツに言われていたが、確かにそう言いたくなるだろう。 黒いそれは所々が擦れているせいで白い線が入っている。 つまらないビジネスシューズを履いたまま仕事をするから、つまらないミスをして休日出勤なんてハメになるんだと、確かそう言っていた。 (……なんだっけ。何が原因で喧嘩したんだってか) 思い出した靴の話。 頭に響くのは顔を合わせるたびに口喧しい同性の恋人の呆れた声。 相手の怒る顔が可愛いなんて感じる甘酸っぱい時期は、とっくに過ぎてもう何年だろうか。 当たり前に一緒にいて、ごく普通に喧嘩もして。 仲直りのセックスなんてお決まりな事も、馬鹿みたいに楽しんで過ごしてきたはずだったけど。 (今回は長い……アイツがうちに来なくなって……あ〜、もう1ヶ月過ぎちまったか) 頭の上から耳鳴りを呼び起こすようなアナウンスが響いてきた。 それと同時に吹き付ける冷たい風。 思わず目を細めて顔を上げると、反対側のホームに立つ、黄色いマフラー姿をした男に気がついた。 こちらが口を開く前に、相手がくるりと背中を向けた。 声を出そうと息を吸い込むと、そこへ電車がホームへと滑り込んできた。当然見つけた姿は遮られもう見えない。 恋愛に振りまされるようなみっともないのはゴメンだ。なんて、口癖のように言っていたのは若い頃だ。 だが、それを一番間近で聞かせていた。それを訂正したいと考えなかったわけではない。 気がつけば階段を駆け下りていた。 履きなれたビジネスシューズは、見てくれは悪くとも足には馴染んでいて、かなりのスピードで下りても引っ掛かりはしない。 反対側のホームへと続く階段を見上げても、そこに黄色いマフラーはない。 目で確認する前に改札へと走り、その背中を見つけた。 名前を呼ぶ余裕もなく足を動かせ、腕を伸ばした。もし届かなかったら。頭によぎった瞬間、腹の中の温度が下がった気がした。 「……った!」 だが、伸ばした手で彼のダウンジャケットを掴むことに成功した。逃すものかと必死だったせいで、ダウンだけでなく彼の腕も強く握りしめていたらしい。 振り向いたその表情は眉を寄せていて、やはり昔のように胸が高鳴ることは無い。 だいたい、お互いにいい歳をして可愛いも何も無いのだが、冷えた腹の底から込み上げてくるものがあった。 「おっ、お前と別れたくない!」 振り払われそうになったその手を引き寄せ、思い切り抱き締めた。 (あれ、) 自分が何を言っているのかよく分からなくなっていた。今この場で適切な言葉は何だったのだろう。 そもそも周囲には職場や学校へと急ぐ人達が足早に流れている。 足を止めて抱き締めたのは、その流れのど真ん中だった。 「…………お前、通勤鞄はどうした?」 呆れたようなその声に、心臓が跳ねた。 「…あ?鞄……?あれ、鞄って……俺持ってきてた……か?」 「何でそこで俺に聞くのさ。長らくお前んちに行ってないのに知るわけないだろ」 「……だよな。……もしかして手ぶらで出てきたのか?俺…」 「だから知らないって、あ、すみません」 行き交う人々の邪魔になってしまい、彼は背中に当たった中年に謝っていた。 ひとまずもう逃がすことはないだろう。彼の背中に手を当てて押し進み、駅のトイレと自販機の間にある薄暗い場所へと移動した。 「……放せよ」 「マフラー。気に入ってんじゃん」 「…………色は最悪でもマフラーに罪はないだろ」 プレゼントしたのは数年前。しかも包みを開けた彼はそのマフラーを手にした途端、悪趣味な色だと叫んでいた。 だが、その裏に隠された感情をちゃんと知っている。 「だいたいお前、公衆の面前で何を叫んでるんだよ。朝っぱらから恥をかかせるなよな。さっさと鞄取りに戻って仕事行かないと遅刻、」 「こっちのが重要」 自販機と壁についた腕で囲い、逃げ道は塞いだ。 さぁ、ここからだ。今の情けない自分の発言を忘れさせるくらいにキめないと。 「…電話すらしなかったくせに。今更だな」 「そっちこそ。ところで何で喧嘩したんだっけ?」 本気で忘れていたから問いかけたのに、見上げてきた彼に思い切り睨まれてしまった。 「おっ、まえ、マジで最低、っ、」 背中には行き交う人々の気配。 頭上からは電車が走る音が響いていて、ウォークマンをしていても分かるほどの騒音だ。 だから、多少騒いでいても誰も気にしないだろう。 ついさっきよぎった恐怖は、彼を失うかもしれないという事実だ。 時には勢いも大切で、振り回される事も大事なのかもしれない。 それでも自分の身体で隠すようにキスをしたのだから、冷静なのではないだろうか。 「……バカだろ、お前」 「お前になら振り回されてもいいから。だからマジ頼むわ。…お願いですから仲直りしてください」 日々ときめきのないような慣れきった関係でも、彼がいないと結局は日常生活に支障が出ている。 そのくらいには振り回されていて、それでも別れたくない。 彼は僅かに口角を上げると、ネクタイに手をかけて直してくれた。 「とりあえず、鞄取りに戻るぞ。……仕事は遅刻してもちゃんと行け」 今夜、部屋に行くから。 その囁きに揺さぶられて懐かしい感覚を思い出した。 (……この声…、好きなんだよな……) リラックス効果のあるその声が好きだと思ったのが最初だった気がする。 薄暗い場所から離れて改札口を出る時、くたびれていてもちゃんと足についてきてくれたビジネスシューズに、感謝を伝えたくなった。

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