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コロナ禍番外編

 午前9時。  春の日差しが入り明るい部屋の中。少し前に飲んだ珈琲の香りがまだ漂っている空間には、ソファに座る数馬さんの雑誌を読む音だけが静かに響く。俺はそれを聞きながら、数馬さんの膝に頭を乗せてゴロゴロとする。  テレビはつけてみたものの、早々に消してしまった。暗い話題ばかりが流れるそれは、この空間には合わなかった。  数馬さんの腹に顔を埋め、それでもくっつき足りなくて抱き着くと、俺の髪に数馬さんの指がゆっくりと差し込まれた。目も、意識も雑誌に向いている。それでも数馬さんの指は、優しく俺の髪を梳いていて、その刺激に俺は蕩けそうになった。  この幸せな時間を手放したくない。だが、やりたいことは他にもある。 「……なぁ、数馬さん。珈琲もう一杯飲まねぇ?」 「あ? あー……じゃあ、貰うか」 「分かった!」  数馬さんの膝の上から飛び跳ねるようにして起き上がると、俺はキッチンへと立つ。  もうだいぶ前になるが、俺は数馬さんから自分で豆から挽く珈琲のいれ方を教えてもらった。何度も何度も練習して、苦手だったただの苦くて黒い液体が、ちょっと美味しいかも……に変化してきたころ、漸く数馬さんにも上手くなったと褒めてもらった。  普段褒められることなんて滅多にないから、それがあまりにも嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。できれば毎朝数馬さんに珈琲をいれたいんだけど……。忙しい彼の帰宅時間は不規則で、朝目が覚めるともう居ない……なんてこともザラだ。一緒に暮らしているのに、同じ時間をゆっくり過ごすなんてことができるのは正月休みくらいだった。  でも、今日は違う。  猛威を振るう新型のウイルスに、数か月前から全世界の人たちの命が脅かされている。そうして昨日、ついに俺たちの住む街にも外出禁止令が出た。  数馬さんが店を休業にして、従業員たちに給料を先払いしたのはもう三週間も前のことだが、それからも彼だけはずっと忙しく働いていた。  数馬さんと暮らす俺のことを羨む奴らは多いけど、一緒に暮らしていても寂しい思いをすることは多い。ただ数馬さんの〝モノ〟でいられれば幸せだと思っていたのに、俺は随分と欲深くなってしまったみたいだ。  キッチンから数馬さんの方を盗み見すれば、また彼は静かに雑誌のページを捲っていた。手に持っている物が仕事の書類じゃないだけでも珍しいのに、纏っている服は俺が誕生日にプレゼントした部屋着だし、足元は素足にスリッパが引っ掛かっている程度だし、何より、眉間にしわが寄っていない。  いつものパリッとした数馬さんも格好いいけど、穏やかな表情でくつろいでいる彼は格別だ。だって、こんな彼の姿は俺だけしか知らないんだから。  ぼう……っと見惚れていたら、数馬さんがふっと笑った。その表情にまたドキッとする。 「な、なに笑ってんの? なんか面白いこと書いてあった?」 「いや、俺の顔に穴が開きそうだと思って」 「へ?」 「手、ずっと止まってるけど、珈琲いれるんじゃなかったのか?」 「あっ、あ! 待って待って、すぐいれるから!」  慌てて珈琲豆を引っ掴んだ俺を見て、数馬さんがまた柔らかく笑う。俺の腰は粉々に砕けた。  俺のいれた珈琲を片手に本を読む数馬さんの膝に、また頭を乗せる。数馬さんの方を向いて、胎児みたいに丸まって。 「ん~、んん~、ふんふんふ~ん♪」 「なんだ、今日はいつになくご機嫌だな」 「えー? うへへ、へへへ」  幸せで幸せでたまらなくて、数馬さんの腹に顔を埋めて、思いっきり彼の匂いを吸い込んだ。 「何なんだ本当に。オイ、なんかあったのか……?」  腹に埋めた俺の頭を両手でつかんで向きを変えると、無理やり目を合わさせる。そこには、さっきまで無かったはずの眉間の皺が、ひとつ。  数馬さんは、時々こうしてよく分からないことで不機嫌になる。俺には理解不能な、妙な勘違いをしたりする。俺に限って、数馬さん以外の誰かを……なんてあり得もしないのに。 「数馬さん、外出禁止ってサイコーだね!」 「あ?」  数馬さんの眉が片方上がる。分かってる、『ふきんしん』な発言だってことは。でも、やっぱり思ってしまう。 「だって、だってさ。天気はいいし、暖かいし、いい風は吹いてるし、静かだし、珈琲はいい匂いだし……それに、ずーーーーーっと、俺の隣に数馬さんが居てくれるんだもん。まるで、この世界に俺たちふたりしかいないみたいだ!」  にっ、っと笑って見せると、数馬さんは僅かに目を見開いた。 「仕事中もたまに会えるし、一緒に住んでくれて嬉しいけど、こうやって一緒にゆっくりできるの、もっと嬉しい!」 「糸……」 「俺、マジで数馬さんが大好きだよ。死ぬほど大好きだよ」  膝から頭を持ち上げて、珍しく俺から数馬さんにそっとキスをした。無防備な今の彼相手なら、それは簡単なことだった。 「……そろそろ芳哉に代わるかな」 「え、なに?」  暫くの沈黙の後、数馬さんがなにか呟いたけど俺には聞き取れなかった。 「あ、わ……」  数馬さんが俺に、触れるだけのキスをする。それは段々と深いモノになっていって、俺は苦しいけど気持ちよくて、彼の首に腕を回した。 「ん……ふ……ぅン……」  暫く互いの舌を絡ませて、そっと銀糸を切って離れる。 「濃厚接触、禁止だったっけな」 「超・濃厚接触、だからいーんじゃねぇの?」 「はっ!」  俺は超真剣に言ったのに、数馬さんが珍しく声を漏らし笑う。 「なんだよ、なんで笑うんだよー!」 「はいはい、悪かった。お詫びにもっと濃厚なことしてやろうか?」 「も、もっと!?」  顔を真っ赤に染めて期待に目を輝かせた俺を見て、数馬さんが今度こそ大笑いした。 「なんだよバカァ~! 数馬さんなんかもーしらねっ……ンぅぅ……」  そっぽ向いたって、結局キス一つで簡単に蕩けてしまう俺って、超・簡単な奴。 「はっ、……ぁっ、ンぅ、うっ、あっあっ、はっ……」  いつもよりも何倍も優しく、ゆっくり、じっくりと俺を暴く数馬さんの綺麗な長い指、柔らかい唇、熱い舌。 「あっ、あぁあ……ぁ、かずまさっ、あっ、あぁああぁッ」  あられもなく乱れる俺の胎の中を、燃えるように熱いモノで更にぐちゃぐちゃに蕩けさせる。もう、本当に溶けて一緒になってしまったんじゃないかと錯覚するほどの一体感に、身も世もなく喘ぐ。頭の奥の奥が痺れて、何も考えられなくなった。  そんな中で浮かぶ気持ちは、ただ、ひとつ。 「ぁ……すき……すきぃ……かずまひゃっ……あっ……すきぃ……!」 「いと……」 「あぁあぁあっ!」  強く強く穿たれ抉られ揺すられて、そこからの記憶は曖昧だ。  この日以降、外出禁止の期間は案外長く続いて。その間中、俺たちは驚くほど爛れた生活をおくることになるけど……。そこに不満なんてものはひとつもなかった。不満なんて、あるはずがなかった。  だって、愛しい人がこんなにも近くにいるのだから。  数馬さんが芳哉さんに、店のオーナーという地位を譲ったのは。  この爛れた日常から、半年ほどたったある日の事だった。 END

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