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「そろそろ……氷高も屋敷に戻ったかな」 「きっと、契くんが思うような悪い未来は屋敷にないだろう。気構えないで帰りなよ」 「うん――あ、莉一さん。ちょっと車、止めて」  日が沈むころ、契は莉一に送られ、屋敷に向かっていた。氷高もきっと、天樹カレンへの答えをはっきりと出したころだろう。もう逃げる必要はない、ただ彼の答えを聞くだけ。契は屋敷へ帰る決心をしていた。  しばらく車を走らせたところで、契は車を止める。そこは、海岸だった。ひとけの少ない、夕陽に染まる海岸。 「なあに、こんなところに止めて。この海……いい雰囲気だね。僕に何か甘い言葉でも囁いてくれるの?」 「はい。聞いてくれますか、莉一さん」 「――えっ」  車から降りて、二人は海岸のコンクリートの上を歩く。  海は、漣が煌めいていた。空は、優しい残滓が散っていた。うみねこが、歌っていた。  美しい景色に、莉一は溜息をつきそうになった。先を歩く契の考えていることが、わからない。 「せっ……契くん……! ま、待ちなよ。僕はたしかに君のこと……。で、でも、君は君の本心を大切にするべきだ、まだ、君は氷高くんのことが――」 「……俺の本心なんて、あなたにはわからない」 「……っ、契くん、……、……?」  莉一の部屋で、たしかに契は、自分なりの答えを見つけたように見えた。しかし、まるであのときの契が消えてしまったかのように、まるで自暴自棄になったように、契は莉一に身を捧げてしまうようなことを言っている。莉一はそれが恐ろしく思えて、思わず手を伸ばしそうになった。  ――しかし。  振り向いた契の目に、莉一は固まる。 「――あの夕陽を見て、思わず、思い出してしまいました。かつて俺は、あなたに夢を抱いていた。迷いもなく、迷うこともできず、あなたに夢を抱いていた」  ――このセリフは。  先ほど、莉一の部屋で二人で見た、ラブストーリーの映画。契はそこにでてくるシーンを再現していたのである。  コンクリートブロックの上を歩き、夕陽を浴びて、振り向いて。髪を、服を、靡かせ。懐かしそうに微笑み、ヒロインに告白する。  そう演技力を必要とするシーンではなかった。ただそれゆえに、役者の持つ素質が浮き彫りになるシーンだった。 「けれど、俺は自分自身の答えを見つけました。ただあなたに憧れているだけの俺は、ただあなたに与えられるだけの俺は、もういません。今度は、俺があなたを導きます」 「――……、」  ――莉一は、目を奪われた。  急に、自分が物語のなかへ引きずり込まれたような感覚に陥った。この海岸が、彼のためだけに存在するように感じた。視界に映るすべてが契を中心に美しい映像へと変貌した。 「――好きです。俺を、あなたの隣においてくれませんか」 「……、せ、……契、くん……」  潮風が吹く。まるで、彼の背後に光が差したように。 「……なんてね。どうですか、莉一さん! 初めての俺の芝居の感想、聞かせてください」 「……初めて!?」 「初めてですよ。俺、今まで演技なんてしたことなかったし。学校の発表会とかだって、俺、目立つ役はあんまりやってなかったんだよ」 「……え、っていうか、よく一回だけ観た映画のワンシーンを完コピしたね!? セリフどころか、仕草も間もなにもかもが完璧だったよ……!? それに……」 「……それに?」 「い、いや……」  莉一は、正直なところ――おののいていた。  感動でも、感心でもなんでもない。恐怖を覚えていたのだ。莉一が契の演技に感じたのは――自分がすぐに追い抜かされてしまうという、恐怖。もしも契が俳優になったのなら、あっという間に自分を……いや、すべての俳優を踏み抜いて、頂点に立ってしまう。  何がそこまですごいのか、莉一には理解できなかった。しかし、契のすべてが――輝いていた、それだけはわかった。 「……契くん。君は、すごい力を持っているよ」 「……ほんとですか? そう思いますか?」 「だからこそ――自分の力に飲み込まれないように。自分が本当に欲しいものを見失わないように。それを忘れないように、これからを生きていってほしい」 「……? 難しいこと言いますね?」  氷高の隣に立ちたいから、世界一のご主人様になると誓った契。しかしそれは、恐ろしく過酷な道だろう。その道を「俳優」という舞台に見出したのなら、きっと、地獄を見るだろう。  莉一はそれをわかっていたから、素直に契の才能を喜べなかった。地獄ですらも突き進む能力を持った契は、どこまで行くのだろう。彼が欲しいものは、ただ、大切な執事の隣に立ちたいという願い、それだけなのに。 「……簡単に言うと、氷高さんを大切にってこと!」 「……?」  契はぽかんとした顔で、莉一を見つめていた。  こんなに幼い顔をするのに。ただ素直に恋をすれば、穏やかな幸せを得ることができるのに。 (本当に、不器用だなあ……)  呆れ、憐れみ。そんな感情が莉一のなかに生まれてきたが。それよりも愛おしさがふくらんでしまったことに、莉一は自分で自分をわらった。

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