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イチ
人ごみでうるさい駅から遠ざかって、誰も通らない暗い道を探す。顔の輪郭に沿ってたらり、たらりと汗が伝った。呼吸は浅くて速い。
「はっ…ハァっ」
吐いた息は熱を孕んでさらに俺の体温を上昇させた。
できるだけ人目につかないで帰ろう。その意思とは裏腹に通り過ぎていく人を焦がれた目で見てしまう。
前にいた若い女性の首裏に目が行く。握り締められてたはずの手が指がゆっくりと開く。切り揃えられた爪がミシと軋 んだ気がした。
その首を切り裂け
脳内で反響する己の声。その震える腕をもう片方の手で必死に押さえ込んだ。女性の首を見ないように視線をずらそうとも、身体は何かに取り憑かれたように言うことを聞かない。
女性は背後のギラついた視線に気づかない。イヤホンを耳につけて音楽を聴いているようだった。
命令を聞かない身体は女性の後を音もなくつける。とうとう押さえてた手も跳ね除けられた。
切り裂け!
聞こえたのは女性の呻き声なんかじゃなくて、己の口ごもった声だ。女性は何事もなく、俺にも気づかないで道を曲がっていった。獲物を捕らえ損ねた爪は反対の上腕部に鋭く突き刺さっていた。興奮しているせいか痛みはそこまで感じないが、あとでものすごく痛いだろうな。細い針が刺さったのとはわけが違う。爪を引き抜くとトロリと5つの穴から血が流れていく。
でもよかった…あの女の人が無事で
息をつくのも束の間、前の方から足音が聞こえた。
やば、こんなん見られたら!
「ねぇ」
少し幼い声、上腕が見えないよう身体を斜めに傾ける。
「あんたも血を欲するの?」
「は?」
…思いもよらなかった質問に声の主を見た。
暑い夏には不自然な紫のマフラーを巻き、紫の長袖パーカーを着た少年が立っていた。
「おまえ…」
「おいやめろ」
「いや絶対暑いやろ、熱中症なるで!!」
長袖を腕まくりしようと心配する。こんな暑苦しい格好してたら俺も暑くなってきたやんけ!
「いいから、ほっとけって」
バチンと長い袖に払われて後ずさった。
「せめてマフラーだけ…」
マフラーに手を伸ばすと今度は頭を叩かれた。
「いった!なにしよるんやっ!!」
年上の頭ぼんぼん叩 くなや!
「いらんお世話だから、でどうなの」
「あ?なんや」
「そのケガ見てたよ」
血が垂れている上腕を指さされハッとした。あのときは見えないようにかばっていたけれども、いつのまにか目の前のこいつに見られていたみたいだ。
「あぁこれはちょっと枝に刺さってもうて…」
自分でも無理のある言い訳だとわかる。なんや枝に刺さるって、俺は豆腐か。
「いや、自分で突き刺したよね」
うおぉい!見られとんやんけぃ!
「あ…それは…えっと」
お見通しや、多分この子は一部始終見とったんやろうな。どう思うんかな、自分の腕刺すておかしい奴やろ。
どうしよう逃げたい。
少年の視線が痛い、くるしい。
なんで俺は…こんな身体に生まれたん?
なにも言い返せなくて下を見ていると、街灯に照らされた地面が影で隠れた。
「おかしくなんかないよ」
「え?」
少年がジリジリと近づいて、ガッと腕を掴まれる。血が出ている部分をまじまじと見られた。あの…見やんとってと離れようとするが腕は強い力で掴まれたままだ。
じゅるり
「っ!?」
上腕に生暖かい感触が…少年は傷口に唇を当て、いまだ垂れている血をじゅるじゅると啜 っている。
「ちょちょお何しとんやっ!?」
伏せられていた瞼が開いて上目遣いで俺を見上げた。その間もぬるりと傷口を舌でえぐり、鋭い痛みが俺を襲う。
「いっ…やめ…」
アドレナリンの分泌が止んで本格的に痛みが大きくなってくる。傷口をチロチロ舐め、裏側まで垂れてしまった血を丁寧に舐めとる。最後はごしごしと袖で口元を拭い、にやりと笑った。
「おまえいきなりなんやねん…」
傷口を弄られてヒリヒリと痛む。また新しい血が滲み出ようとしていた。親指でその滲み出た血をぴっと拭う。
「あーもったいない」
「…血舐めるやつがおるかい」
初めましてでぺろぺろ他人の傷口舐めるやつがおるか?俺もやばいけど、こいつも相当なやばさやで…
「なぁ、もっと欲しい」
駅からは離れた広い公園まで連れて行かれる。もうすでに辺りは静かで人影も見ない。大きな時計の針は深夜23時を指していた。
異様だ。
おそらく高校生と25のおっさんが手繋いで歩いとるやなんて、はたから見たら俺が犯罪者に見えるやろか。でも手を引いて誘導してんのは高校生の方やねんで。
公園の奥まで歩いて、少年は立ち止まって、くるりとこちらを向いた。
「さぁ、もっとちょうだい?」
「なっ…も、もうええやろ」
先ほども舐めていた傷口を中心に血をぺろぺろと舐める。出てこなければ歯を突き立てて血が出てくるよう痛めつけてくる。これ以上は治すのが難しくなる。
しかしなぜこれほど血を舐めたがる?
「やだ、まだ飲む」
さっきまでは甘噛みみたいな感じやったけど、もぅめっちゃ歯鋭くて痛い…
ゲジゲジと傷口を噛む歯を見れば、だんだんと鋭く尖ってきているような気がした。
「んあっ?!」
ぷつりと皮膚が切れたように何かが刺さった。そしてじゅるると啜る音がする。少年はさっきの自分みたいで何か取り憑かれたように俺の血を啜っている。
「やっいや、もうやめっ!」
少年を剥がそうとするも、頑なに離れない。啜る音が、少年の目が俺を静かに犯していた。
「はっうるさい、少しだまれ」
苛立ちを帯びた声にビクッと身体と口が動かなくなる。
自由なのは目だけ。
は?なんで動かれへんの?ちょっと…動けぇぇ俺の手ぇぇ!!
念じてもピクリとも動かない。目の前の少年は口から一筋血を垂らしてはしたなくじゅるじゅると啜り続けた。
たまに下から見上げてくる目に色気を感じ、そんな気分がふわふわと登って頰を赤らめさせた。
そして血の気が失せ、いつのまにか俺の意識は無くなっていた。
ね…ねぇ……おにいさん…
かすかに聞こえた声にゆっくりと意識は浮上する。瞼を開けばまだ夜中で真っ暗だった。
「ほんっとごめん」
視界に入った少年がおでこに両手を合わせてぺこぺこ謝っていた。何が起きたのかわからなくて、頭の上にはてなマークがぽわりと揺れる。
「ん…え?」
「久しぶりだからがっついちゃってさ」
がっつく?…そっか、もしかして俺血吸われすぎて倒れたんか。
「そのかわり何かお願いを聞くから」
「お願い…?」
まだボヤリとしっかりしない頭で考える。お願い…そうやなぁ…
「じゃあ、俺のこの体質消してくれへん?」
この忌み嫌ってきた体質を消してくれへんかな。もう関係ない人を襲いたくはないから。
まぁ…神さまでも仏さんでもない限り、無理なお願いやと思うけど。あとでジュースおごってもらお…と訂正しようとすると。
フフフと袖で口元を隠して笑われた。なんだ、そんな願いでいいの?と。
おにいさんのお願い、俺が叶えましょう
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