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トモダチの約束

 半年ぶりに訪れた歓楽街は相も変わらず賑やかで毒々しく、きらびやかな服を身に纏った男女が、汚れたアスファルトの上を我が物顔で闊歩している。  やたらと煩い目抜通りを曲がれば、途端に人通りは少なくなり、配管が剥き出しになった雑な作りの古いビルが、ところ狭しと乱立している。  似たような作りのビルに、付箋のように張り出された色とりどりの集合看板は、その多くはゲイ向けの夜の店のものなのであろう。三人も乗れば満員のエレベーターを降りれば、テンプレのように窓のない扉があるのだろう。  ネットで調べた優良店。話が合いそうな陽気なママがいるらしい。そこで少し飲んでから、今夜遊べる若い子を紹介して貰おう。無理なら慣れた店に行き、それでもダメならサウナにでも行けばいいだろうと小林は考えていたのだが、テナントが入っているビルに入ろうとした時、大層ご機嫌な様子の少年が、ひらひらと手を降りながら声を掛けられた。 「こんばんわー! ねぇねぇオジサン元気してるー?」  人懐っこい笑顔を振り撒く少年は、ふらふらと覚束ない足取りで、咄嗟に動けなくなった小林の近くまできた。  酒でも呑んでいるのかと思ったが、どう見ても飲酒できるような歳ではない。 「俺さー、いま遊び相手を探してるんだよねー、オジサン遊んでくれない? 俺、カラオケとか行きたいなー」  顔は好みだった。  幸薄そうな色白の瓜実顔で、背は小林よりも幾分か高く、手足は現代っ子らしくすらりと伸びている。  けれども、若い。あまりにも若い。  義務教育も終えていないのではないかと、小林は思った。 「どうして君が、こんな僕なんかと……」  小林は自分をよく知っている。  定年退職の後、郊外の大型スーパーの駐車場で交通整理をしていて、日に何度か客に怒鳴られるような冴えない中年だ。  年に二回の夜遊びで贅沢をする以外は、酒も煙草も賭事もやらない、つまらない男なのだ。 「えー、遊びたいからー?」  腕を絡めてきても酒の匂いがしない事から、どうやら呑んでいるわけでは無さそうだと思ったが、もっと深刻な、シンナーや薬物を使っているのではないかと考えてしまう。 「んー、正直言えば、すっげーエロい事したいなーって思っててー、なんかオジサンってエロくて優しいセックスしそうだなーって思ってー、俺はエロくて優しいセックスがしたい気分でー、オジサンがいいなーって」 「せっかちだね、君は」  もはや店に入って楽しむ気は完全に失せてしまった。  このまま少年を捨てて店に入っても、少年は他の男に声を掛けるのだろう。運悪くひどい男に捕まり、危ない目に遭うのではないかと、気もそぞろになる。  気まぐれで撫でた野良猫になつかれた気持ちに似た、どこか郷愁めいたものが、胸に沈殿してゆく。 「君、名前と年齢は?」  少年は曖昧な笑みを浮かべて、少し視線を泳がせてから 「ちはる。19」  と答えた。  それは小林が入ろうとしていた、松山千春の大ファンだという名物ママがつけた店の名前で、ビルに張り出された集合看板の下から二番目に、紫に白い文字で書かれているものだ。 「あのね、僕は君をどうこうしようとは思っていないんだ。何か、家に帰りたくない事情でもあるんだろう?」 「……えへ」 「事情によっては、カラオケでも付き合ってあげられるけど、平気で嘘を吐く子とは一緒にいられないな。交番に行って保護者に来て貰うしかないね」 「やめて、それだけは……」  少年の表情から笑みが消える。  それから、にわかに自分の左手の甲に爪を立て、何かに堪えるように思いきりつねり上げた。  自傷行為の一つ。  そうしなければ平静を保てないほど、今にもパニックに陥りそうな心理状態なのだろう。 「……君が本当の事を言えば、交番には行かないよ」 「俺が本当の事を言って困るのはオジサンの方でしょ? 俺が19だと言ったんだし、信じて騙されていればいいでしょ!」 「うん。だからね、君をどうこうしようとは思ってない」 「なんで? そんなのオジサンにメリットないじゃん。俺みたいなの、セックスぐらいしか価値ないし面倒なだけじゃん!」  少年の気が立つにつれて、声が大きくなってゆく。  こういう土地柄だ。火のように噂が広まるのは早い。  このままでは本当に面倒な事になりそうだと判断した小林は、一つの賭けに出た。 「わかった。じゃあ僕は家に帰るとするよ。気軽な一人暮らしなんだ。君が誰でもいいからセックスしたいというなら、このままここでお別れにしよう。でも、寝場所と話し相手が欲しいのなら、一緒についておいで」  小林の言葉を聞いても、少年は爪を手の甲に食い込ませたまま。  少年の荒い息遣いと、世の全てを恨むような眼差しが、行き場を失っている。  小林は軽くため息を吐くと、財布から五千円を取り出して少年に握らせた。 「これでカラオケで朝まで過ごす分には足りるだろう」  小林はそう告げると、踵を返して駅までの道を歩き出した。  それは情に見せかけたエゴだと承知している。  なついた野良猫にエサをあげたら、そこに居ついてしまうかもしれない。  今日を生きる事が出来ても、明日危険な目に遭うかもしれない。  それでも、小林の憂いは幾分か軽くなった。  善行を施した事で、少年の人懐っこい笑顔の記憶だけを持ち帰る事が出来る。  この歳で、あんなに若い子にナンパされたのだ。呑んで奢って口説いて振られる事を思えば、安いものだ。  そんな事を考えながら喧騒の目抜き通りを抜けて、駅へと続く高架下の道を歩いていると、背後から悲痛な叫び声が聞こえてきた。 「待ってよ! 俺、行かないとか一言も言ってないじゃん!」  少年の大きな声が、辺りに響く。  喧嘩でも始まるのかと期待しているのだろうか。無関心を装った通行人が、ちらちらと視線を向ける。 「君、」 「置いてかないでよ! ……残されると、めちゃくちゃ寂しいじゃん」 「……」 「おおかわ。……大川、良太。中一」  小林に追い付いた少年が、今にも泣き出しそうな声で縋りつくと、なんだ、ただの知り合いの口論かとばかりに、人々は急速に興味を失っていった。 「……良太くんか」 「うん」 「家出したの?」 「うん」 「そうか……」  このまま交番へ行き、良太と名を明かした少年の身柄を引き渡すのが最善なのだろう。  けれども小林はそのまま駅に向かい、二人分の切符を買って、一枚を良太に手渡した。 「あ、おカネ」  良太はポケットから五千円を取りだして返そうとしたのだが、小林は口元に笑みを浮かべて首を横に振った。 「良太くんの気が変わったら、いつでもこれで家に帰りなさい」  良太は目を見開いて、まっすぐに小林の顔を見てから、皺になった札を再びポケットに突っ込んだ。  改札を通り、8番と書かれたホームへの階段を下りる。 「オジサン、そんなんでよく今まで生きて来られたよね」 「ん?」 「いい人すぎるでしょ。俺が悪いヤツならどうすんの。ヒトを信用しすぎ」 「良太くんこそ。僕が悪い大人なら、今ごろエッチな事されて、写真とか撮られて脅されてるよ」 「別に。そんなの、もう何回もされてるし」  電車が向かいのホームに到着して、一斉に人が吐き出され、一斉に人が吸い込まれてゆくのを二人で眺めた。 「深海魚のエラ呼吸」  そう例えた良太に、小林も一人言をぽつりと呟く。 「……吸うのは口だけどね」 「あーもー! そーゆーの腹たつー!」 「はははっ」  小林の脇腹を小突きながらも、良太の表情は晴れやかで、年相応のあどけなさを見せた。 「……あーあー、こういう会話が出来るのがトモダチってヤツなのかなー。俺、トモダチ欲しいなー」  頭上で手を組み、全身で伸びをした良太は、ふーっと息を吐き出してから、空いている椅子に座った。 「友達、いないの?」  小林は隣に座りながら話題を引き出してやると、良太は頭が落ちそうなほど大きく頷いた。 「いなーい。俺さー、アタマおかしいから、トモダチとか一人も出来た事なーい」 「そうなの?」 「トモダチになってくれそうな子が出来るとね、ちんこ見たくなんの。んで、ちんこ見たら触りたくなって、触ったらしゃぶりたくなんの。そしたら、怒ったりー、殴ったりー、泣かれたりー」 「……」 「だって、ちんこ気持ちイイじゃん。おしりも気持ちイイじゃん。なんで気持ちイイのがダメなのか、俺、全然わかんねー」  少々変わった子だと思っていたが、どうやら小林が思うよりも、遥かに深刻な問題を抱えているらしい。 「俺さー、ちっちゃい頃はもっと可愛かったのよ。施設の園長に特別可愛がられて、めっちゃエコヒイキされてさー。小学校入学した時のお祝いに、園長の部屋で豪華なごはん食べて、いっぱいチューしてくれて、ちんことおしりが気持ちイイって教えてくれたんだよねー。俺、園長好きだったなー」  ホームに電車が着いても、小林はその場を動く事が出来なかった。  乗らないの? と良太に訊ねられても、すぐに次が来るから、と掠れた声で答えるだけで精一杯だった。  時間をかけて深呼吸した深海魚は、カタン、コトン、と鳴きながら、もと来たビルの谷間の闇をゆっくりと泳いでいった。 「でさー、トモダチにおんなじ事をしたら、めっちゃキレられてさー。担任の先生には怒られるし、学校に警察来るし、精神病院入れられるし」 「……」 「今の親に引き取られてから、マトモなセイカツってのを送ってるんだけど、マトモな親がさ、俺をマトモな子に育てようとするじゃん? そしたら自分が異常だって事を思い知らされてさー。俺、死んだ方が、みんな幸せになれるのかもしれないなーって」  夢見るように自身の死を語る良太の横顔は儚げで、この上なく美しかった。  小林の、決して短くはない人生で出会った誰よりも、美しいと思った。 「死ぬのは、ダメだ」  小林とて、平穏無事に生きてきたわけではないが、それでも良太が生きてきた世界よりも、遥かに波風の少ない時間を過ごしてきたのだろう。 「そっかー、ダメかぁー」 「ダメだ。それに、良太くんが死んで幸せだと思うような、そんな親じゃないんだろ?」  良太の表情が曇り、突然怒りの感情が露になった。 「んなワケねーじゃん! すっげーいい人だよ! 塾に通わせてくれたり、俺が問題を起こしたら、親は悪くねーのに頭下げて謝ってくれたり、めちゃくちゃいい人だよ!」 「だったら尚更、自ら死んではいけない。良太くんの親御さんを、自分の子供を守ってやる事も出来なかった親にしてはいけない」  小林の言葉に怒りの温度が下がったのか、今度はまた左手の甲に爪を立てて、自分の中で荒れ狂いそうな感情と戦っているように見えた。 「うぅー、ふうぅー……」 「もし、良太くんさえ良ければだけど」  騒ぎを聞いて様子を見に来たのであろう駅員に会釈をして、大丈夫だと態度で伝えてから、小林は良太の肩をそっと抱き寄せた。  その瞬間、電気が走ったようにビクッと体を震わせたが、落ち着くようにと手のひらでポンポンとあやしてやると、強張っていた体の力が抜けてゆくのが伝わってくる。 「僕と、友達になってくれないかな」 「……」 「死にたくなったり、家や学校でツラい事があったら、いつでもおいで。解決は出来ないかもしれないけど、夜の繁華街よりも安心できる逃げ場所が、良太くんには必要だからね」  ポン、ポン、ポン、ポン。  心臓よりもゆっくりと、呼吸よりも少し速く、人が落ち着くテンポを繰り返す。 「トモダチ……?」 「そう、友達」 「セフレじゃなく?」 「うん、友達」 「ちんこ見ちゃダメ?」 「なるべく我慢して」 「……」 「良太くんは、こんなオジサンが友達になるのは、イヤかな」  小林の言葉に、良太は勢いよく何度も何度も首を横に振った。  手の甲に食い込ませていた爪の力が緩まり、赤く腫れた皮膚を隠すように、そっと重ねた。 「……本気にしてもいい?」  消え入りそうなか細い声で、良太が問う。 「頼ってくれると約束してくれるね」  はっきりとした口調で小林が告げると、プラットホームに電車の到着を告げるメロディーが響き渡り、ビルの谷間の闇を照らしながら到着した深海魚が、二人を運ぶスペースを空けるために、ゆっくりと乗客を吐き出した。

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