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オーシャンビーチ

 残業終わり、会社からの最寄り駅、だが人目を避け敢えて最寄りではない入り口で合流した隼人が、ぽつりと言った。 「海が見たい」  しかし慢性的に人手不足の総務課にあって、当分ふたりに休みはなかった。隼人も、それを承知した上で言ったのだ。深い意味はない。だが、栄二朗は隼人の願いなら何でもきいてやる男だった。 「よし、今から行くか!」 「え?」  微かにしまった、と思った。海は見たいが、今でなくても良い。そんな台詞が喉から出かかったが、栄二朗はもう地下鉄のコンコースで、近くの浜辺への切符を2枚、買っている所だった。  いつもとは逆の路線、久しぶりのデートを、栄二朗も喜んでいるようだった。素直に顔には出ないが、いつもより幾分か饒舌だ。栄二朗も喜んでいるのなら、と隼人は彼に従った。     *    *    *  ──ザザ……ン……。  今まさに、太陽が水平線に燃え落ちようとする所だった。わずかに空にたなびく雲に、鮮やかなオレンジ色が色彩を移し、まるで天上の国の景色のようだった。それを見て嬉しそうに笑う隼人の白い頬も、オレンジに染まり、やがて一瞬のきらめきを魅せて、陽が沈んだ。 「綺麗だな……」 「……そうだな」  終始その笑顔を盗み見ていた栄二朗が、お前の方が綺麗だ、なんて言いそうになり、僅かに遅れて相槌を打つ。恋愛なんてただの子どものお遊びだと思っていた自分がそんな台詞を吐きそうになるなんて、と栄二朗はやや目を伏せて自嘲した。  陽が沈んだばかりでまだ空は夕闇に青白く輝いていたが、やがて幾つかの海の家が明かりを消してしまえば、真っ暗になってしまうだろう。その前に、と栄二朗は隼人の手を引いた。 「わっ。ど、何処行くんだ、栄二朗」 「見るだけじゃ、来た甲斐がないだろ」  言うと、波打ち際まで隼人を強引に引っ張っていく。 「ちょっ……と、栄二朗……! 濡れちゃうよ」 「明日の代えの靴ならあるだろ。せっかく来たのに、このまま帰るのはもったいねぇ」 「え? あっ! ……ああー……」  栄二朗の強引さに敵わない事を知っていたから、さほど抵抗もしなかったが、波が二人の足首まで覆い、ヒヤリと冷たい海水が靴の中を満たした時には、思わずため息が漏れた。足の裏の砂が引き波に削られ、僅かに沈むような感覚を覚える。 「冷たくて気持ち良いだろ」  くつくつと肩を揺らす栄二朗に、隼人が声を荒らげる。 「お前、最初からそのつもりだったろ!」 「ああ」 「もう! どうしてお前ってそうなんだ、栄二朗!」  狙いを定めず甘く繰り出す拳を、栄二朗が柔らかく握り取る。砂に足を取られ、転びそうになった隼人を、栄二朗が抱きとめた。 「わっ」 「大丈夫か?」 「……うん……サンキュ」  照れ臭かったが、礼を言う。昼間のビーチでは、こうはいかないだろう。沈んでしまった夕陽が、ふたりの秘密を守ってくれる。そう思い、隼人も栄二朗の胸に身体を預けた。 「隼人」 「何?」 「顔上げろ」 「嫌だ」 「何でだ?」 「キスするだろ」 「しない」 「本当に?」 「ああ」 「絶対?」 「ああ」  隼人が顎を上げると、素早く掠め取るように、チュ、と唇が奪われた。 「栄二朗!!」  腕の中で暴れる隼人を強く抱き締め、栄二朗は珍しく声を上げて笑った。それに驚いて、隼人はすぐ上にある楽しそうな栄二朗の顔を見上げた。額同士がコツリと合わされ、柔らかく癖っ毛が撫でられる。その感触に、隼人は何処か切ない懐かしさを思い出した。  恋人同士になるまでは、よくこうやって髪を撫でられて、その度に動悸を隠せなかった。栄二朗の本当の笑顔も見た事がなかった。それが今は──。 「栄二朗」  再び隼人は、大人しく栄二朗の肩に頭を乗せた。その変化に、栄二朗が怪訝そうに呻く。 「ん?」 「俺のこと好き?」 「……ああ、愛してる」 「俺も」  辺りには誰も居ない。秘め事が、甘く囁かれた。 「愛してる」     *    *    *  帰りは、ずぶ濡れになってしまった靴下を脱ぎ、素足に革靴で返ってきた。それでも水を含んだ革靴が、歩く度にキュ、キュ、と音を立てる。  家に着くとまずはベランダに靴を立てかけて、乾かさなければならなかった。それでも、と隼人は思う。普段のデートとはまた違う、暖かい気持ちが胸に残る。今日海を見に行って良かった、と。 「痛た……」  ふと、意識せずに口に出た。隼人が痛みの元を探って足を見ると、親指の先が血を滲ませていた。水を吸って膨らんだ靴の中で足が泳ぎ、靴擦れしてしまったのだろう。 「お、大丈夫か?」  目ざとく見つけた栄二朗が聞いてくる。 「座ってろ。今、お湯持ってきてやるから」 「あ……うん」  栄二朗にそこまでさせる気のない隼人は一瞬言いよどんだが、すでに彼はバスルームへ向かっていた。仕方なくソファに座り待つ。洗面器に温めのお湯を携え、栄二朗は戻ってきた。 「悪りぃな。怪我させるつもりはなかったんだが。ちょっとしみるぞ」 「いや、楽しかったから良いんだ。……あちっ」 「砂出すから、ちょっと我慢しろ」 「うん」  しみたのは最初だけで、栄二朗が丁寧に傷口から砂粒を取り除いてくれる。お湯が温めなのが、気持ち良かった。心地よさに任せ、つい瞳を閉じてしまった時だった。違和感を感じたのは。 「あッ……!」  思わず声が裏返ってしまって、隼人は慌てる。見ると、栄二朗が隼人の足の親指を口に含んでいた。熱くぬめった舌が指先や指の股を這い回る感触が、まるで自身をなぶられているような錯覚を引き起こす。 「やっ……栄二朗、それ、やだっ……」  じわりと滲む視界の中で、栄二朗が親指を開放しないまま片頬を上げたのが見えた。身をよじったが、がっちり足を両手で押さえられている為、逃れられない。体温が上がった。 「や・だってば……!」  涙声で頼むと、ようやく親指は開放されたが、隼人の身体がもう引き返せなかった。 「お前、最初っから……!」 「まさか。足も性感帯だって知ってたけどな」 「栄二朗……!」  責める声音に、喉の奥で軽く笑い、栄二朗は隼人の腰をやんわりと撫でた。 「大丈夫だ、すぐに済ませるから」 「馬鹿……っ」  明日も仕事。言葉通り、ピロートークは短めだろうが、共に海で囁きあった秘め事が、それを補って余りあっただろう。 End.

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