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第1話

 いい意味で薄汚れた赤ちょうちんをぶらさげている、とある居酒屋のカウンター。  ほぼ定位置となっている席に腰かけ、仕事を終えた水谷恭平はたまたま隣に座った青年に、酔いにまかせてくだを巻いていた。 「セクハラとか、最近はギャーギャー言いすぎなんじゃねぇか? 襟ぐりの開いた服を着て、前かがみになったのをたまたま見ちまっただけで、親の仇を見るみてぇな目をしてよぉ、見ないでくださいときたもんだ」  意味が分からねぇとこぼす恭平が、ビール瓶をかたむけて青年のグラスに注ぐ。青年は軽く会釈してそれを受けた。 「若いうちから厚化粧して、夏場なんか乳をほっぽり出すみてぇな恰好の姉ちゃんまでいるってぇのに、セクハラもなんもねぇだろがよ。――娘ぐれぇの小娘に気を遣わなきゃなんねぇなんざ、妙な世の中になっちまったもんだぜ」  グビリと喉を鳴らしてビールをあおった恭平のグラスに、青年がそっとビールを注いだ。 「おう。すまねぇな」  恭平は上機嫌に瓶ビールの追加を頼んだ。  しゃべっているのは恭平ばかり。青年は相づちを打つほかは無言で、恭平のグラスが空になればビールを注いでいる。店員が笑みを浮かべて、気の毒にと目顔で青年に告げると、青年はあるかなしかの微笑を口の端に乗せた。  中肉中背だが、服の上からでもわかる肉のしまった体つき。四角い輪郭に頑固そうな短い黒髪。そんな恭平の容姿を怖がって付き合っているわけではなく、酔っ払い中年の相手を楽しんでいる。  そんなふうに受け取れる青年の反応に、店員は肩をすくめて「物好きだね」としぐさで告げた。 「なあ、兄ちゃん」  そんなやりとりをされているとは気づかずに、恭平は言葉を続ける。 「兄ちゃんも、そう思わねぇか? ああ、兄ちゃんは思わねぇよな。兄ちゃんみてぇな色男になら、セクハラされてぇって女がわんさといるだろう」 「いえ、そんな」 「謙遜すんなって! うらやましいわけじゃねえよ。不公平だっつってんだ。おなじことを言っても、片方は許されて、片方はゴミ虫みてぇに嫌悪されるとか、たまったもんじゃねぇぜ。まあ、兄ちゃんもあと二十年もしたらわからぁ」  ポイッと刺身を口に入れた恭平は、モグモグと咀嚼しながらため息をついた。 「でも、おじさんに言われて悪い気がしない女性も、いるでしょう?」 「へ? ああ、うん……まあ、まったくいねぇってわけじゃねぇが、珍しいよな。そういう女はよぉ、アレだ。男の扱いをよぉっく知ってる姉ちゃんだけよ。そういう女は怖ぇから、気をつけろよ? 骨の髄までむしゃぶりつくされてポイだからな」  ニヤリと恭平が大人の経験をにじませると、青年はおだやかな顔で首をかしげた。明るい色味のマッシュショートが、蛍光灯の光で綿玉のように揺れる。 「僕みたいな相手にも、気をつけたほうがいいと思いますよ」 「あ? なんだ。オヤジ狩りの話かよ。俺みてぇなヤツを襲う度胸があるってんなら、どんと来いってんだ! がっちり受け止めてやるからよぉ」 「えっ」  目をまるくした青年に、恭平はフフンと鼻を鳴らした。 「見てわからねぇか? けっこうガッチリしてんだろ」  力こぶをつくって、青年に触れと示す。青年はソロソロと恭平の二の腕に触れた。 「おっちゃん、警備の仕事をやってんだよ。モスキーウェストって会社のな」  青年は恭平の二の腕に触れたまま、まぶしそうに目を細めた。 「おじさんの名前は?」 「ああ、まだ言ってなかったか。水谷恭平だよ。なかなかシャレた、役者みてぇな名前だろ? 兄ちゃんは、なんてぇんだ」  人懐こい笑みを浮かべた恭平に、青年が目元をとろかせる。 「沢渡、誠です」 「ふうん。そっちもなかなか、かっこいい名前じゃねぇか。よし! 役者みてぇな名前つながり、俺の話につきあってもらった礼だ。ここは俺がおごってやらぁ。遠慮せずに、どんどん飲んで、じゃんじゃん食ってくれ。兄ちゃんぐれぇの年だと、いくら食っても食い足りねぇだろ」  口を大きく開いて豪快に笑った恭平に、誠が静かにまつ毛を伏せて礼を言う。上品な彼の態度に恭平の調子はますます上がった。 「いやぁ。最近は若いヤツが呑みに出ねぇっつうが、兄ちゃん……誠って呼んでいいか?」 「ぜひ」 「おう。――その、誠みてぇなのもいるんだな。ああ、いやいや。あれか。?むヤツがいても、こういう店じゃなくバーとかなんとか、こじゃれたところに行くのか」  さあ、と誠はにこにこしながら、まだ恭平の二の腕を触っている。 「あの、恭平さん」 「うん?」 「恭平さんって、おいくつなんですか」 「年ぃ? そんなもん聞いてどうすんだ。四十二だけどよ」 「四十二……。僕と、ちょうど二十年違いですね」  はにかむ誠に、恭平は目をパチクリさせて背筋を伸ばした。 「ひょろっと背が高いし落ち着いているもんで、もっと上かと思ったぜ。まあ、三十はいってねぇだろうとは思っていたけどよ。ずいぶん若ぇな」 「恭平さんだって、若いじゃないですぁ」 「はぁ? そういう世辞はいらねぇよ。どうせ、芸能人かなんかと比べてんだろ。あのな、勘違いしちゃいけねぇぞ。芸能人と俺らは違うからな。アイツらは金を持ってるから、ああして若くいられるんだ。一般人は、ああはいかねぇ。三十五を過ぎりゃあ、立派なオッサンなんだよ」 「……はあ」  生返事をしつつ、誠はまだ恭平の二の腕を揉んでいる。その手が手首へ流れるのを好きにさせて、恭平は反対の手でグラスを持ち上げた。 「まあ、こんな場所でビール片手に、若いヤツはどうのこうのってボヤいている時点で、俺は立派なオッサンってこった」  ケラケラと笑う恭平の手が、誠の指に握られる。ごつごつとした恭平の手と比べると、誠の指はなめらかで細く長かった。 「きれぇな手ぇしてんなぁ」 「恭平さんのほうが、ずっとキレイな手をしてますよ」 「バカ言っちゃいけねぇ。そういう見え透いたお世辞は、逆に相手の気を悪くしちまうぞ」 「お世辞じゃないですよ。ちゃんとしっかり働いて、なにかを守っている手です。とても魅力的ですよ」  右手を包まれさすられて、恭平は尻のあたりがムズムズした。 「よせやい。照れるじゃねぇか」  乱暴に誠の手から逃れて、焼き鳥の串を掴んだ。 「しかし、いいヤツだなぁ。こんな見ず知らずのオッサンに付き合ってくれてよ」 「いえ。僕も女性専用車に悩まされたりしていますから。とても興味深いご意見です」 「ほぉ? どう悩まされてんだ」 「慌てて電車に乗ろうとしたとき――まあ、駆け込み乗車はよくありませんが、急いでいる場合にやむなく、してしまう場合が誰でもあると思うんですけど」  うんうんと首を動かし、恭平は焼き鳥を口に入れる。 「その場合、飛び乗ろうと思っても、ホームの階段に近い列車は女性専用車であることが多いんです」 「ああ、それなぁ。俺ぁ、それで飛び乗っちまって、犯罪者みてぇな目でにらまれたことがあるぜ。なんにもしてねぇのに冷や汗が出てきてよぉ。……誠でも、そんな顔をされんのか?」 「犯罪者ってほどではないですが、困惑されますね。――あの、恭平さん。こここでこうして出会ったのも、なにかの縁ですよね」  如才なく恭平のグラスにビールを注ぎたしながら、誠は殊勝な顔をする。 「ん? なんだよ。改まって」 「僕は大学で心理学を勉強していて。それで、女性の多くが男性に対して警戒心が強いのは、なにか理由があるはずだと考えていて」  ふむふむと恭平はビールを飲む。 「それを解明するために、協力をしていただけませんか?」  プハッとグラスから口を離して、恭平は怪訝に顔をゆがめた。 「協力っつったって、なにすりゃいいんだ。俺ぁ見た通りオッサンだし、犯罪者になんてなりたかねぇぞ」 「それは、わかっています。僕だって犯罪はしたくない。……なんと言えばいいのか。恭平さんには、女性の気持ちの疑似体験をしていただきたいんです」 「は? ますます、わかんねぇ。この俺に女装でもしろってのか」  フッと誠の空気がなごむ。 「いえ。恭平さんは、普通に過ごしているだけでいいんです。ただ、身の回りでちょっと変わったことというか、妙な出来事が起こります。それに対して、どんな感情を持ったかを教えてもらいたいんです」 「意味が分からねぇ」 「平たく言えば、僕にまとわりつかれてもらいたい、ということです。いわゆる、ストーカーですね。僕が恭平さんのストーカーになって、いろいろと行動を起こして、それに対する感想を教えてくださればいいんです」  ふむ、と恭平が唇を尖らせる。 「こんなオッサンをストーキングなんてして、楽しいか? もっと若くてキレイな相手が大学にゃ、いくらでも……ああ、そうか。そうすっと問題があるから、オッサンの俺なのか」 「ええ、そうです。協力すると言われても、それで勘違いをされてしまったら困りますから」 「それは、アレか? 協力者が誠に惚れちまうってヤツか。まあ、あるかもしれねぇな」 「ですから、出会いはしたけれど、あまりよくは知らない、格好の距離感のある恭平さんにお願いをしているんです」  グッと前にのめった誠の瞳は生真面目で、酔いのために大きくなった恭平の気持ちにまっすぐ飛び込んできた。 「そういうことなら、協力してやってもいいぜ。たまに、こうして呑みに付き合ってくれるんならな。まあ、俺で女の気持ちがわかるかどうかは、保証できねぇけどよ」 「大丈夫です! それじゃあ、この契約書にサインと拇印をお願いできますか?」  ゴソゴソとカバンから紙を取り出した誠に、恭平はヒョイと眉を持ち上げた。 「ずいぶんと、しっかりしてんな」 「研究成果を発表するのに、きちんと相手と契約を交わしたと証明をしなくちゃいけないんですよ」 「そういうもんか。……まあ、いいけど。男の俺にゃあ、おっぱいはねぇぞ? って、ボインはボインでも、そっちじゃねぇってか」  ハッハッハとくだらない駄洒落でひとりウケつつ、恭平は促されるままサインをし、拇印を押した。 「これで、契約完了ですね。これからよろしくお願いします」 「おう。んじゃ、話もなんか、うまい具合に区切りがついたし、そろそろ出るか」 「協力していただくお礼に、ここは僕がおごりますよ」 「なに言ってんだ。誠は学生だろう? さっき俺がおごるっつったろうが。ガキはかわいらしく、ごちそうさまっておごられとけよ」 「……そうですか。それでは、お言葉に甘えます」 「おうおう、甘えとけ、甘えとけ! 若いうちしか、甘えらんねぇんだからよ。さて、と」  立ち上がった恭平がわずかによろめき、誠がすかさず体を支える。長身の誠の胸に顔をうずめる形で抱きとめられた恭平は、首を持ち上げニヤリとした。 「俺がキレイな姉ちゃんなら、よかったなぁ」 「いえ。そんな」  はにかむ誠に「若ぇな」とつぶやき、支払いを済ませた恭平は彼と別れて帰宅した。

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