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第91話 霧咲の傷

仕事を終えた榛名は、買い物をして自宅に帰った。霧咲は20時頃に来ると言っていたので、久しぶりに手料理をご馳走しようと思ったのだ。たいしたものは作れないのだが。 榛名は霧咲と付き合い始めてから、簡単な手料理を馳走したことは何度かある。本当に簡単なものばかりだったが――うどんや焼きそば、パスタなど――霧咲はいつも『とても美味しいよ』褒めてくれた。 しかし、簡単なものばかりを作って褒められっぱなしではいけない……とずっと思っていたため、今日のメニューはいつもより気合が入っていた。一応二人で過ごすクリスマスは、今夜が本番なのだから。 「えーっと、お肉はどうやって味付けするんだっけな」 スマホでクックパッドを開いて、簡単な肉料理を作る予定だ。それと、付け合せのポテトサラダとコーンスープなんかを。 今までの彼女と過ごしたクリスマスはほぼ全て外食だったので、(そもそも彼女の手料理とやらを馳走になった記憶は無いに等しい)何を作ればよいのか少し迷ったが、それなりに考えた結果だった。 プレゼントらしいプレゼントも買ってないので、手料理がそれになればいいな、とも思って。その割には、今夜も簡単すぎる料理な気はするが……。 (要は気持ちの問題だよな、うん) 料理は愛情だとどこかで聞いたことがある。それならば十分に入っている、と榛名は自負していた。たとえそれが、簡単すぎる料理であっても。 * 料理が全て出来上がり、シャワーも浴びてワインの準備もできたところでインターホンが鳴った。モニタを確認すると、そこに映っているのは昨日会ったばかりの愛しい恋人の姿だった。 (……ん?) 少しの違和感を抱きながら、榛名は『どうぞ』と言ってオートロックを解除した。そして数分もしない内に今度は玄関のインターホンが鳴った。 「こんばんは、お疲れ様で……」 玄関を開けながらそこまで言ったあと、榛名は思わず絶句した。 「霧咲さっ……、その顔、どうしたんですか!?」 思わず裸足のままで玄関に下りて、恋人の顔に手を伸ばした。玄関先に現れた霧咲は、左の頬に大きめの傷パッドを貼っていたのだ。 「ああ、これ?昨日蓉子にやられた」 「え!?」 霧咲は何でもないと言う風にさらりと答えた。榛名を玄関に戻すと、自分も『お邪魔するよ』と言いながら上り込んだ。リビングに行くと、テーブルに並んでいる料理を見て感嘆の声を上げる。 「わあ……すごい、ご馳走じゃないか!これ全部君が作ったの?」 「ご、ご馳走ってほどのもんでもないですけど……食器とか揃ってないですし……」 「俺の家に引っ越した時に新しく揃えたらいいよ。それにしてもすごいね、全部美味しそうだ」 霧咲はコートを脱ぎながら料理をまじまじと見て、しきりに感心している。そこまで大したものじゃないのに褒めすぎなのでは……と思うが、その態度が榛名に(次はもっとすごい物を作ろう……!)と思わせるので、案外霧咲はわざとやっているのかもしれない。 しかし榛名には、そんな手料理のことよりも気になっていることがあった。それは勿論霧咲の頬の傷のことに他ならない。当たり前のように『俺の家に引っ越した時に』と言ってくれたことも嬉しいのだが、今はその言葉に浮かれてなんかいられない。 霧咲はいきなり榛名の方を振り返ると「もうシャワーは浴びた?」と、聞いてきた。 「はい。霧咲さんも良かったら先に入ってきてください。どっちにしろ料理はあっためなおすんで。あ、それと……そのテガダームパット、替えはありますか?」 「もちろんあるよ。透析室で貰ってきたから」 「消毒は?」 「君のキスで」 霧咲のふざけた回答に、榛名は一度キリッと睨んだあと「ありますよね?」と再び聞いた。そんな榛名を見て、霧咲は苦笑しながら言う。 「あるからそんなに怖い顔をしないでくれよ。なんだか余計に痛く感じるじゃないか」 「じゃあうんと優しく消毒してあげますから、とっとと風呂に入ってきてください」 「なんだか恐いなぁ……」 ブツブツ言いながら、霧咲は浴室へと行った。霧咲はしょっちゅう榛名の部屋に泊まりに来るので、下着類やパジャマは既に用意してあるのだ。 昨日榛名と別れたあと、亜衣乃を迎えに来た彼の妹との間に一体何が起きたのだろう。きっと楽しいことではないに違いない。 榛名は霧咲の頬の怪我と、眠ったままで別れた亜衣乃の心配をした。 風呂から上がってきた霧咲は、テガダームパッド(傷パッド)をきれいに剥がしていた。そこにはひっかき傷のような痕が三本ほどくっきりとついており、まだ少し血が滲んでいた。 「い、痛そう……」 二人一緒にソファーに座って、榛名は霧咲の傷を横からまじまじと観察した。 「長い爪でざっくりやられたからね。ったく、アイツは本当に……」 「消毒しますよ?少ししみますからね」 榛名は霧咲が持って帰ってきたディスポーザブルの消毒綿球をちょんちょん、と霧咲の頬に当てた。 「うっ……マスキンなのに少ししみるね」 「我慢我慢。ゲンタシン付けときますね」 「うん」 榛名は霧咲が出してきたゲンタシン傷用軟膏を直接パッドに塗りつけて、丁寧になめらかな頬に貼付した。 「終わりましたよ。傷跡、少し残りそうですね……」 「ありがとう看護師さん。まあ男だからそれは別に構わないさ。仕事中はマスクすればいいんだしね」 霧咲は自分でも頬を触って、パッドの周りを押さえてくっつけていた。そんな仕草を見ながら、榛名はきゅっと両手を握りしめて言った。 「……昨日、帰らなきゃよかった」 「え?」 「俺が、貴方の代わりに傷つけられたら良かったのに」 「……何を言ってるの?」 「だって俺は……貴方の心の傷は、引き受けてあげられないから」 榛名は、霧咲が心にとても大きな傷を負っていることを知っている。そしてそれは、決してすぐには消えない傷だということも。 「馬鹿だね……、君が蓉子に傷付けられたら、俺が我慢できずにやり返してしまうよ」 そう言いながら、霧咲は榛名を強く抱きしめた。榛名も霧咲の背中に手を回して、頭を擦り付ける。 「それはもっとダメですよ。女性に暴力を奮うなんて」 「じゃあ男は黙って傷付けられてもいいの?そんな理不尽は無いよ」 「でも、その理不尽を貴方も受け入れているじゃないですか」 「まあ、妹が相手だしね」 「………」 なんだか言いたかったことが有耶無耶にされてしまったが、ここで二人がどんな話をしようと時間はもう戻らないし、霧咲の顔の傷が簡単に消えることはないのだ。 いくら榛名が霧咲の代わりに傷つきたかったと言っても、霧咲がそれを許さない。 「さあ、君の作ってくれたディナーを食べよう?話はそれからでもゆっくり出来るだろう」 「……じゃあ、あっためなおすんでちょっと待っててくださいね」 「うん」 * 榛名の料理はいつものように――多分、いつもより好評だった。毎回大げさなくらい褒めてくれるので、その違いはあまり明確ではないが。 「とっても美味しいよ暁哉!君は本当にいい奥さんになれるね、あ、もう奥さんだっけ?」 霧咲はワインを片手にかなりご機嫌だった。ワインは以前に榛名が買っていて、クリスマスに霧咲と呑もうと思っていたものだ。 「いや……ちょっと味付け濃いですよ…すいません。血圧上がりそう」 奥さん、のくだりはさらりと流した。 「そんなことないよ、君を見てると自然と血圧は上がるけどね。ポテトサラダも美味しい」 「あんまりジャガイモ潰れてないですけどね……なんか少しシャリシャリするし」 褒められて嬉しいのだが、やはり恥ずかしくて(イマイチだし)素直に受け止められない。本気で料理教室にでも通おうかな?と思った。これからは子どものご飯も作ることになるのだし……それにしても。 (奥さん、か) 自分は男なのに、そう呼ばれるのは妙に嬉しい。いよいよ末期だな、と思った。 「ちなみに、霧咲さんは料理をするんですか?」 「しないよ」 「全く?」 「全く。普段は外食だし、亜衣乃が来たときは出前だからね」 「………」 だからここまで褒められるのか。 榛名は料理教室に通おうと強く思った。

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