34 / 73

会計監査・平良洸太の場合

 ――何が正しいのか、わからなくなる。  恋に落ちたのは、一瞬だった。  朝から学園を騒がせている季節外れの転入生、その噂だけは耳に入っていた。号外と銘打って渡された新聞にも、超絶美少年の文字がでかでかと載っており、顔ははっきり映っていないが十分と儚げな雰囲気が伝わる写真があった。流し見て、テンションを上げているクラスメイトを横目に、自分には関係のないものだと思い込んでいた。  その日の休み時間、移動教室の間の出来事だった。いつも行動を共にしている友人たちと並んで理科実験室へと歩いている最中、手が滑って、ペンケースを落としてしまった。友人たちを待たせるのは忍びない、転がるペンケースを拾おうと、慌てて身を屈めたときだった。平良とほぼ同時に、手を伸ばす影がある。動きは止まったペンケースを、お互いが取ろうとして、指先が触れ合ってしまった。 「あ、」 「ありがとう……」  取ってくれようとしたのだろう。互いの指が重なると、弾かれたように腕を引かれる。顔を上げてまずは礼をと、低く通る声で告げれば、目の前にいる彼が、ぱっと笑った。まるで花開くようなその笑顔に、平良の目が奪われる。――栗色の髪の毛、大きな瞳、長い睫毛、小ぶりの鼻、小柄な身体――それが噂の転入生だと知るのは、直後、友人たちの口から告げられてのことである。  それからというもの、大変だった。あのときの彼の笑顔ばかりが脳裏に浮かび、頭から離れなくなる。生徒会の仕事どころか、授業さえも手につかなくなって、同室者には心底呆れられた。自分でもわかってる、でも、意識の全てが彼に向かってしまっているんだから仕方ない。こんなこと、生まれて初めてだ。  しかし、不運なことに、ライバルは多かった。まず最大の敵が、椎葉副会長だ。副会長も同じようなきっかけで、剣菱に心奪われたらしい。常にその隣を位置し、あらゆる場面で一緒にいる。平良は脇に仕え、さっと飲み物を差し出すことしかできない。更に、あの千堂兄弟も、兄弟そろって剣菱のことを気に入ってしまったようだ。隙あらば悪戯しようとするのに、目を光らせるしかない。生徒会以外の場所でも、敵は多い。自分が守らなければ、妙な使命感に囚われた平良は、生徒会室よりも、剣菱の隣にいることの方が多くなった。  「俺、生徒会辞めるわ」  ある日、同室者でもあり、同じ生徒会の役員であった北野がそう告げた。それは、ちょっとコンビニ行ってくるわ、とか、アイス食うわ、とか日常的なことをさらりと言うような、そんな軽い口調だった。 「え、」  咄嗟に反応が出来ず、風呂上がりの平良は目を瞠る。もうそろそろ190センチに届きそうな平良と、170センチにも届かない北野では、20センチ以上の身長差があった。野球部らしい短髪を見下ろし、ぱちぱちと瞬く。 「部活、忙しいし」 「ああ、野球部」 「そう。今年は狙えそうなんだ、甲子園」  北野は平良の顔を見ずに、告げた。確かに最近、生徒会よりも、部活の方に精を出していた。北野は優秀な人材だ。見るからに体育会系にも関わらず、主席で入学し、自動的に生徒会補佐の立場についた。背は低いが将来有望だと、鈴宮も北野を可愛がっていた。(当の北野はそれを鬱陶しがっていたようだったが) 「それにさ、――」 「なに」 「いや、なんでもない」  北野は何か言い掛けて、やめた。  ふいと顔を逸らして、ベッドの上に乗る。体重を考慮して、身軽な北野の方が、2段ベッドの上を使っている。 「だから、俺の分まで頑張れよ」  ベッドから降ってくる声を聞き、平良は首に巻いたタオルをぎゅっと掴んだ。  その声に、頷くことができなかった。  北野が辞めた代わりに、補佐として入ってきたのは、剣菱だった。その経緯は何となく察することができる。本来なら喜ぶべき出来事なのかもしれないけれど、夕べの北野とのやり取りを思い返すと、手放しに歓迎することはできない。  幸いにして、平良は元々、表情が表に出にくいタイプだった。複雑な心情はひた隠しにし、いつものように、副会長や双子と共に、剣菱を囲んだ。剣菱に飲み物を差し出し、副会長や双子が行き過ぎた悪戯をしないように目を光らせる。たまに剣菱が笑顔を向けてくれれば、それだけでしあわせだった。――会長と会計のデスクの上に積み重なる書類には、気が付かないふりをした。  体育祭の準備が本格的に始まる。会長と鈴宮が忙しそうに走りまわっている中、自分たちは、やっぱり剣菱中心に世界が回っていた。本当にれで良いのかという自責の念と、このままでいたいという欲求が、平良の中でぐるぐると渦巻いている。夜、満足に寝られなくなったのは、この頃からかもしれない。その所為で朝もスッキリと起きられず、北野に蹴られて漸く起きられる日もあった。北野からの眼差しが、呆れを通り越して、冷たくなっている気がする。  平良は大きな身体を丸めて、日夜葛藤していた。  ――それでも自分の欲には勝てない。  それに今さら、手伝えることなんてなかった。  剣菱と副会長の隣にいて、たまに飲み物を渡したり、視線で牽制したり、そんなことをして、毎日を過ごしていた。ちくりと、胃が痛む。  耐え切れなくなったのは、体育祭の前日だ。鈴宮が、あの鈴宮が、手芸部と生徒会の仕事で殆ど寝ることも出来ていないという話を聞いた。生徒会室の、会長の机には、栄養ドリンクの空き瓶がずらりと並んでいる。ちらりと見た会長の目許には、隠しきれない隈が刻まれていた。  それでも、椎葉と剣菱は、優雅にお茶を飲んでいる。双子はたまに姿を消すけれど、基本的には一緒にいた。自分も、だ。今さら何も手出しができない、でも、これでいいのか。  剣菱が来る前は、不真面目は鈴宮の代名詞だった。隙を見ては生徒会室を抜け出して街へ繰り出し、会計の仕事をやるのは自分の役目だった。それに不満はなかった、仕事を覚えることができるし、「平良くんちょー気が利くじゃん、最高!」なんて笑って褒められるのは、悪い気がしない。たまに、ナイショだと言いながら、特別に作ってくれたあみぐるみをプレゼントしてくれることもあった。一応、後輩として、可愛がってくれていたおうだ。会長も会長で、今よりずっと余裕があった。椎葉と軽口を叩きあっては互いに挑発して、生徒会をより良いものにしようとしたいたように、思う。――思い出だから、美化されているのかもしれないけれど。  ――恋は盲目だと、言いだしたのは誰だっただろう。  椎葉の隣、ちょこんとソファに座る剣菱を見て、平良は唇を噛んだ。  そばにいたい、と思うけれど、……。  「わからないんだ」  何が正しいのか。  2段ベッドの下の段、普段は平良が使っているそのベッドに、北野と並んで座り、平良はぽつりと零す。手には缶珈琲が握りしめられている。確か鈴宮の好物だったそれは、今や平良も好んで飲むようになったものだ。甘すぎる味が、悩み過ぎて疲弊した身体に染みる。 「――悪ィ、」  隣に座った北野は、一言謝罪を呟いた。何がと顔を上げると、不意をついて、左頬を殴られた。それもグーで、思いっきり。上半身がベッドの上に倒れるが、何とか肘をついて起き上がった。鈍い痛みが走る混乱と戸惑いに顔を上げると、北野が思い切り此方を睨んでいた。手にした缶珈琲も、殴られた拍子に床に落ちた。茶色い染みが、フローリングに広がる。 「おっまえなあ、阿呆か阿呆かと思ってたけど、そこまで阿呆だったのかよ!?」 「きたの、」  苛立ちが、びりびりと空気を通して伝わってくる。殴るだけでは足らずに、北野が胸倉を掴んできた。 「何が正しくて何が正しくないなんて、十分わかってるはずだろそんなもん! いつまでも言い訳してんじゃねえよ、馬ァ鹿!」  反論も何もできずにいると、北野が馬乗りになってくる。未だに幼さの残る大きな瞳に、確実に怒りの色を浮かべて、平良を見下ろしてきた。ひりひりと赤みの残る頬が痛い。けれど平良は何も言えず、唇を強く噛んだ。北野は、小さく息を吐く。 「あと、」  何処か決まりが悪そうに視線を逸らして、唇を尖らせながら、北野が言った。 「早々に戦線離脱した俺が言えた台詞じゃねえけど。……鈴宮さん、困らせんなよ」  ――ああ、そうだ。  がんばれよ、そう言った北野に自信を持って頷けなかったのは、今の自分の姿に疑問があったからだ。 「なんか、言えよ」  平良の腹に乗り上げ、ずっと平良を見下ろしている北野は、流石に焦れたらしく、拗ねたような表情のままそう促した。平良はゆっくりと瞬きを繰り返す。 「……目が醒めた気がする」  自覚した心情を呟くと、じわじわと、胸に迫ってくるものがあった。 「北野、ありがとう」  そして耐え切れず、目尻には涙が浮かび、最後にはえぐえぐと情けない嗚咽が喉から漏れた。目尻から流れる涙が頬を伝い、傷口に染みるのもまた、涙の量を増やした。さすがにそれには、上に跨る北野もギョッとする。 「なっ、泣いてんじゃねえよばか!!」 「ごっ、ごめ、ごめん」 「あーーーもーーーー」 「いだっ、いたいよ北野」  堪えていたものが堰を切って溢れだすように、ぼたぼたと零れる涙が止まらない。鼻を啜るが、焦った北野が、どうにか泣き止ませようとぐしぐしと乱暴に顔を拭う。それが頬に当たり、また痛い思いをする羽目になった。 「どうせだから、お前にもっと精神的ダメージを与えてやる」 「な、なんで」 「いいから聞けよ」 「う、うん……?」 「俺が生徒会辞めたのは、腑抜けるお前らを見てたくなかったからだ」  ため息を吐いた北野が、真面目な顔になって、近い位置のまま告げた。確かに、北野が生徒会を抜けた時期は、剣菱が現れた時期と重なる。一瞬、平良の涙が引っ込んだ。 「正直、今も、各務会長と鈴宮さんには申し訳ないと思ってる。……でも、いやだろ。あんだけ一生懸命だった奴……ら、が、恋だ何だで仕事に手がつかなくなるのを見るのなんて」 「北野……」 「まさか、俺が抜けた後も状況が変わらねえとは思わなかったけどな」  ひょっとして北野は、自分の後釜が剣菱になることまで見越して、辞めたのだろうか。首席を取るほどだ、見た目に寄らず頭が回る男だから、有り得ないとは言い切れない。剣菱が役員のポジションに収まれば、生徒会がうまく機能すると思ったのかもしれない。だが、結局は何も変わらなかった。いや、――変えなかった。 「おら、顔上げろ」  半ば茫然としていると、促されて、咄嗟のことに逆らえずに顔を上げる。未だ涙は乾かずに、目尻に残ったままだ。鼻の頭なんて赤くて、少し鼻水が残っている。どこからどう見ても情けない顔で北野を見上げれば、パシャリ、カメラのシャッター音が響いた。 「き、北野、今何し……」 「泣き顔、もらった」  ニヤリ、北野は口角を持ち上げる。それはとても凶悪な笑みで、――鈴宮はよく、彼のことを「可愛い北野くん」と称したけれど、そんな可愛げなんて欠片もない。ぞくり、いやな予感がして、平良は肩を竦めた。 「いいか、阿呆なお前にもわかるように説明してやる。俺はお前の弱みを握った。ああ、唯の泣き顔とか言うなよ? 煽り文句なんてどうとでもつけられる、レイプされた後みてえに編集することもできるぜ」 「レ……!?」 「そこに反応すんなよ、童貞丸出しじゃねえか。……まあ、んなことしなくても、普段無口でクールな生徒会期待の一年平良クンの泣き顔とあらば、屈辱以外の何物でもねえよな」  なあ、と笑顔のまま、スマートフォンに映る平良の泣き顔の写真を見せて、北野は首を傾げた。 「何が、言いたい」 「これをばら撒かれたくなければ、――」  北野は楽しげに笑い、脅しの常套句とも取れる言葉を紡ぎ、その続きを平良の耳元で囁いた。平良はその内容に目を丸め、それから、堪えきれずに小さな笑い声を洩らす。  ――嗚呼、俺は、良い友人をもった。  頬の痛みも忘れるくらい、それは、有難い叱咤激励だった。  ――本来のお前らしく、頑張りやがれ。  おわる。

ともだちにシェアしよう!