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「春の夜」

 夕飯も食べ終わってリビングのソファでひと休みしていたころ、台所で何やらゴソゴソと準備をしていたそうすけが「さとり、ちょっと出かけないか?」と言った。 「お出かけ?」  さとりはびっくりした。翌日のそうすけの仕事が早いこともあって、大抵は九時ごろには就寝の準備をする。夜出かけることなど滅多にないからだ。  普段とは違うようすに、白いふわふわの妖怪も、「いったいどうしたの?」と訊ねるかのように、そうすけの足元でぴょんぴょんと跳ねた。 「お前たちは留守番な」 「どこへいくの?」  夜は少しだけ冷えるからと、さとりはそうすけにニット帽をかぶせてもらいながら、首をかしげた。 「着いてからのお楽しみ」  まるでイタズラを企てる子どものように、どこかうきうきしているそうすけに、さとりもつられて胸が弾んだ。  ふわりと甘い花の匂いがした。  さとりはきょろきょろと辺りを見渡した。  どこだろ?  確かにその存在は感じるのに、夜の闇に溶け込んでその正体はつかめない。  いい匂い。  大きく深呼吸をすれば、甘い花の匂いが身体いっぱいに満たされる気がした。さとりはふふっと笑った。春の夜はやさしく、そうすけとの夜の散歩は、さとりを夢のような気持ちにさせた。  ふわふわした気持ちで歩いていたら、うっかり小さな段に足を取られてしまった。危うく転びそうになったのを、そうすけが支えてくれる。 「どうした、さとり」 『だいじょうぶか?』 「うん。あのね、いま、何かとてもいい匂いがしたの」 「いい匂い?」  さとりの言葉に、そうすけはくんと匂いを嗅いだ。それから心当たりを見つけたとでも言うかのように、さとりのうなじに顔を近づけた。 「ああ、本当だ」 『さとりのシャンプーの匂いだ。おいしそうな匂い』  さとりは、かあっと赤くなった。 「そ、そうじゃないの! おいらじゃなくて、何かね、もっと甘いお花の匂いが……!」  一生懸命さとりが否定しても、そうすけは笑っているばかりで取り合ってくれない。ほらさとり、と自分に向かって伸ばされた手を取れば、そうすけはさとりの手をぎゅっと握り返してくれた。そうすけと手をつないだまま、人通りの少ない閑静な住宅街を歩く。途中高架下を抜けて、駅の反対側に出た。空にはぽっかりと丸い月が昇っている。月明かりに照らされて、さとりとそうすけの影が足元に長く伸びている。どこか暗がりで猫がニャオーンと鳴いたと思ったら、サッと目の前を走り抜けていった。  ふふっ。  さとりはわくわくした。そうすけと一緒ならどこだって構わないが、見慣れない景色に、小さな冒険をしているような気持ちになってくる。 「この坂を上るぞ」 「うん」  気がつけば、目の前に長い階段が続いていた。そうすけは迷うことなく階段を上っていく。普段あまり運動をしないさとりは、階段の中程までくると、肩で息をするようになっていた。 「だいじょうぶか?」  心配するそうすけに訊かれて、さとりは「だ、だいじょうぶ!」と慌てて返事をした。こんなんじゃ何かあったときにそうすけを守れない。あしたからもっと身体を鍛えなきゃとさとりが密かに誓っていると、そうすけがふっと笑う気配がした。 『さとりはさとりのままでいいよ』 「あと少しだから、がんばれ!」  まるで心の中を見透かされたように励まされて、さとりはほわあっと胸が熱くなった。  階段を上るたびに、下に見える街の景色は小さくなる。ひとつひとつの家の窓の明かりがきらきらと輝いて、まるで眼下に星空を見ているみたいだった。幸福な、星のかけら。 「ほら、最後の一段」  そうすけの言葉に励まされるように、最後の一段を上がった瞬間、さとりは思わず息を飲んだ。  うわあ……っ。  それは満開の桜だった。公園の電灯に照らされて、淡いピンク色をした桜が暗闇にぼうっと浮かび上がる。花びらは風がそよぐたびに、はらはらと散った。 「きれいだろ?」  微動だにせず固まっているさとりのすぐ後ろで、どこか得意げなそうすけの声が聞こえた。さとりはそうすけを振り返ると、こくこくと頷いた。  うん! うん! うん!  胸がいっぱいのあまり言葉にならないさとりを、そうすけは満足そうに眺めている。その目があまりにやさしくて、さとりは自分がホットケーキに乗ったバターみたいに、じゅわっと溶けてしまうかと思った。そうすけがさとりをベンチへと誘う。  公園にはさとりたちのほかにも、花見客がいた。皆それぞれに酒や食べ物を広げて、花見を楽しんでいる。 「よかった。週末の雨で散ってしまうと思ったから」 『どうしてもさとりにこの景色を見せたかったんだ』 「さとりと一緒にこの景色を見たかったんだ」  そうすけが少しだけ照れたように笑う。その目は、いまさとりと一緒にいれてうれしいのだと告げていた。美しいこの景色を、分かち合えてうれしいと。それは、さとりがそうすけを想う気持ちと同じくらい、へたしたらそれ以上にさとりへの純粋な愛情にあふれていて、まっすぐにさとりに伝わってきた。  さとりの目からぽろぽろと涙が零れる。  あれ……?  さとりはぱちぱちと瞬きをした。さとりを見つめるそうすけの瞳も、驚いたように見開かれている。 「……さとり?」 『ど、どうした!? さとり!? 何かあったのか!?』 「違うの。あのね、おいら、おいら……」  戸惑うそうすけの声に、さとりはふるふると頭を振った。そうすけを心配させてはいけない、早く泣きやまなきゃと慌ててごしごしと瞼を擦るが、涙が止まらない。悲しくなんかないのに、それどころかうれしくてたまらないのに、胸の奥がぎゅっと苦しかった。  ど、どうしよう……! 違うの、おいら悲しくて泣いてるんじゃないの……!  そのとき、ぽすっと頭をそうすけに抱きしめられた。 「大丈夫。わかっているから、焦らなくていい」  ぽんぽんと慰めるように、そうすけの手がやさしくさとりの背中をたたく。  遠い昔、さとりの棲む村にも、樹齢千年を越える立派な桜の樹があった。天にも届きそうなほど大きな桜の樹の下で、ほかの妖怪たちがわいわいと楽しそうに花見をしているのを、さとりはいつもひとり離れた場所でぽつんと眺めていた。  ーーいいな……。  いまならわかる。あのときの自分はきっと寂しかったのだ。自分がその場にいてもいいよと言ってもらえること。お互いがお互いの存在を認めていることがうらやましくて、きっと仲間に入りたかったのだといまならわかる。自分には絶対に起こることなどないと、最初から手に入らないのだとさとりが諦めていたもの。 「ほらさとりー。桜がきれいだぞー。泣きやんだら、一緒に見ような。俺たちにはまだまだたくさんの時間がある。これからはもっとたくさんいろんな場所にもいこうな」 『さとりにきれいなものをたくさん見せてあげたい』  そうすけの言葉が、やさしい雨のようにさとりの心に染み込んでくる。さとりは幸せだった。幸せで、幸せで、どうにかなってしまうかと思うくらに、うれしかった。  音もなく、桜の花びらが舞い落ちる。  ようやく涙が止まったさとりに、そうすけがこっそり準備をしてくれた桜入りの甘酒は、甘くてやさしくて、幸せの味がした。

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