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沙良が波折を案内したのは小さな部屋だった。部屋にはグランドピアノが置いてあったものだから、波折は少し驚いてしまう。
「……すごい」
「ここ母さんの使ってた部屋なんです」
「……ふうん、」
そういえば、と波折は前に沙良の言っていたことを思い出す。沙良の母親はピアノの先生で……たしか魔女に殺されてしまったと。穏やかな声色で自分を案内する沙良の表情をちらりとみて――波折は「あ」と声を漏らしそうになった。
沙良の表情が、いつもと違っているような気がしたからだ。本人は全くの無意識なのだろうが、いつもの柔らかい雰囲気が消えている。
「先輩、好きな曲とかありますか?」
「えー? 俺そこまでクラシックは詳しくないよ。ちょっと聴くくらいだから……そうだな、あれが好き。悲愴って曲」
「あっ、それ俺弾けますよ! ベートーベンですよね!」
ピアノから少し離れたところにあるソファに波折は座って、沙良を眺めていた。案外ピアノの前に座る姿が様になっているなあ、なんて思いながら、また沙良の違和感に気付く。波折に対して笑顔で接してはいるものの……目が笑っていない。この部屋に入った時から、沙良の様子はなんだか変だ――それは注意してみなければわからないほどのものではあるが。
沙良がピアノに向き直り、鍵盤に指を添える。そして指先がゆっくりと沈んだとき……波折は息を呑む。ふ、と空気に溶け出すような甘い音色が響き渡ったのだ。それは本当にこの音が目の前で奏でられているのかと疑うほどに美しい音だった。
「……」
素直にすごい、と思った。音が溶けた空気に触れて、体が震えた。魂で吸い込まれてしまうくらいに、綺麗な音。ただ、やっぱり沙良の雰囲気が違うことが波折は気がかりだった。ピアノに向き合うその顔はまるで普段とは別人のようで。
いったい何を思って弾いているのだろうと音色に意識をもっていけば、沙良の弾き方はどこか情熱的なものだと感じた。ベートーベンの悲愴の二楽章は和音によって進行される柔らかく甘い曲なのだが……沙良の弾くそれには、激情のようなものを感じる。甘美で切ない音の蓋のなかに、ぐつぐつと煮えたぎるような何かの強い想い。沙良はいったいどうしたんだろう……沙良にとってピアノってなんなんだろう……波折がぐるぐると考え込み始めたところで、曲は終了する。
「す、すごかったよ……沙良がこんなに弾けるなんて思わなかった」
「ありがとうございます……! 俺あんまり人前で弾かないから緊張したな」
「こんなに上手だったらもっとみんなに聴いてもらえばいいのに」
「いやー趣味なんで」
「ほかに何か弾ける曲ないの? 沙良の好きな曲とか」
「俺の好きな曲?」
波折が尋ねてみれば、沙良はうーんと悩んだように唸ってしまった。好きな曲、と聴いても音楽に精通している人が初心者に聴かせるとなると曲選びに困るかな、と波折は気付いて、ふと視界にはいった楽譜を指差してみる。
「それは? ピアノにのってるやつ。弾いてる曲じゃないの?」
「あ、ああ、これですか?」
波折が指をさした楽譜は、テープで補強されたボロボロの楽譜だった。沙良はそれを手に取ると恥ずかしそうに笑う。
「これはまだちゃんと弾けないんですよ。練習中で」
「そうなの?」
「ずっと練習してるんですけどね、俺そこまで才能あるわけでもないし、ましてや独学だし。母さんが好きでよく弾いていたから俺も弾けるようになりたいって思ってるんですけど、なかなか」
「……聴いてみたい」
母さん。沙良の口からでたその言葉に、波折はどきりとした。そういえば……沙良は母親に影響されて行動していることが多いような……そんな気がした。たしか裁判官を目指し出したのも、母親が魔女に殺されたから。ピアノも……なんだか母親を追いかけて弾いているような、そんな風にみえる。楽譜がボロボロになるまで、自分の能力に見合わない曲を練習し続けているというのが、波折にそう思わせてしまった。
「これはショパンのバラードって曲です」
「……知らないかも」
「かっこいい曲ですよ」
沙良が楽譜を開いて、譜面をみつめる。その目つきが、やっぱりいつもと違って。悲愴を弾いていたときよりもどこか表情が硬いのは、まだ弾けない曲だからかそれとも母親を追いかけて弾いている曲だからか。
静かに、曲がはじまったとき、波折はぞく、と全身の肌が粟立つのを感じた。音はやはり、沙良の紡ぐものは綺麗だ。柔らかくて、ゆるりと空気に溶けていく、耳触りのいい音色。でも、この曲はなんだか怖かった。悲愴を弾いていたときは仄かに感じるだけだった、ズシンと重々しい沙良の想いのようなものが顕著にメロディにあらわれている。徐々に曲が盛り上がりに近づくにつれてそれは強烈になっていって、なんだか危ないとまで思ってしまった。今すぐに沙良を止めたいと思うほど。
「……!」
「ごめんなさい、弾けるのここまでなんですよね」
ふ、と突然音が止んで、波折は一瞬混乱してしまった。ぞわぞわと胸を侵食していたなにか悍ましいものが消えてゆく。沙良の顔を伺えば、いつものように笑っていた。
「……沙良、本当にピアノ、上手だね」
「ほんとですか? はやくこの曲も弾けるようになりたいなって思います。母さんみたいに弾きたいです」
「……がんばって」
この曲を沙良がちゃんと弾けるようになったとき。沙良のなかで母親に追いついたとき。それはきっと、永遠にこないだろうと波折は思った。見果てぬ夢を掴むことは不可能だ。たとえ譜面を追えるようになったとしても、沙良は母親のバラードには追いついていないと思い込むだろう。母親の弾いていたバラードにはまだまだ追いつけないと、ずっとそう思うのだろう。
――沙良は永遠に母親を追い続ける。
普段の温厚な性格のなかに、こんなものがあったのかと……波折は、沙良にどこか危ないものを感じてしまっていた。
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