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―――――― ―――― ――…… 「リリィ、リリィ……起きて」  体を揺さぶられる。カーテンから零れる朝日と、優しい声。少女――リリィは、ハッと目を覚ました。 「おはよう。もうすぐ朝ごはんできるから、顔洗っておいで。リリィはたしか、紅茶でいいんだよね?」 「……え、なんでノワールがいるの」 「なんでって……ここ俺の部屋だけど」 「……なんで私がノワールの部屋に、ノワールのベッドの上にいるの」 「覚えてないの? 昨夜魔術を教えて欲しいって俺の部屋に来たんでしょ? リリィそのまま机に突っ伏して寝ちゃったからベッドに運んでおいたんだけど……だめだった?」 「……ま、まさかノワールと一緒に寝」 「あ、俺はあっちのソファで寝たから安心して」 「あ、そうですか……」  リリィを起こした男の名前は、ノワール。端的に言えば、リリィの想い人だ。リリィが彼と出会ったのは幼少の頃だが、その頃はそこまで交流を深めることもなく、こうして部屋に通ったりするほどの仲になったのはリリィはルージュとなった約1年ほど前からである。リリィがノワールへの恋心に自覚したのはごく最近のことで、それまではなかなかに性にだらしない生活を送っていた。ただ、その今までの生き方が、ノワールに恋するようになってからはひどく穢らわしいものに思えてしまって、そしてリリィは自分自身のことが嫌いで仕方なかったために、ノワールになかなか想いを伝えることができなかった。  ノワールは、リリィからみるとあまりにも綺麗な人だった。嘘もつかないし、優しいし、真っ直ぐな人間だと、そう思えた(実際のところはノワールが自分の本性を隠していたのだが)。だから、穢らわしい自分がノワールに恋すること自体が彼のことを穢してしまうのだと、リリィはそう思い込んでいた。その結果、リリィはノワールへの恋心を忘れるために様々な相手と性交渉を重ね、精神を保っていたのである。 「……ノワール」 「ん?」 「……ごめんね、迷惑だったよね」 「なんで? 昨日は俺も早く仕事終わったし、全然迷惑だなんて思っていないよ。それにリリィは俺の同僚なんだからもっと魔術使いこなせるようになってもらったほうが、俺としても助かるから」 「そ、そうかな……ありがとう」 「うん、どういたしまして」 「……の、ノワールッ!?」  突然、ノワールがリリィの頭を優しく撫でる。思わずひっくり返ったリリィの声に苦笑混じりに、ノワールは微笑んだ。 「遠慮しないでいつでも来てね。リリィが魔術を覚えていくの、俺も嬉しいよ」 「……ッ」  かあっと顔が熱くなる。 (む、無理……かっこいい……っ)  リリィはノワールの手を払うと同時に勢い良く立ち上がった。ノワールはそんなリリィをみても驚くこともなく、困ったように笑うだけである。 「か、顔! 洗ってくるから!」 「ああ、うん。そこの引き出しにフェイスタオル入っているから使ってね」 「わ、わかった」  ノワールのああいった行動は狙っているのか天然なのかは定かではないが、毎度毎度リリィの心臓にダメージを与えていた。頭を撫でるなんていうのは序の口で、気付けば同じベッドで寝ていたりとか、色々とされたことがある。そういう時もノワールはその穏やかな表情を崩すことは一切なく、それがリリィにとって残酷なのであった。こちらは嫌というほどドギマギさせられているというのに、ノワールのほうは真意がわからないのだから、ただただ苦しいだけなのだ。 (ノワールのバカ……ああいうのほんとうにやめてよ……私がどんな想いでいつも……)  リリィは指定された引き出しを開ける。するとそこには、きちんとたたまれた真っ白いタオルが整然と並んでいた。なんともノワールらしいこんな光景にすら、リリィは無駄にキュンとしてしまって、一瞬悶える。 「あ……」  そっと一枚、他のタオルの形が崩れないように取り出した。そうすると、何かがタオルに引っかかって引き出しの中から転がりでてしまう。ひゅ、と光の筋が目の前をよぎり、慌ててリリィがそれを追えば、それは床に音をたてて落ちる。 「これ」  それの正体は、古びたシルバーリングだった。ノワールはキッチンに向かっていて、そのことに気づいていない。  リリィの心臓がドクンと嫌な感じに跳ねる。このシルバーリングは、ノワールのものなのだろうか。誰かにあげようとしていた……。ノワールの歳を考えれば今までに結婚を考えるような相手に出会っていたということは十分ありえる。ここまで古びていればその相手はきっと、もういないだろう。ただ、それほどに彼に好きな人がいたという事実が、どこかリリィにとって不快で仕方なかった。  とりあえず、元の位置に戻そう。リリィが指輪を拾おうとしたそのとき。 「リリィ? もうできちゃったよ? 先に食べる?」 「あ――」  リリィは、思わずその指輪を握りしめ、自らの洋服のポケットに入れてしまった。本当は、落としたことを謝るべきだったのに。そして、できればその指輪についての話を聞きたかったのに。ノワールの口から他の人を愛したという話を、なぜか聞きたくなくて、そんなことを考えると苦しくて。無意識にやってしまった自分の行動に、リリィは激しく後悔した。 ――この指輪はきっとノワールの大切なものなのに、こんな汚い気持ちのために盗んでしまった  すぐに返せばよかったのに、なぜか一度ポケットに入れてしまうとそれができない。リリィは後ろめたさからノワールから目をそむけると、小さな声で言う。 「す、すぐに顔洗ってくるから……先に食べてていいよ、ノワール……」 「え、いいよ待っているよ。慌てなくてもいいから、そんなすぐには冷めないし」 「……うん、……ありがとう」  フェイスタオルを握りしめ。ポケットの中にはノワールの指輪を忍ばせて。リリィは洗面所に向かった。

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