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第1話

望の月の綺麗な、初秋の宵のことだった。  辺りに充満するのは、嗅ぎ慣れた血の匂い。視界を占めるのは。地面に染み込んだ血とただの肉塊となってしまったかつての同朋の哀れな姿。 竜巳は、身に降りかかった突然の惨劇をを理解できていなかった。 岩盤の上にへたり込んでいた己の手が、死体から流れ出た生暖かい血にぬるり、浸る。その手のひらを持ち上げてみたが、暗闇の中では何も視認することが出来なかった。 竜巳はひどく緩慢な動作で、その左頬に傷のついた幼い顔を限界まで持ち上げた。  目の前――一尺先に立っていたのは、背後に真っ赤な月を背負った一人の青年だった。顔立ちは分からない。適度に伸ばした髪を緩く結び、肩に流している。暗い色を宿した赤い瞳が竜巳を射抜き、そして視線が交差したその一瞬、はっと見開かれた。 ――己と同じ異形の瞳。 竜巳はただただ爛々と輝くその紅に見入った。 「……お前は」 纏っていた張り詰めたような空気がぷつりと途切れ、揺れた。しかしそれは本当に刹那のことで、竜巳は気が付くことができなかったかもしれない。  静かな夜風が洞穴の中にまで吹き込んでくる。 ただただ竜巳は呆けていた。  ――なんだろうか、この既視感は。 ごくり、生唾を飲んでその男を見つめる。男の右手には、この屍どもを一刀のうちに切り伏せた小刀が握られたままである。その恐ろしいほどに軽やかな手並みを思いを越した竜巳の常には勝気な表情は空虚で、ただただ呆然としていた。 「お前も、この山賊どもの端くれか」  低く澄み渡った水のような、よく通る耳障りの言い声だった。竜巳はその問いに小さく頷いた。確かに竜巳は盗みと殺しを働く、十人ばかりの山賊の一番の下っ端だった。山の街道近くの洞穴を住処とする一派で、皆、身分が低かったり食うに困ってここまで堕ちてきたならず者の集団であった。 「五年ぐらい前――九つから、ここにいる」 「……ほう」 「…………」  二人の視線が交差する。何を思ったか男はつかの間逡巡し、そして結句――小刀を構えた。 それを見ていた竜巳は微動だにせず、その姿を見ていた。まるで男が正義の権化のように見えたのだった。この男の手によって自分という悪はようやっと淘汰される。恐怖などなかった。己もありとあらゆる人を殺した。商人、旅人、出稼ぎ者――食い扶持は己でどうにかしなくてはならない、そういう世界で生きてきた。いつかは自分も何者かの手で殺されるのだろう――そう思っていたのだから。  幼い頃の幸福に満ちた日々を思い起こしながら、月光を受けて鈍く輝くその刃の切っ先を見つめる。 男が刀を振り上げる。殺されるという実感はあれど、やはり恐怖は生まれない。むしろ強い者に淘汰されることに、悦びさえ覚えていた。竜巳は己の弱さがみじめでならなかった。 「俺を殺すのか」 「――そうだ」  低く男が呟くと同時に、ずぶり、その刃がまだ発育途中のおさない身体の肩口に突き立てられた。 「いっ……あ……!」  斜めにゆっくりと皮膚の表面を刃がなぞってゆく。  ああ、おれの生涯もここで終わるのだ。最後に、どうか最後に、“あの男”に復讐してやりたかった。竜巳の脳裏を憎い男の影がちらつく。いつか、みじめに許しを乞うまで痛めつけてやろうと思っていた男。だのに、みじめに死にゆくのは己の方だったようだ。  全身に走った激痛が、鈍い痛みへと代わり始めた。  そうして竜巳の意識は、激痛と共に闇に沈んだ。

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