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そーすけ。
「調教開始だ」
篠田先輩は不敵に微笑み、前に差し出した手を高く掲げた。
ザバァッ!
それを合図に三頭のイルカ達が、水面から高く飛び上がる。火花のように広がる飛沫が、太陽の光で宝石のようにキラキラと輝く。
それを背景に、イルカ達へ笑顔を向ける篠田先輩に、俺はうっかり見惚れていた。
俺がまだ小学校にも通う前、旅行で訪れた水族館で初めてイルカのショーを見た。そこで魅了され、水族館に勤めて三年、念願叶ってようやくなれたイルカのトレーナー。水族館といえば、イルカのショーが目玉だった。
ショーでジャンプを披露させたりボールを飛ばさせたり……。そんな華やかな舞台の裏では、イルカの体調管理に始まり、地道に芸を教えたり、一緒に泳いで様子を見たり、信頼関係を築くことが大事な仕事だった。
そんな仕事のひとつ、餌やり。バケツに入った魚をイルカの口の中に入れてやる。
「せっかちだね、君は」
物欲しそうに口を開いて、俺の指に顔を擦り付ける。次の餌を欲しがって大きな口を開けて待つイルカはなかなか可愛い。
「名前呼んであげな」
「ひはっ?! は、はい」
突然後ろから現れた篠田先輩にひっくりして、俺は変な声を上げてしまった。篠田先輩はそれをクスクス笑うから、恥ずかしくて顔が熱くなる。
「そーすけ、今日は調子が良さそうだな」
篠田先輩が優しく言うのを、俺はドキッとした。
先輩が呼んだのはもちろんイルカの事だ。この水族館で十三年飼育されている、そーすけ。
そして、その名前は。
「そーすけ? 手が止まってるぞ」
「か、からかわないでください」
篠田先輩の手がイルカにするみたいに、俺の頭を撫でた。そう、俺の名前も宗介、つまりはそーすけだった。
「イルカと同じ名前って、なんだか恥ずかしいですよ」
次の魚をそーすけに与えながら言う。その間も、先輩が俺の頭を撫でるから落ち着かない。
「そう? 俺は園生(そのお)がここに入って、イルカ希望って聞いてからずっと、この時を待っていたんだけど」
「えっ、どう言う事ですか」
水族館で働き始めたのは十七歳の頃。高三の夏休みからバイトで始めて、卒業してからそのまま就職した。
篠田先輩はそーすけと同じ、十三年目のベテランだった。三年前からすでに、この水族館のエースだ。
俺が水族館に入った時から、俺のことを見ててくれたのだろうか。
「だって、イルカと同じ名前なんてそれだけでお客さんにウケるだろ」
「そりゃ、そうかもしれないですけど」
俺のイルカショーデビューはまだで、今はそーすけとの信頼関係を深めることに終始していた。俺の合図でジャンプしたりボールを弾いたり、そういった全ての原点は信頼関係にあると、篠田先輩は言った。
「それにどっちのそーすけも素直で可愛いから」
と言いながら、先輩はそーすけと俺の頭をそれぞれ右手左手で撫で始めた。
「だから、からかわないでくださいっ」
慌てて言う俺の顔は真っ赤だろう。先輩の言葉が冗談なのか本気なのか掴み所がなく、いつも戸惑ってしまう。なんにせよ先輩に触られるとなんだか嬉しくて恥ずかしくなった。
そーすけも撫でられるのを嬉しそうにしている。俺たち、似ているのかもしれない。
「はあ……」
ため息がつい出てしまう。そーすけの担当になってしばらくが経つが、そーすけはなかなか思った通りに技を決めてくれなかった。
そーすけはベテランだから、すでにいくつもの技を覚えていた。ジャンプ、大ジャンプ、バックフリップ、捻り飛び、尾ビレで飛沫をあげさせたり。
篠田先輩が合図を送ってやれば、そーすけはその技を披露した。
けれども、俺がやると合図と違う技になってしまったり、合図に気付いてもらえなかった。
そーすけは出来る子なのに、俺が未熟なばっかりにその技を披露出来ないでいる。
どうしたらいいのか、頭を抱えたって問題は解決しなかった。
「園生、俺のこと、よく見てな」
篠田先輩はそう言って、プールサイドに立ち、そーすけに合図を送った。
少しも余すところなく見ようと、先輩をじっと見つめた。
引き締まった身体だった。きっと普段からトレーニングを欠かさないのだろう。イルカのトレーナーは体力勝負なところがあった。
ウェットスーツのおかげか、先輩の引き締まった身体がより鮮明に見えた。腕も胸筋も逞しいのに、どこかスマートだった。後ろ姿も、ただ立っているだけなのにほれぼれするほどだ。ピンと伸びた背筋、キュッと上がった臀筋。
焼けた肌、傷んだ髪は海の男らしさを醸し出している。男らしい。そんな姿が俺を振り返って、ドキッとする。
「園生。なんか見てるとこ違う気がするんだよな」
「いや、あの……すみません」
夢中で見ていたのは確かに少しズレていた。俺は謝るしか出来ない。
「園生」
「う……」
先輩は俺の頬を両手で包み、じっと俺を見る。熱い手のひらに、身体が火照っていく。
「相手の目をよく見て。今なにを考えてるのか、どうして欲しいのか、わかるか?」
瞳が真っ直ぐに俺を貫いた。
先輩の瞳の奥に俺がいる。ああ、すごく近い。目と鼻の先という言葉を体現している。もう、触れてしまいそうなくらいだった。
先輩はなにを思っているのだろう。海の匂いがした。ヒゲは綺麗に剃られている。滴るのは汗か、プールの水か。
「俺はそーすけがなに考えてるかわかる」
今キスしたら、しょっぱいだろうか。
まともには考えられない俺の頭がそう思った。そして、近過ぎる距離がさらに近付く。唇に殆ど触れそう。
「キス、したい」
海の匂いが、強まった。
『そーすけ、ジャンプ!』
篠田先輩のマイク越しの声を合図に、そーすけが高くジャンプする。正確には、横で俺が出した合図に従っているのだけれど。
俺の合図でそーすけが技を出せるようになって、初めてのショーだった。
ショーの企画構成から俺と篠田先輩で決めて、実際に演技する。学生時代の文化祭のようで楽しかった。
そして初めてのショーのコンセプトは、先輩のゴリ押しで決まった二人のそーすけだった。
『上手に出来ましたねー、そーすけ偉いぞ』
そう言って先輩がプールサイドにしゃがむので、俺はそこに駆け寄り頭を差し出す。
水面からはそーすけも顔を出して、俺とそーすけが先輩に頭を撫でられていた。
『って、俺はイルカじゃありません』
『いやあ、ついつい』
先輩が俺もイルカとして扱うのにツッコミを入れる、そんなコント仕立てのショーだった。
お昼時の顔見せショーだから、お客さんも和やかに笑ってくれた。
『もう……そーすけ、やっておしまい!』
俺は左から右に両手を動かした。すると、そーすけはプールサイドから距離を置いて、尾ビレで水を飛ばした。
見事、篠田先輩はずぶ濡れになる。
『みんなにもやっちゃえ!』
そーすけの反乱、とでも言おうか。そーすけは客席にも水を飛ばす。
客席はきゃーきゃー言いながら、楽しそうだった。事前に濡れる可能性のショーだという告知がしてあって、合羽も貸し出されている。イルカの水飛沫はショーの醍醐味の一つだった。
『ごめんなさーい』
『許してあげましょう』
『じゃあ仲直りのしるしに、三人で大技です』
そう言って、俺は大きいフープを、篠田先輩はボールを持つ。
タイミングの難しい技だった。そーすけはジャンプで俺の投げたフープを首にかけ、ボールを弾く。成功は五割。
『せーの』
『せーの』
ジャンプの合図を出し、せーののタイミングでフープとボールを投げる。
ザバァッ!
技は見事成功、観客の大きな拍手でショーは幕を閉じた。
初めてのショーは大成功だった。なにより、二人のそーすけは観客に名前を覚えてもらうのに大いに役に立った。
「お疲れ、よく出来てたよ」
「先輩のおかげです、ありがとうございました」
そーすけのショーが終わると、一旦片付けをして、時間を置いて違うイルカのショーが始まる。
一息ついて先輩と話しながら片付けをした。
「俺、最初のジャンプで失敗しちゃって……」
「でも次のジャンプはタイミングばっちりだったろ。喋りもよく声出てたし、すごい良かったよ」
あまりにも褒めてくれるから、俺は照れて顔が熱かった。
「篠田—、こっちお願い」
「はいはい。じゃあ、そーすけのことよろしく」
先輩が次のショーの段取りに呼ばれたので、俺はそーすけの元へ移動した。
イルカの調教というのはとにかく褒めて伸ばす、そんな方法だった。
イルカは賢いから、褒めたことはすぐ繰り返した。ジャンプしたら褒める、合図に従って技をしたら褒める。聴覚や視力が優れているわけではないから、声で怒ったり身振りでしてみても、イルカには伝わらない。
だから、こちらの指示通りに出来たら褒める、新しいことが出来たら褒める、とにかく褒めて、『それをやると嬉しいこと』だと覚えさせるのが調教だった。
篠田先輩はよく俺のことを褒めてくれた。それは嬉しかったけれど、結局イルカにしている『褒めて伸ばす』のと同じ事なのかなと思ってしまう。なんだか胸が締め付けられるようだった。
プールサイドにしゃがむと、そーすけが顔を出した。
「俺だけに見せる顔、見せてよ」
そう願っても、やっぱり俺は、イルカのそーすけと同じ扱いなのかな。
「そーすけ」
それからと言うもの、篠田先輩は俺をそーすけと呼ぶようになった。
名前を呼ばれる事が嬉しい反面、どう聞いてもイルカを呼ぶときと同じニュアンスで俺を呼んでいた。だから、呼ばれるたびに胸がツキンと痛くなる。
俺は一人の人として呼んで欲しいんだ。一人の人として見て欲しいんだ。そう自覚すると尚更、篠田先輩に呼ばれた時にどう反応していいか戸惑った。
「そーすけ」
「俺は……イルカじゃないです」
更衣室のロッカーで、いつものように先輩に呼ばれ、喉まで迫り上げていた言葉がついに溢れて口から出て行った。
言葉足らずで先輩に伝わっていないかもしれない。けれど、訂正も補足も、先輩の顔を見る事だってできない。ロッカーに額を押し付けて、冷たさで頭が冷えたらいいと思った。
「そーすけ」
先輩の手が肩を掴んだ。振り向かされて、俯いた顔を、顎を掴まれ上させられる。
「座ろうか」
先輩は更衣室のベンチに俺を座らせ、横に並んだ。
「あのイルカ、そーすけは俺の初めての相棒なんだ」
先輩が話し始めた。
「一緒に技を覚えていって、たくさんの事を学んだ大事な相棒なんだ。でも、そうなったのは初めてそーすけとショーに出た時だった。その時、そーすけにはまだ名前がなくて。他のイルカのショーの最後に顔出して、観客に名前を決めてもらうってイベントだった」
この水族館では、新しく来たイルカには観客からの公募で名前を決める事になっていた。
「その時、6歳くらいの男の子かな。最初は何か嫌なことでもあったのか泣いていたんだけど、イルカのショーを見て笑顔になっていったんだ。その子も名前決めに参加したんだけど」
『じゃあ僕のお名前教えてくれるかな?』
『そのお、そーすけです!』
『元気に言えたね、じゃあイルカさんのお名前、言えますか?』
『? そーすけです!!』
ハッと思い出す。そうだ、勘違いして自分の名前を二回聞かれたと思ったんだ。記憶が曖昧過ぎて幼い頃に来た水族館がここだったなんて今の今までわからなかった。
けれど、そーすけと名付けたのは、つまりは俺だったんだ。
「『イルカ凄かったです。イルカ大好きです』そう、言って貰えたのが嬉しくて、俺は辛い時もその言葉を思い出して励みにしていた。だから、イルカの名前なのはもちろんだけど」
先輩の手が耳に触れて、じっと俺を見つめた。
「そーすけ。ずっと、お前のこと、思ってた」
「……」
言葉に出来ない。胸が高鳴ってズキズキするのに、今までとはまるで違う。身体中に血が巡って、熱くなっていく。
「これからもよろしく、そーすけ」
甘く囁かれた名前がこそばゆい。ずっと、俺を呼んでくれていたのだ。
照れくさいのに反らせないで、篠田先輩の瞳を見つめた。今なにを考えているのか、どうして欲しいのか。
きっと、キスしたいと思っている。
俺はそんな先輩の気持ちに応えるため、顔をそっと近付けた。
終わり
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