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第二話 気まぐれ
その絵馬が掛けられる瞬間を見たいと思うようになったのは、触れた回数が両手では足りなくなった頃からだ。
ただでさえ欲望が多く、あれもこれもと願いを託す人間が多い中、あの絵馬だけは表の言葉も裏の言葉も変わる事はなかった。
絵馬が掛けられる瞬間を見る事ができたら、どんな人間が少し右上がりのあの綺麗な字に切なる願いを託しているのかが解る。
――解ったとして、どうするつもりなのだ、俺は?――
神力を使って人間のフリをして近付く? どんな人間かを見定めて……真意を聞く? 聞いてどうする? 神力を使って介入するのか、今までの投げつけるように託された願いのように叶える事なく過ごすのか? そもそもこの絵馬を書く者は生きたいのか、死にたいのか。きっとそれも解るだろうと思う。なにしろ俺は神様だから。
「……ま、近いうちに会える事に違いはない、な」
独り言は誰もいない本殿の空気を揺らして消えた。
翌日から朝昼夜と境内に出るようになった。
朝の空気は清々しく、まだ誰も掃き清めていない落ち葉の感触が足に楽しかった。昼は散歩だというのに主人に抱かれて運ばれる不満顔の小型犬を眺め、子供の頃はずいぶんと腕白坊主だった男の子の腰がすっかり曲がってしまっている事に気付いて人間の時間の流れの速さに柄にもなく驚いたりもした。どこまでも果てなく暗い夜空に燦然と輝く月が位置を変えるのを眺めるのもまた楽しいものだった。
俺はずいぶんと長く本殿に篭ったきりでいたらしいと、昼間のすっかり老いた彼を思い出す。御神木に登って神主から雷を落とされていたガキ大将が今では孫か曽孫 に手を引かれて、御神籤 をねだられて幸せそうに笑っているなんて。
俺にはまるで昨日の事のように鮮明な記憶だが、彼の中では遥か遠く霞む思い出なのだろうか。
「あっという間だな」
星の軌道は未だ正しく、数時間のちには太陽が顔を出す。それを二、三回繰り返せば、あの絵馬を書く者に会えるだろう。
そう思っていたのだが、太陽が昇るのを八回数えても待ち人は現れなかった。
願いを叶えるでもなく手元に残した絵馬を眺めて推測するに、おそらく書き手は男。毛筆は使われていないので年齢は若いのだろう。
「だが、綺麗な字だ」
俺は何から助けるように願われているのだろう。
俺は何故、生命の灯火を消すように懇願されているのだろう。
何が彼に絵馬 を書かせるのだろう――?
願い以外、名前の一文字すら書かれていないそっけない絵馬にひどく心を乱されている自分が情けないとさえ思う。
「キミは誰だ」
どこか懐かしいとさえ錯覚するほど見続けたそれに問いかけても答える声は当然なく、真夜中にみしりと本殿が軋む音にいよいよ本格的な冬が近いな、と溜め息をついた。
どうやら俺は好奇心と執着心とを目覚めさせてしまったらしい。
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