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シークレット・サマー
辺りは真っ暗、
全身に受けるのは生ぬるい温風、
ごおごおと煩い風の音。
慣れないメットが風の力で外れそうで、右手で押さえる。
目の前の広い背中は、飄々と俺の前にいる。
「どこいくんですか!」
「きこえなーい」
張り上げた声は、風に掻き消される。
「どーこーいーくーんーでーすーかー」
やけっぱち、一語ごと伸ばして聞いてやった。
前の背中は少し笑って、
「うーみー」
と、真似事みたいに短く返してくる。
海。
真夏の夜の海なんて、行ったことがない。
――目の前の背中の主は、人攫いだ。
夏休みでもご丁寧にほぼ毎日ある予備校の夏期講習が終わった後、騒ぐ同級生を横目にいつも通り帰路に着こうと足を進めていたら、前に立つ人影がある。
自然と顔を見れば、フルフェイスのヘルメットを被って、白いVネックのTシャツにジーンズの格好の、スタイルの良い怪しい人。
「浚いに来たよ」
その人が物騒なことを言うから、つい後ろを振り返った。
俺以外に誰もいない。
明らかに不審者なそれに、思わず踵を返す。
怪しい人には、関わらないに限る。
「あ、待って待って、俺だよ俺、俺俺」
俺俺詐欺だって怪しいに程がある。
逃げだそうとした俺の腕を掴む不審者が、メットを外して、素顔を晒す。
明るい金髪で毛先が跳ねたショートヘア、つり上がった眉に優しそうなタレ目。紛う事なき整った顔の持ち主を、俺は知っていた。
「なにしてるんですか、楠木先生」
「あは、もう先生じゃないってー」
この人は、ついこないだまで、教育実習生だった人だ。
――出会いは梅雨の間の晴れ間、昨日の土砂降りが嘘のように晴れ渡った青空の日。
何人かいる実習生のうちの一人で、たまたま、俺のクラスが受け持ちになっただけの人だ。長身に、少し茶色が残る黒髪、優しそうなタレ目が特徴的な整った顔立ちに、何より女子が喜んだ。
――楠木史郎です! シローだけど黒が好きー、頑張りますんでよろしくおなしゃーっす。
第一印象は、チャラい人、住む世界が違う人。
窓際四番目、頬杖をついて眺めていると、眼鏡越しにばっちり目が合ってしまった。
そして、にこ、と、満面の笑みを向けてくるから、
――ああ、この人は苦手な人種だ。
なんていうのが、一方的な第一印象。
「浚うってどういう」
「誘拐だよ、誘拐」
「それ、犯罪ですよ」
「知ってる知ってる。はい、かぶって」
俺の指摘もドコ吹く風、な楠木さんは、黒いヘルメットを渡してきた。こっちはフルフェイスじゃない、ハーフのやつだ。使い古されているそれを押しつけられる。
予備校から少し離れたこの場所は、残念ながら人目につかない。遠目に、反対方向にある駅へ向かう同級生たちの後ろ姿が見える。
「あ、その前にさ、親御さんに連絡してよ」
「え?」
「友達の家に泊まりまーす、って」
「友達」
なんて、いない。
学校でも予備校でも、交わすのは事務的な会話だけ。
わいわいと騒ぐ様子を羨ましく思った時期もあったけれど、今はただ、煩わしいだけだ。
無難に日々を過ごし、無事に卒業し、その先へ行く。
俺の人生は、ただそれだけ。
黒いリュックを持つ手に一瞬、力が入る。
その隙に、俺を覗き込んでくる年上の人。わざわざ身を屈めているのは、身長差のアピールですか。
「いないの?」
問う声が何処か楽しそうだったから、イラッとした。
「いますよ」
「じゃあいいじゃん」
何かあったときに、ノート貸してくれよ、と頼んでくるお調子者の相川くんは、友達と言っても差し支えないだろうきっと多分連絡先も知らないけど。
「さあ、連絡して」
押し切るこの人は、俺の苦手な笑顔を浮かべている。
小さく息を吐き出して、スマホを取り出した。
抵抗する方が面倒だと、思い始めている。
――急遽、勉強することになった。友達の家に泊まるから。
そんなこと、生まれて初めてだ。
父親に連絡するが、きっと、気にもしないんだろう。
「オーケーオーケー、はい、乗って」
スマホをしまう様子を満足げに見た楠木さんが、フルフェイスのヘルメットを被り直して、黒いバイクに跨がる。後ろを親指で指す様子に抗えなくて、俺は黒いメットを被った。カチリと音がするようにベルトを締め、大型バイクの後ろに、彼に倣うようにして跨がった。
――まさか、バイクの二人乗りなんて体験をするなんて、思ってもいなかった。
――有無を言わさずに走る黒い塊は、道路を走って走って、気がつけば湾岸沿いに来ていた。
そして冒頭に戻る、ってやつだ。
海を目指して走るという、その背中を見つめる。
白いTシャツが風で膨らんでいる。
真夏の風は全身に纏わり付くように重く、ぬるい。
夜の空気は重たいのに、海が近付くにつれて、潮のにおいが鼻をついてくる。
楠木先生、の授業は面白かった。
現代文の読解の裏技を教えてくれたり、最近泣けたライトノベルランキング、なんて授業に全く関係ないと思いきや、評論のヒントになる講義をしてくれたりと、担任には出来ない柔軟性のある授業は、新鮮だった。
勿論、男女問わず生徒からの人気はあって、休み時間には、常に周りに人垣ができていた。
――俺とは違う世界の人。
一生徒、むしろただのモブレベルの存在感の俺は、授業中たまに目が合うくらいしか、関わることがなかった。
この人みたいな人生が送れたら楽しいだろうな、と思うけど、そんなこと不可能だってわかってる。
――実習最後の日。
クラス委員がカンパを集めて買った花束や、色紙、手紙を渡して、盛大な別れとなった。たった三週間の実習なのに、涙を流す子もいる。どさくさに紛れて抱きつこうとしていた女子が、爽やかに制されていた。
教室から出た廊下で、花束片手に大勢に囲まれている楠木先生は、不意に顔を上げて、離れた位置にいる俺を見た。
目が、合う。
そして、にこ、と、俺が苦手な笑顔を向けてきたんだ。
さりげなくこっちに歩いてきて、何を言うでもなく、ぽん、と頭を撫でられる。
通り過ぎていく先生と、それを追いかけるクラスメイトたち。
もう二度と、会うことがないと思っていた。
――そう、まさか、その二ヶ月後に、浚われるなんて夢にも思っていない。
茶色の名残の強い黒が、すっかり金髪になっていたけど、目の前にいるこの人は、紛れもない楠木先生、その人だ。
女子が憧れる広い背中を、何故か今、ただのモブである俺が占領している。
潮のにおいに、波の音が混じり始めて、漸くバイクが減速した。海辺へと向かう狭い道を、慣れた様子で曲がって行く。
浜辺へ下りる階段の手前で、楠木さんは、バイクを停めた。
楠木さんに倣ってバイクを降りて、メットを外す。同じくメットを外した楠木さんは、金髪を掻き上げた。その姿が月の光に照らされて、ドキっとする。――なんでだ。
「ここさ、俺のお気に入り」
楠木さんは、そう言って笑った。
おいでよ、と促されて、彼の後をついて歩く。
夜の海なんて、初めて来た。
昼間の喧噪とは打って変わって、打っては返る波の音が大きく聞こえる。遠い砂浜から、花火で遊ぶ、所謂リア充の騒く声が聞こえた。
楠木さんは慣れた足取りで、砂浜を踏みしめて行く。
俺は慌ててついて行って、防波堤へと辿り着いた。
一番、海へ近い場所。
テトラポットが並ぶ先端の傍まで行くと、やっと、楠木さんは足を止めた。
波の音、潮のにおい。
防波堤の先からは、海しか見えない。
夜の海に、水平線が映る。ぽつりぽつりと浮かぶ船、遠くの灯台の明かりが見える以外は、雲ひとつない夜空が一面に見える。そして煌めく、星、星、星。
「すげえさあ」
思わず息を呑んで見とれていると、斜め下から、のんびりとした声が聞こえる。
「ちっぽけだなあって思わない?」
「何がですか」
「俺たちがさ」
あぐらで座り込んだ楠木さんも、空を見ている。
急に哲学的なことを言われて、その整った顔を見下ろした。
「波の音を聞いて星を見てるとさ、自分が考えることとか、悩みとか、ものすげーちっちゃくてどうでもいいことなんだって思える気がしない?」
そこでやっと、楠木さんも俺を見る。
優しげな垂れた目が、穏やかに笑っていた。
「何が言いたいんですか」
「んー」
「ていうか、なんで連れてきたんですか」
ずっと、気になっていたことを、ストレートに訊く。
楠木さんだって、誤魔化す気はないみたいだ。
俺から目を逸らさずに、また、笑った。
「おまえさ」
「はい」
「助けて、って、言ってたじゃん」
この大人は何を言っているんだろう。
咄嗟に、言葉が出なかった。
「実習最後の日、おまえだけ」
一瞬、しっかりと目が合ったときを思い出す。
いつもの笑顔を浮かべる前に、タレた目が、驚いたように瞠られたような、気もしてきた。
「助けて、って顔してた」
「そんな覚えはないです」
ない、はずだ。
ただただ、世界が違う、三週間という期間の出会いの教育実習生のことを考えていただけ。
「まあまあ、人生うまくいってないんしょ。わかるわー」
「わ、わかるんですか」
「わかるわかる。だって高2だろ、うまくいかねえって」
うんうんと頷く楠木さんは、ジーンズの尻ポケットを探っている。慣れた仕草で取り出すのは、シガレットケース。弾みをつけてはみ出た一本を摘まみ、指で挟んで口端に咥える。
「高校生の前で吸うんですか」
「あ、だめ? 俺がおまえぐらいの頃は吸ってたよ」
なんて不良なんだ。
同級生だったら絶対に遠巻きにするタイプの楠木さんが、ん、と、一本の煙草を俺に差し出してきた。
「吸ってみる?」
そう言って笑う彼の唇に目を奪われ、どきっと胸が高鳴る。
――何だ、今の。
「いりません」
「あ、はい」
あっさり引き下がって、ついでに、咥えかけた煙草をケースに戻している。
空になった手を防波堤のアスファルトにつけ、楠木さんは立ったままの俺を見上げた。
「なあんかさー、思い詰めてんでしょ」
そう言って笑う声は、柔らかい。
「真面目だもんなあ、志水くん」
――あ、名前を、覚えてくれていた。
たったそれだけのことなのに、じわりと耳先が熱くなる気がする。気がつかれたくなくて、必死で目を合わせない。見据える先の海は、夜空を映し出すような黒さだ。
「なにがわかるんですか」
「わかるよ」
三週間しか俺を知らないくせに、楠木さんは言い切った。
「ノート、おまえが一番丁寧だった」
あれは真面目にしかできない丁寧さだ。
真面目くさった顔で楠木さんが言う。
楠木さんの授業は、よく脱線した。
板書を追いかけていくけれど、板書されない無駄な話や雑学なんかも多くて、それが新鮮だった俺は、つい、そんな話もノートに書き溜めた。
実習が終わる頃、そのノートを一度提出するように言われて、すごく気恥ずかしかったのを覚えている。
しかも、返却されたノートには、歪な花丸が描かれていて、「一言一句逃さず話を聞いてくれて嬉し恥ずかしで賞」なんてのが赤ペンで書かれていた。
「なにかあったの」
さらりと尋ねる声は、決して重くない。
「なにもないです」
否定すると、「あ、そう」と、それ以上は追いかけてこなかった。
――沈黙が流れる。
ざあざあ、寄せては返る波の音しか、聞こえない。
友達もいない、家族はばらばら、そのくせ期待だけがのし掛かる。
自由で柔軟性があって、人気者。
この人みたいな人生に、憧れた。
「いい大学、いい仕事。俺の人生、全部決まってる」
「え、そうなの」
「あんたは、そうじゃないんですか」
やっと、楠木さんを見下ろした。
優しい目許が、驚いたように丸くなっている。
「教師なんて、一番安定してるじゃないですか」
「別に俺、センセーになりたいわけじゃないし」
「ええ」
――あの、涙涙の別れはなんだったんだ。
拍子抜けると、不思議そうな視線が返ってきた。
「今のままだとどこにも雇ってもらえねえから、免許くらい取っとけってうるせーんだよ、苑ちゃんがさあ」
「苑ちゃんって」
「苑村センセー」
数学担当の、強面の生徒指導の先生だ。
「そうそう、世話になったんだけどさ。つか、あの人も元番長だったんだって。知ってた?」
「ええ……」
今日は色々と、衝撃が多い。
体格がよくてガラが悪い苑村先生の過去は、納得できるけれども。
「まあそんな感じだから、保険のために実習してたの。幻滅した?」
「べつに、元々期待してないし」
「ひどくない?」
そんな実習生、ごまんといるのは知っている。
実際に授業を教えてくれる先生だって、ピンキリだ。
俺は、楠木さんの隣に、腰を下ろした。
「でも、あんたは他の先生とは違う感じがした」
金髪を見ながら、ぽつりと言うと、楠木さんが歯を見せて笑う。
自由で、適当で、まぶしい人。
「おまえもさ、もうちょっと適当に生きてみたら」
楠木さんの腕が伸びてきて、ぽんぽん、と頭を撫でられる。
――実習最後の日と、重なった。
「星の数だけ、人がいる。一人二人適当にやってもさ、なんにも変わんないよ」
そう言って笑う顔が優しくて、眩しい。
――気付けば、引き寄せられるように、彼に近付いて、唇を重ねていた。
「え、え?」
柔らかい感触は初めてだ。
目を白黒させて驚いているのは新鮮で、角度を変えてもう一度。
ざあ、と、一際強い波がテトラポットに打ち付けられる。
「は? なに、ちょ、まっ」
抵抗するために口が開かれた瞬間、その隙間から舌を差し込む。
ふわりと漂う煙草の香り、熱い咥内。
歯を舐めて、奥にある楠木さんの舌を絡めようとしたところで、強く肩を引かれて引きはがされた。は、と呼吸する音は、やらしい。
「まっ、まって、」
口許を抑えている楠木さんの顔は、赤い。
「落ち着けって」
「それ、あんたの方」
さっきまで余裕綽々だった元先生が、こうまで取り乱しているのは、悪い気はしない。
楠木さんは、俺の肩をおさえて距離を取ってくる。
「欲求不満ですか」
「そうかもしれません」
「認めちゃうのー」
「先生が綺麗な顔してるので、つい」
「もう先生ってやめて」
わあ、照れてる。
顔を背けているけれど、その目許がじんわり赤くなるのを見て、俺の心臓が大きな音を立てる。
――こんな自分、知らない。
気がついたらまた、楠木さんと距離を詰めて、その頬を撫でていた。
「え」
「もう一回していいですか」
「いや、やだ」
驚いてこっちを見る隙に、再び唇を重ねる。
その瞬間は、力が弱まるから、そのまま楠木さんの肩を押して、アスファルトの上に押し倒す。こうすれば体格差も、そう問題じゃない。
隙間なく唇を合わせて、もう一度舌先をねじ込んだ。
楠木さんの咥内は、熱い。
歯をなぞって、その奥、縮こまっている舌を探って舐め取る。絡ませて唾液を吸い込んで、唇を柔く噛む。
じんじんと、頭も腰も背中も、全身が痺れるみたいだ。
息苦しくなってきたタイミングで唇を離すと、濡れた唇を薄く開けて、ぼやけた瞳で俺を見上げてくる楠木さんの顔が間近で見える。ヤバい。どくりときた。
「っは、あ、」
荒い息づかいもリアルで、もう一回、欲しくなる。
楠木さんは、どちらかというと、困ったみたいな顔で、俺を見る。
「あのさ」
「はい」
罵られるか引かれるか、でももう、引き返せない。
「初めてじゃねえの」
「初めてですけど」
「モテそうなのに」
「まあまあですね」
――確かに、よくわからない好意を向けられたことはある。
学年首位である肩書きとか、割りに整っているらしい顔立ち(自分ではモブ中のモブだと思っているけれども)だとか、父親の社会的立ち位置とか、そういうものに惹かれた人たち限定だけれど。だって、顔も名前も知らない人が殆どだ。
「でも、興味がなかった」
「欲求不満なのに?」
「みんな俺の外側しか見てない」
外側、と繰り返す楠木さんを見つめて、ふっと笑う。
隙だらけなので、唇にもう一度、キスしてみた。
「うわ」
「あんたくらいですよ」
「な、何が」
あ、警戒しちゃった。
唇を手で覆う仕草に、少し残念に思う。
「俺に、同情してくれてるの」
楠木さんの顔に、俺の影が出来ている。
ちらりと、俺を見上げるそのタレ目。
「同情じゃないよ」
「じゃあ、なんですか」
「なんでだろうなあ」
同情じゃなくて、わざわざ誘拐する理由って何だ。
楠木さんの目がうろうろして、小さく息を吐いた後、その腕が伸びてきて俺の首に回る。力が籠もって、引き寄せられた。
――抱き締められたのだと気付くまで、少しの時間がかかる。
「放っておけなかっただけ」
囁くみたいな小さな声が、耳に届く。
驚いている合間に、ぽんぽん、と頭を撫でられた。
「よしよーし」
「こ、子ども扱いやめてください」
「だって子どもでしょ。……マセすぎだけど」
ぽつり呟かれたのは、きっと照れ隠しだ。
「悔しかったら、早く大人になれば」
――ああ、この人は、ずるい大人だ。
月明かりの星の瞬きの下、優しくて眩しくてずるい大人の肩に、顔を埋めた。
ふんわり、漂う煙草の香りは、きっとずっと忘れない。
「そろそろ、お子様をおうちに帰さないとなあ」
立ち上がった楠木さんが、のんびりとそう言った。
いつまでも、浸っているわけにはいかない。
俺もゆっくりと立ち上がって、楠木さんの後に続く。
ん、と差し出されるメットを受け取った。
「泊まるって連絡したのに?」
「あ、そうか。じゃあ、俺ん家来る?」
「え」
まさかの誘いに、一瞬動きが止まった。
楠木さんの家で、一晩過ごすなんて。
さっき知ったばかりの味を思い出す。
「あ、何かやらしいこと考えてるでしょ。やめようかなー」
「そっ、そんなことないです!」
「ほんと?」
「本当!」
「ふうん」
怪しいなあ、ってニヤニヤ笑うのは、明らかに楽しんでいる。
「まあいいや、おいで」
黒いメットを被って、黒い愛車に跨がる楠木さんの背中は、相変わらず広い。
促されて頷いて、後ろに跨がる。
身体中に当たる湾岸道路の風は、さっきよりも、冷たくなっていた。
――初めて入る、一人暮らしの大人の家で、大人の階段を一歩上ることになるのはまあ、割愛させていただこう。それこそ、夏のヒミツってヤツ。
結局、連絡先も聞けなかったけれど。
この、真夏の一夜は、いい意味で俺を変えてくれた。
級友に声を掛けるようになったし、自分なりに、目標もできた。
それは――
「どうも、お久しぶりです」
「え、なんで、おま、え」
「悔しかったので」
「え」
「大人になってみました」
「あ、はい。え?」
「覚悟してくださいね、」
――先生?
真新しいスーツに身を包み、職員室でパソコンに向かう大人に、にっこり笑い掛けることができたのは、五年後の話。
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