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第九章

 昼も近くなるころだ。快晴の空から差す太陽の光が家の中をきらきらと照らす。清々しくて、眩しい、そんな日なのに――沙良の心はどんよりとした曇り空だった。  波折が家に来る。……それは嬉しいけれど、彼は昨日一日中鑓水に愛された後だ。どうせそんな余韻をひっぱってくるのだろうから、波折を見る度に失恋の傷を抉られてしまうに違いない。鑓水の言った「お手つき」ってそういうことだったのだろうか。もしかして自分が波折を好きになったときにはすでに…… 「……!」  もやもやと考えていると、そんな濃霧を晴らすように玄関のチャイムがなった。ドキン、と心臓が高鳴る。重い足を動かして、玄関まで小走りで向かって、扉をあければ―― 「沙良。こんにちは」 「……波折先輩、」 ――いつもみたいに眩しい、あなたが立っていた。 「しっ……私服なんですね!」 「休日に制服着る意味ないでしょ」  波折はアイボリーのゆったりとしたカーディガンにカーキの細身のパンツといった、さわやかな格好をしていた。波折の白い肌とさらさらとした髪の毛に恐ろしいほどに良く似合っている。シルエットも制服のときよりもその華奢さを強調していて、抱きしめたくなってしまうような雰囲気がある。初めてみる波折の私服姿にドキドキしてしまって、沙良はまともに彼を見つめることができなかった。  波折が靴を脱ぐために前屈みになった。いつもはネクタイでしっかりと絞められたシャツに隠れている首元が見えて、鎖骨もくっきりとその姿をさらけ出している。カジュアルな格好なのに色気が半端ないな……と沙良が自らの体温の上昇を感じた時―― 「……あ」 ――見つけてしまった。波折の首筋につく、紅い痕を。虫に食われたとかかぶれやすいとか、そういった理由で説明のつくものではない。カーディガンの襟でギリギリ隠れるところに連続していくつもついているそれは……間違いなく、キスマークだ。  沙良の目が泳ぐ。心が引き裂かれるような痛みを感じる。そうだ……この人は、鑓水のもの。波折の私服姿をみたことで浮かれて一瞬忘れてしまっていたが、彼は自分が触れていい人ではないのだ。 「夕紀ちゃんは?」 「えっと、……今日も友だちの家に泊まりにいってて……昼には帰ってくるっていってましたよ。波折先輩に会うこと、すごく楽しみにしてました」 「そう。じゃそれまでにご飯つくっててあげないとね」  波折がなかにあがってくる。彼が近づくと、ふわ、といい匂いがした。前よりもずっと彼の匂いに敏感になったのは、きっと彼への恋心が強くなったから。抱きしめたい、抱きしめたい、そんな想いがふつふつと湧いてくるけれど、それはゆるされない。身を焼くほどの焦燥に耐えて、沙良は波折をキッチンまで案内してやる。 「今日は何を作ればいい?」 「夕紀が唐揚げ食べたいって」 「ほー」  波折が持参していたらしいエプロンを身につけながら冷蔵庫を開ける。エプロンをつけるとまた一段と可愛いなあなんて、そんな切なさを覚えながら沙良がぼーっと波折をみつめていると、波折がくるりと沙良を顧みた。 「……材料、揃ってる?」 「ああ、はい……昨日揃えておきました」 「……ふうん」  波折にじっと見つめられる。ドキッとしてしまって、沙良は目をそらしそうになってしまった。 「――気が利くじゃん」 ――波折が、優しげに微笑む。  ギュン、と心臓が掴まれた。息が苦しい。沙良は波折のすぐ後ろに立って、冷蔵庫の扉を掴む彼の手に、自分の手を重ねた。身長こそは自分とあまり変わりないが(むしろ波折の方がわずかに高いような気がするが)、手はこちらのほうが大きい。このまま彼の顎を掴んで唇を奪いたい――そう思ったけれど。 「……俺もやればできます」  沙良は手を伸ばし、冷蔵庫の中に入れておいた料理の材料をとって……波折から離れていった。

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