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ついていけない!

 手の中で打たれた黒い革がぱしん、ぱしんと乾いたと音を立てている。  それを持つ男の人の顔はにんまりと笑っていて、僕は迫りくる大きな体に身をぶるぶると震わせた。  わざとなんだろう、嫌になるほどゆっくりと、男の人は僕がいるベッドに近づいてくる。  僕の視線は、男の人が持つ革に釘付けだ。  だって、あんなものつけられたら、僕は、僕は……。 「やめて、それだけは……」  恐怖のあまり声がかすれ、そんな声も届かない。  ついに、僕とその人の距離がゼロになった。逃げようにも足が萎えて、その気力もない。  怯えることしかできない僕に、その人は言った。 「調教開始だ」  僕はすっかりぶすくれていた。首に纏わり付いた革が苦しい。 「腹すいてないのか? せっかく買ってきてやったんだから食べろよな」  甘ったるい声のその人は、ご機嫌取りのつもりかだらしない表情を向ける。僕はぷいっとそっぽを向いて、頭をぶんぶん振った。 「おい、そんなに暴れるなよ。首輪が嫌なのか? ……まあそうか。お前、野良だったもんな」  いくら頭をゆすっても、首輪は全然動かない。それどころか毛が挟まって痛かった。……もうどうしようもないのかな。  お皿に盛られた僕のごはん越しに、男の人の困った視線を感じる。 「でも、うちに来たからにはお手とお座りぐらい覚えてもらうからな」 「……」 「それにしても、雨に降られた時はみすぼらしかったけど、綺麗な毛並みしてたんだなあ」  う。褒められるとちょっと弱い。過酷な野良犬生活にも負けない茶色い毛並みは僕の自慢だったからだ。  ちろっと視線を動かしてみると、その人は目が合ったと嬉しそうに頷いた。 「可愛いなあ、お前。うちに来たばっかだから今日はこれくらいにするけど、これから素直にさせてやるからな」  僕はその声に耳を傾けず、バスケットに敷かれたクッションの上でくるりと丸くなる。 「おやすみ」  ……男の人がリビングの電気を消すと、当然ながら部屋は真っ暗になった。  気配が去ったのを確認してから、そこでやっと男の人お手製のベッドから下りる。さっきからおなかがすいて仕方がなかった。僕は生フードにかぶりつく。  味は悪くない。ううん、悪くないどころかおいしかった。肉っぽい風味が口の中に広がって、唾液がじゅるりと出てしまう。  あっという間に食べ終わり、ついでにお水を飲んで、僕はベッドにまた戻る。  水音がしている。たぶん男の人がシャワーを使っているんだろう。その遠い音に眠気が忍び寄ってくる。  外と違って、寒くもなければ熱すぎることもない。雨に煩わされることも、風に身を震わせることもない部屋の中はとても快適だ。  確かに快適だけれど、どれだけ辛くても僕は野良生活がよかった。  誰かに飼われると自由に動けない。それはつまり、僕は――家に帰ることもできないってことだ。  嘘みたいな本当の話だけど、五ヶ月前まで、僕は確かに人間だった。大学受験に失敗したから春から始まる浪人生活を思って肩を落としていたけれど、それでも頑張ろうって気合いを入れて高校とおさらばしたんだ。  けれども――4月1日、エイプリルフール。嘘が許されるという謎の決まり事があるその日。  目が覚めると犬になっていた。  犬アレルギーのお母さんに、僕はあっという間に外に追い出された。朝食にと呼びに来たら部屋にいたのは僕じゃなく犬だったんだ。ひどいいたずらだわと怒られたけれど、本当は違うのに。  エイプリルフールの冗談でも、いたずらでもなくて、僕が犬になっちゃったんだよということは、悔しいけれど伝えられなかった。僕の口からは、もうワンとかウーとかいう声しか出なかったからだ。  それでも最初はどうにかしたくて、買い物帰りのお母さんを待ち伏せてみたり、仕事終わりのお父さんにくっついたりしてみたけれど、意味はなかった。  二人とも、一人息子が書き置きもせずにいなくなった事実に打ちのめされて、かわりに部屋にいた僕を見るととってもイヤな顔をするようになったからだ。しばらくして、家の近くに寄ることすら止めてしまった。  けれども諦めきれなくて、いつでも家を見に行けるようにと野良生活は守りたかったんだ。それなのに。  キィと軽い音を立ててリビングのドアが開いた。スラックスとワイシャツを身につけた男の人の髪はすっかり整っている。仕事なんだろう。 「よしよし、飯は食ってるな」  僕の返事を期待していないのか、挨拶することもない。完全に口調が独り言だった。 「仕事なんだ。飯はここ置いとく。行ってくるな」  男の人は朝ご飯も食べずに出勤するらしい。しかも、現在の時刻は七時。サラリーマンというと自分のお父さんくらいしか知らないけれど、これってけっこう早いんじゃないだろうか?  でも僕にはそんなの関係ない。ベッドの中でうずくまっていると、男の人が出て行く気配がした。  これ幸いと部屋を出ようとしてみたけれど、どう見てもドアノブには手、というか前足が届かない。  ちなみに、今の僕の見た目は柴犬みたいな感じだ。柴犬は嫌いじゃないけれど、自分がなっている現状を思うとなんというか、困る。  家を出るのは諦めて、その日は家捜ししたり、ご飯を食べたり、勝手にテレビをつけたりして過ごした。  帰ってきた男の人が、唯一散歩にだけ意欲的な僕を見て驚いていたことも付け足しておく。  残念ながら全然知らない場所で、散歩の途中に僕は歩く気を失ってしまったけれど。 「おい、ちび」 「うー」 「そろそろ慣れてもよくねえ? うちに来て一ヶ月近いぜ?」  そう。もう十月近くて、アスファルトの暑さに飛び上がることもない。でも僕は、やっぱり男の人になじめないでいた。  きちんと見ると綺麗な顔だなあとか、年は二八らしいこととか、IT系の大手の企業に勤めていることとか、今は彼女がいないこととか、出会いのわりに意外ときちんと面倒見てくれることとか、何より名前が松戸空とかいうことは知ったけれど。  ちびって呼ばれるんだ、返事したくない! 僕はそっぽをむきっぱなしだ。……まあ、僕の名前を知りようがないから仕方ないことだとはわかるけれど。 「躾るまでもなく、お前言うこと聞くんだよなあ。トイレも変なとこでしないし、言えばお手もするし。褒める機会ないから仲良くなれそうもないんだけど、どうすればいいんだよ?」  ぼやきながら男の人はテレビをつける。ちょうど恋愛ドラマがやっていた。意外にもチャンネルを回すことなく、くつろいだ格好でビールを煽り、目はテレビに向けたままだ。 「こういうの、どこがいいんだろうな。実際に付き合ってもない男が家の前で待ってたら、ただのストーカーだろ」  ……どうやらメインは悪口らしい。当て馬を見て、ぼそりと吐き捨てた。 「だいたい女も悪いよ。思わせぶりな真似ばっかして、本命いるならやめとけっての」  と思えば、ヒロインにいちゃもん。ドラマ相手に毒づくタイプには見えなかったけど。 「それに、ドラマタイトルが主人公の名前だけってのが気に食わん。こういうのは少年漫画の特権だろ」 「――わん!」  その瞬間、僕は吼えた。 「何!?」  突然のことで動揺している男の人に向かってわんわん吼える。それから、テレビ画面に足を押しつけようとして、届かないからラックの下でわんわん吼える。 「……その女優のこと好きなのか?」 「うー」 「違うのか?」 「……」  伝わらない。言葉を持たない今の姿じゃ駄目みたいだ。わかっていたけれど、やっぱりかなしい。  男の人をじっと見つめる。ソファーに投げ出された足の上にそっと前足を乗せた。 「……くぅん」 「お前がこんな風に甘えてくるなんて珍しいな、どうしたんだよ」  僕はテレビと男の人の顔を交互に見た。その動作に、何か伝えたいことがあるとはわかったみたいだけど、男の人は眉を寄せて思案顔だ。 「女優のこと嫌い?」 「うー」 「ドラマが嫌い?」 「うー」 「わからん……いや、犬を相手に何やってんだ俺は、言葉がわかるわけでもあるまいし」 「うー!」  思わず男の人の足をばしりと叩いた。体が小さいので威力はないけれど、僕の様子にもう少し考えてみるかって気がしてきたらしい。今度は僕を抱き上げて、胸の中に抱え込む。 「……おお、初めてまともに抱けた」  確かにこの一ヶ月、お風呂以外では触れさせなかったけれど、そんなにうれしがることだろうか。男の人の煌めくような笑顔に、ちょっとびっくりした。 「で、なんでそんなにあのドラマが気になるんだ?」  請われるまま僕は口を開こうとしたけれど言葉がない僕に答える術はない。  すっかりしょぼくれて俯く僕に、男の人は慌てたようだった。 「俺がお前の言葉わかってやれればいいんだけど、ごめんな」  分かってもらえないのはかなしいけれど、仕方が無い。僕は犬で、男の人は人間だ。  でも、お遊びかもしれないけど、わかろうと努力してくれたことだけは嬉しかったから、その日は暖かな腕から逃げ出さずにいた。  ドラマ事件以来、僕は少しだけ松戸さんに歩み寄る努力を見せ始めた。せっかく飼うことを決めてくれたんだから、意固地になるのもかわいそうかなと思うようになったからだ。  一番変わったことといえば、リビングから廊下に続くドアを開けてくれるようになったので、僕は帰宅の気配がしたら玄関まで迎えに行くようになった。初めてそれをした日、松戸さんは感動して僕を苦しいくらい抱きしめるというハプニングがあって、ちょっとくすぐったい気分だった。  元の体に戻る方法もわからないし、松戸さんは優しいし、なんとなく諦めが入ってしまった。今から受験勉強を始めるにしても、ブランクがあるし今年はもう進学を望めそうにない。苦しい浪人生活を物理的に経験しなくてもいいんだから、ある意味楽だ。  ――そんな風に諦めるふりをしたけれど。  松戸さんは、重たいからとビールをいつも宅配で頼む。宅配の人が荷物を家の中に運ぶとき、玄関は開けっ放しだ。 「ちび!」  僕は空いたドアをくぐり、制止も無視して走り出した。  散歩のおかげである程度なら道がわかるようになった。知らない通りだっただけで、ここから僕の家は近かった。  僕は走った。ひたすら走って、懐かしの我が家へ帰った。  そして、家の柵にすがりついてくーくー泣いた。お母さんはどうしているんだろう。お父さんはどうしているんだろう。十二月の寒さが身に染みる。  唐突に、僕を知る人はいないんだなって思った。本当は人間なのにそれも知られず、ひとりぼっちだ。悲しくて仕方なくてその場にうずくまる。  そのまま、いつまでそうしていたんだろう。  せわしない足音と、「ちび!」という叫びと共に、僕の体は熱に包まれた。 「どこに行ったかと思っただろ! 心配させんな、ばか!」  松戸さんの息は弾んでいて、コート越しでもわかるくらい熱を発している。探してくれたと思うと、知らず知らずのうちに涙が溢れた。  ……僕はもう、この人のうちの子になっていたんだ。  家に帰ると、まずお風呂に入れられた。松戸さんも一緒になって入ったのは初めてだ。  それから、松戸さんは僕を自分と同じ布団に入れて寝た。人肌の温度にうっとりしながら、僕はしっぽをシーツに落とす。 「なんであんなところにいたんだ、お前?」  松戸さんの声が遠い。 「……話せないよな、犬なんだもんな」  背中を、松戸さんの大きな手がまるく撫でる。 「寂しいだろ、突然いなくなるなよ。お前は俺んちの犬なんだから」  子守歌のような低い囁きを聞きながら、僕は意識を手放していく。  このうちの子になるってこと……。 「……本気にしてもいい?」  目を開くと、松戸さんの驚いた顔がそこにあった。目が点のようということばのお手本のような表情だ。 「……俺がお前と話したいって思い続けてたから、ほんとに人間になったのか?」 「へ?」 「いや、夢か。……そうか、夢だよな。それにしてもお前、まつげばさばさで鼻もちっちゃければ目も大きいし、すごい美少年だなあ……俺の好みだなあ……」  松戸さんは僕を腕の中に抱き込むと、「またこの夢見たいなあ……」とすやすや眠りの世界へ旅立ってしまった。 「……!?」  あまりの展開の早さについていけない。そもそも人に戻れたのか、僕は!? 「ちょ、松戸さん! 寝ないで、話きいて!」 「俺の名前知ってくれてんのかぁ……ありがとうなぁ……」 「――ちょっと、話きいてってば!」  その後どうなったか、……それはまた、別のお話。

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