1 / 1
バニラアイス
うだる。
梅雨が過ぎて夏が本気を見せ始めた。
体に纏わりつくねっとりとした空気は嫌いだが、太陽の熱さにうんざりさせられるのも嫌だ。
ある意味ないもの強請りだとは思っている。
夏になれば冬を恋しがり、冬になれば夏を切望した。
まぁ、春と秋が一番過ごしやすいのかもしれないが、そういう季節に限って期間は短い。
気づけば季節は過ぎ去り、何をしていたかと言われたら、何もしていない。
どの季節が一番好きかと聞かれたら、「どれも嫌いでどれも好き」と答える他ない。
十河 惣右介 は教室の窓から外を眺め、購買で買ってきたアイスを頬張った。
太陽が真上から少し傾き出した頃、教室の中では日常と言っても差し障りはない争い事が起きていた。
「ちょっと、なんで携帯見せらんないの?浮気してないんだったら見せれるじゃん!」
「だから浮気はしてないって!でも携帯は見せらんないって!」
「なんでよ!」
「だからぁ…」
これは男女の諍い だ。
それもいつもこの二人の。
中学生の頃から付き合っているらしいのだが、惣右介は同じ中学ではなかったので馴れ初めは知らない。だが、高校二年生になってクラスが同じになる前から、この二人の存在は知っていた。どこにいてもいつも口論をしているからだ。周りは皆、何故別れないのかと不思議がっていた。
「惣右介!ちょっと聞いてよ!」
彼女の方が唐突に惣右介を呼んだ。
うんざりとまでは言わないが、これにはいつも困惑させられる。
「なんでまた惣右介を呼ぶんだよ!関係ないだろ!」
そう、全然関係ないのだ。
「健人と話してても腹が立つだけだもん!惣右介に聞いてもらえば健人も納得してくれるでしょ!」
「凜々子はいつも惣右介頼みだよな!少しは自分で考えてみろよ!」
「はぁ!?それはこっちの台詞!前のケンカの時に惣右介に相談したの誰よ!」
それは彼氏の方の健人だ。
ちなみに言うと、その前のケンカの時にも先に健人が惣右介に相談してきた。
これに関しては健人の方が分が悪いようだ。
「まぁ、なんだか聞こえてきた内容で大体察しはついてるけど、どうしたの?」
「惣右介~、健人が携帯見せてくれないの!」
「だからなんで何も悪い事してないのに携帯なんか見せなきゃならないんだよ!」
こんな事をこの二人は彼これ10分は言い合っている。
「まぁまぁ、そもそもなんで携帯が見たかったの?凜々子はいつも見たがってるわけじゃないでしょ?」
同じクラスになってから友人として付き合いがある二人だから、二人がどういう考えを持っている人物かは多少理解出来ている。それに以前、「携帯を見る彼女ってどうかと思う。」と凜々子自身が言っていたのを、惣右介は覚えていた。
「私も最初は見る気なかったよ。だけどこの間日曜日に街に遊びに行ったら、健人がずーっと携帯ばっかり見てるの!今まではしてなかったのに、急にそんな事されたら私だって気になるよ。誰か違う女の子と連絡取ってるのかなって思うじゃん!」
「だから違うって!」
「健人」
惣右介は反論しようとする健人を静かに宥めた。
「実際に健人は携帯に夢中だったの?」
惣右介の問いかけに健人は目を彷徨わせながら「…まぁ」とだけ答えた。
「そっか。それが事実なら凜々子が心配する意味も分かるよね?」
「だけど、本当に悪い事はしてないんだ。」
「疑ってるわけじゃないよ。健人はそうだろうけどさ、凜々子には凜々子から見た健人の姿しか分からないんだから、そういう時は相手の気持ちも考えてあげなきゃ。」
「そう、だけどさ…」
「だけど、携帯を見せるって簡単な事じゃないよね。疑わしい事は何もしてなくても、友達同士でしてる会話もあるわけだから。その友達が健人だから話してる事もあると思う。それを凜々子が見ていい事じゃないって言うのは凜々子も分かるよね?」
「そう…ね」
「じゃあ二人はどうしたい?凜々子は携帯を見たい、健人は見せたくないじゃずっとこのままだよ。」
その惣右介の問いかけに二人は押し黙ってしまった。まだお互いに引く事ができないでいるようだ。正直、惣右介にもそれはどうしようもない話なのだが、関わってしまった以上これで投げ出す事も出来ない。
「凜々子は元々人の携帯を見るのは嫌だったよね?だったら、健人の事を少しだけ許してあげられないかな?」
「どういう事?」
「そのかわり、健人はもう凜々子といる時にはそういう怪しい行動はとらない事。例えそれが浮気ではなくてもね。」
「…でもそれじゃあ健人が浮気してたのかどうか分からないよ!」
「でもさ、凜々子がもし健人の携帯を見たとして、それで浮気じゃなかったって分かっても、今度は健人が傷つくだけだよ。嘘を付いてなかったのに、凜々子に信じてもらえなかったって。確かに怪しい行動は取っちゃったかも知れないけど、それを信じてもらえないのは健人も悲しいんじゃないのかな。」
惣右介の言葉に凜々子は健人の方を見た。健人は俯きながら何かを我慢しているような顔をしていた。それは怒りといったものではなく、やはりどこか悲しみのようなものだった。
「凜々子は健人を傷つけてまで携帯を見たいの?」
本来はそういう事をしたくないと思っている凜々子だから、惣右介はそこにつけ込んだ。凜々子の不安が完全に解消されるわけではないが、それでもそこに落ち着かなければ他に手立てがなかったのだ。
努力の甲斐もあって、凜々子は「惣右介の言うとおりにする」と言った。
「今度やったらマジで見る。」と健人を脅す事も忘れていなかったが。
なんとか事態が収束したところで、窓側にある自席に戻った惣右介は、クラスメイトの水野 勇気 に「お疲れ」と労いの言葉を掛けられた。
水野は健人たちと同様に今年の春に同じクラスになった。中学校も別で、健人たちとも違う学校だったようだ。いつも一人でいて、それでも協調性がないわけではなく、単に一人が好きだという感じだ。たまに声を掛けたり掛けられたりするが、気まずい思いをした事はなかった。
「惣右介はうちのクラスの相談役だな。」
「望んでたわけじゃないけど。」
「適役だと思いますけどね。」
「どうですかね。」
席を前後で座る二人は、今は窓に背を預けて隣り合っている。
「アイス、奢ってもらえば?」
「いいよ。また買ってくるし。」
二人に呼ばれる前に食べていたアイスが袋の中で形を変えてしまった。液体に変わったそれを、さすがにもう食べる気にはならない。
「お人好しも過ぎると損しかしないぞ。」
「そこまでお人好しじゃないよ。それに俺が入るだけで二人が仲直りするならその方がいい。」
「そういうのをお人好しって言うんだよ。」
水野はそう言い残して惣右介に背中を向けた。
機嫌を損ねたわけではなく、これ以上話すこともないというだけだ。水野がそういう性格だという事は、席が近くなって、度々会話をするようになってから自然と分かってきた。
惣右介は水野のその性格をただの個性として認識しているが、それを他の人には誤解されることもあるだろうなと思う。
そしてそれは、自分にも同じ事が言える。
水野に言った事は謙遜でもなく、本当に自分がお人好しだとは思っていない。どうしてそう思われるようになったのか、本人にもその自覚はないし、明確な理由があったような気はしない。
だけど、先ほど健人と凜々子が惣右介を当てにしたように、クラスでもめ事が起きた時にはよくその現場へと駆り出された。
人に助言出来るだけの立派な精神を持っているわけではないのに…と惣右介はいつも周りの期待を重く感じていた。それでも、もめ事が解決した時に「惣右介がいてくれてよかった」と言われると、そこは素直に嬉しかった。
少し寂しくもあったけど。
皆が惣右介を頼ってくれて、「惣右介がいると安心できる」なんて言う人もいたが、いつもそういう人たちには惣右介以外に大切な人がいた。それは友人だったり、親友だったり、先輩や後輩だったり、恋人だったり。とにかく惣右介とは別の誰かが、いつもその人の傍にいた。
惣右介は誰かにとっての一番ではなかった。
それに悩む時期はとうに過ぎたが、時折、寂しいなと思う事がある。
ただそれだけだ。
アイスをゴミ箱に捨てに行くと、先程まで言い争っていた健人と凜々子の姿が目に映る。
二人はもう笑顔で何かを耳打ちし合っていて、顔を見合わせて同時に笑っていた。
その姿を見ていると、安堵と同時に羨ましいという感情が芽生えてしまう。
いつか自分にもそういう相手が出来るだろうか。
二人のような恋人じゃなくてもいい。親友でも、友人でも、どんな形であっても、お互いがお互いの存在を一番だと信じて言える。そんな人が現れるだろうか。
惣右介は無意識に自分の腕に触れた。
すっかりと馴染んで、そこにある事に違和感もないブレスレットを掴む。
自分で買ったわけでも、大切な誰かから送られたわけでもない。
数年前の夏の夜に、偶然出会った少年に貰ったものだ。
それがどこの誰なのかは、惣右介は知らない。
三年前の真夏の夜に、惣右介は家出を決行した。
今思えば若気の至りとも取れるし、それには意味があったとも言える。
若気の至りと言ったって、まだ未成年の惣右介だが。
それこそ自分は一人ぼっちだと深く悩んだ時期だった。
実家はパン屋をやっていて、両親は早く起きて早く寝る。仕事をするのが手一杯で、中学生になった惣右介の事はわりと放任されていた。
だからと言って夜ご飯を悲しく一人で食べたり、進路の相談をしても「勝手にしろ」と言われるわけではない。その点は両親もしっかりと考えてくれていたように思う。
それでも当時の惣右介には自分の存在価値が分からなくなっていた。
この頃から水野の言う「お人好しの惣右介」は出来上がっていて、いつも一緒にいる友人はいないし、恋人だっていない。この頃はまだ、恋人が欲しいと言う気持ちも薄かったと思うが。
両親は自分を見ていないような気がして、その不安と孤独が限界に到達した時に、衝動的に家出を企てた。
家を出た時は二度と帰らないつもりだったから、衝動的とはいえ荷物はそれなりに持って出た。小学生の頃から貯めていた貯金箱は叩き割ったし、それで非常食も買った。衣類も夏用と冬用を何着か持って、最後に両親へ手紙を残した。
死にに行くわけじゃない。生きるために出て行くのだと、それらしい事を書いたと思う。
思い返せば恥ずかしいと思うが、それでもあれがなければ今の自分はいないような気がする。
家を出て、少し歩いてすぐに途方に暮れた。
想像以上に暗い町。すれ違う人々は果てしなく無関心。中学生の惣右介を泊めてくれる宿などない事は、当時の惣右介には分かっていた。
野宿しかない。それは家を出る時から決心していた事だったが、現実になるとそれは簡単な事ではなかった。寝床を探して町を歩き、あまり行った事のない川の向こう側を目指した。
そこで偶然見つけた小さな公園。簡易のトイレはあるし、水道もある。街灯は少し頼りないが、寝るだけなら十分とも言える。それを見た瞬間に、今日はここで眠ろうと決めた。
自分の事をまだ知らない場所なら、自分を受け入れてもらえると、そう思った。
非常食として買ってきたパンに噛り付きながら、真っ暗な空を見上げる。
街灯が少ないおかげで星は思っていたよりも綺麗に見えた。
「……綺麗」
無意識にそう呟いていた。
「なぁ、綺麗だよな。」
その呟きに共感する声がして、体がびくりと跳ねた。
まさか誰かがいたとは思わず、声のした方を勢いよく振り返る。
そこには惣右介と同じくらいの少年がいた。
彼は半袖に短パンの姿で、軽く散歩に出たという出で立ちだった。
「びっくりした?ごめんごめん。」
「いや…」
少年は謝ったきりで、その後は何も言わなかった。
なのにずっと惣右介の後ろで同じように空を見上げてた。
「…君はこの辺に住んでるの?」
これは惣右介が言った。
「まぁ。川の向こう側だけど、そんなに遠くない。」
「…俺も。でもその恰好は寒くない?」
「むしろ暑いくらいだけど。そっちの恰好の方がよっぽど季節感ないぜ。」
少年は惣右介の服装を笑った。馬鹿にしたわけではなく、自分とのギャップが面白かったという感じだった。惣右介は今後の事も考えてこの季節にしては厚着をしていた。だが、その事情をこの少年は知るはずもないのだから、笑われてもしょうがない事だ。
「散歩しに来たって感じじゃないな。どこか行くのか?」
同世代の少年が、夜に一人でこんな場所にいて、それも中々に荷物を抱えていたら不思議に思うのも無理はない。これからどこかに行くにしても、そうそう手段はないのだし。
「んー、行きたいなという気持ちはある。」
「…ふぅん、あれか、もしかして家出?」
「…そんなとこ。」
「そっか。」
少年はそれ以上何も言わない。
不思議な人だと思った。
興味がないだけなのか、それとも気を使ってくれているのか。
でも、どういうわけかそのどちらでもない気がした。
「なんで、とか聞かないのか?」
つい自分からそんな事を言ってしまった。
「聞いてほしいなら聞くけど。」
「いや…そういうわけじゃないけど。」
「なら聞かない。家出するって時点で何かがあるってのは分かるし、それを俺が聞いたところで何の解決にもならないし。力になってやれない事を聞いても、ただの興味本位にしかならないだろ。」
「凄い…なんか考え方が大人。」
惣右介がそう言うと少年は目を丸くした。
「…それはおまえの方だと思うけど。」
少年はそう言うが、その根拠はまるで分からない。むしろ、家出なんかしちゃうんだから、まだまだ子供なんだと自覚し始めていた。
「俺が大人だったら、もう少しうまくやれたんじゃないかな。こんな風に家出なんかしなくてもさ。」
「でも、そうする事でしか自分を守れない時もあるだろ。」
今度は惣右介が目を丸くする番だった。
どうしてこの少年は、それを知っているんだろう。
そうだった。
惣右介は自分を守りたかった。
この孤独から、自分を助け出したかった。
大きな声も上げられず、自分を見てとは叫べない。
だからこそ、行動するしかなかった。
家出をすることで、惣右介は悲鳴をあげたかったのだ。
「やっぱり君、大人だよ。」
惣右介が破顔すると、少年はつられる様に笑みをこぼした。
それから何を話すでもなく、静かに空を見上げていた二人だったが、惣右介がパンを食べ終わった頃に少年が「そろそろ帰る」と言った。
もしかして待っててくれたのかなとも思ったが、それを聞く意味はない気がした。
「おまえはここで寝るのか?」
「…そうしようと思ってたけど。」
なんでか気持ちは落ち着いてしまっていた。数時間前まで自分の中で複雑に絡み合っていたあらゆる感情が、糸のように綺麗に一本ずつ、解かれているみたいだった。
こうなってしまうと、家出を続ける意味もないように思えた。
少年はその空気を察したのか、小さく笑いながら「帰りたいなら帰ればいいんだよ。」と言った。
「…そうしようかな。」
「ん。俺もこれで一安心だわ。」
「なんで?」
ついさっき知り合ったばかりの赤の他人だ。
何を心配する事があったのか。
「明日になってニュースになってたら後味悪くないか?公園で男の子が死んでるのが発見されたとかって。絶対おまえだなって思うし、最後に会ってたの俺じゃんってなるもん。なんかちょっと責任感じるわ。」
そんな事を考えてもいなさそうだったのに、心の中ではちょっと悩んでくれていたのかと思ったら、惣右介は堪え切れずに笑いを噴き出した。
「笑いごとじゃないっての。」
罰が悪そうに少年はぼやいた。
「いや、ごめん。ありがとう。」
「今度は俺に見つかんなよ。」
「はは、そうする。」
多分もう、家出をする事はないと思うけど。
惣右介はそう、心で呟いた。
自然と二人は並んで歩いて、橋を渡って川を越えた。
そこが二人の分岐点だった。
少年が「俺はこっちだから。」と言って、惣右介の家がある反対方向を指さした。
「俺はこっち。…じゃ」
惣右介が軽く手を挙げて別れようとした時、少年が徐に何かを差し出してきた。
「これやるよ。」
手の中に握られていたものを受け取る。
自分の手のひらに置かれたものは、青い麻紐のようなもので出来たブレスレットだった。
「え、いいの?」
「また家出しそうになったら、それ見て今日の事を思い出せよ。綺麗な星空でも思い出せば、頑張れそうだろ?」
「……うん。」
「じゃあな」
少年は用事が済んだとばかりに颯爽と歩き出した。
「あ、ありがとう!」
その背中に届けとばかりに声を出す。
少年は一度だけ振り返って、静かに笑ったように見えた。
学校から帰宅すると、大体いつも店の手伝いをさせられる。
それでお小遣いがもらえるので、よそでバイトをするよりもその方が惣右介にとっては都合が良かった。たまに親の目を盗んでパンを食べている事は秘密だ。
「そろそろ店閉めるよ。」
「はーい」
母親が閉店の準備を始めると、惣右介も店の前に出しているウェルカムボードを店内に運んだ。今日は天気が良かったからパンはいつもよりよく売れた。惣右介としてはアイスが食べたい気分だったけど。
「あとで買いに行くか…」
惣右介がそうぼやくと、何を買うかも分からない母親が「ついでに牛乳も買ってきて」と言った。
閉店作業を終えて、お風呂に入ってからアイスを買いに外へ出た。出かける際に「牛乳だけでいいの?」と聞いたら、「あとは家出しないで帰っておいで」と言われた。
あの日、惣右介が家に戻ると、手紙を読んだ両親が慌てて警察に連絡しようか、探しに行こうかと騒いでいるところだった。「死ぬつもりじゃなかったのに」と言っても、「そういう問題じゃない」と叱られた。今思うと当然だと思って笑ってしまう。
だが、いつまでもその事を掘り返されるのも厄介ではある。
「しないから。行ってくるよ。」
「はいはい。」
あの日と同じような、昼間の熱が残る暑い夜だ。
あの時と違うのは惣右介の服装が、あの少年のように半袖短パンだという事。
コンビニでアイスを買って、ぷらぷらと散歩をしながら歩いていたが、ふと思い立った。
あの公園に行ってみようか。
中学生の頃はとても遠くに感じていたあの場所は、実はそんなに遠くないのだと後で知った。それでもほとんど行く事はなくて、あれから今日が三度目だ。
後日、またあの公園へ行った事があったが、時間帯が悪かったのか、夕方に行ってもあの少年はいなかった。そうそう会えるものじゃないと思っていたが、少し落胆して帰ったのを覚えている。
あの少年は今、どこにいるだろう。
思い返してみれば、誰かに似ているような気もしたが、誰だっただろう。
川を渡って公園についたら、ブランコに座って買ってきたアイスを頬張った。
甘いバニラの味が口の中に広がる。鼻に抜けるその独特の香りも好きだ。
空を見上げたら、やっぱり星は綺麗に瞬いていた。
「…綺麗」
あの時と同じ言葉を呟いてみる。
なぞったわけじゃない。同じ感想を持っただけだ。
「なぁ、綺麗だよな。」
体はびくりと跳ねて声のする方に顔を向けた。
そこに居たのは随分と見知った人物だった。
「…え、水野?」
「よお。偶然。」
「偶然…だけど、なんでここにいんの?」
「散歩がてら星見に来た。惣右介こそなんでいんの?」
「いや…俺は…」
思い出の地へ来てみたのだ。とは言えない。
語るに恥ずかしいのではないが、べらべらと話す事でもない。
「おまえ、そのアイス好きだね。」
「美味いからね。食べる?もう一本あるよ。」
「なんであんだよ。溶けるだろ。」
「歩きながら二本食べる予定だった。」
水野は「ぷはっ」と笑いを噴き出してから、「食いすぎだからこっちに渡しなさい。」と言った。惣右介は素直にバニラアイスを水野に手渡した。
二人はアイスを頬張りながら空を見上げた。
「水野はよくここに来るのか?」
「いや…ほとんど来ないね。おまえは?」
「俺も。ちょっと前にね、来た事があったんだけど。」
「…ふぅん。」
既視感だ。
強烈な既視感が惣右介を襲った。
聞いていいのか?でも、そんな事があるだろうか。
「あのさ…」
惣右介がそう切り出した時、水野が言った。
「今日はパンじゃないんだな。」
惣右介は水野を見た。でも、水野はこっちを見ていない。
空を見上げたまま、惣右介の言葉を待っているようにも思う。
「……やっぱり、そうなんだ。」
「気付いてないだろうなって思ってた。」
「なんで?水野はなんで分かったの?」
その時ようやく水野が惣右介を見た。ブランコに座る惣右介を見下ろして、不敵な笑みを浮かべながら「それ」と惣右介の腕を指さした。
「…あ」
「俺があげたやつだろ?」
そういえばそうだった。
ここで出会った少年にもらったのだ。
「…え、じゃあ…」
「知ってたよ。同じクラスになった時から。」
「えー!なんで言わないんだよ!」
「忘れてるかもなぁって思ってたんだよ。あの日初めて会って、しかも暗い時間だろ?顔なんか覚えてないだろ、普通。」
確かにそうかもしれない。いや、現にそうだった。
顔を覚えていたら、同じクラスになった時点であの少年が水野だったと分かるはずだ。
少し成長したとはいえ、別人になるわけではないのだから。
「顔は覚えてなくてもさ、ここで会った事は覚えてるじゃん。」
「家出少年のあの日の出来事が、楽しい思い出だったとは思えないけどな。」
家出をするくらい悩んでいた。追い詰められていた。
それは冗談でも明るい話とは言えないけど、だけど惣右介にはあの日の出来事は不幸を象徴するものではない。
「前向きになれたんだよ、水野と話して。」
それに対して水野は何も言わなかった。
アイスを食べ終えた頃に、水野は「そろそろ帰るか。」と言った。惣右介もそれに同意してブランコから立ち上がる。
あの日と同じように二人で並んで橋を渡って川を越えた。
「俺、こっちだから。」
「知ってる。俺はこっち。」
「知ってる。…じゃあな。」
「あ、ねぇ!」
立ち去ろうとする水野を惣右介は呼びとめた。
振り返った水野が「なんだ」と言うように首を傾げた。
「これ、水野に貰った時さ、おまえ言っただろ。綺麗な星空を思い出せば頑張れるだろって。」
「…あぁ、うん。」
「あの言葉、嬉しかった。だけどさ、このブレスレットに触るたびに思い出してたのって星空じゃないんだ。」
「うん?」
「ずっとあの時の水野の事、思い出してた。誰かも知らない子だったけど、誰よりも俺を分かってくれてる気がして…」
と、そこまで言って惣右介は無性に恥ずかしくなった。
一体自分は何を言っているのか。青臭い青春を繰り広げる気なのか。
「俺も思い出してたよ。」
水野がそう言って惣右介に自分の腕を見せた。
いつもは何もないそこに、惣右介が持っているものと色違いのブレスレットがあった。
「このブレスレットさ、俺の手作りなんだ。あの頃ちょっとハマっててさ。だけどそれをあげられるような友達もいなかったから、作ってみてもどうしようもなくて。なんか寂しいなぁって思って、ぷらっと散歩に出たんだ。そしたらそこで惣右介に会ってさ。なんでかおまえと星なんか見て、一緒に帰って……それを忘れたくなかったんだと思う。おまえにも覚えてて欲しかったんだと思う。頑張れって言うふりをして、俺の為でもあったんだよな。」
水野がこんなに長く話しをするのを初めて見た。
あの時の、水野が抱えていた惣右介と似た不安。
だから水野が惣右介を分かってくれているように感じたのかも知れない。
「それでも嬉しかったよ。このブレスレットが俺を助けてくれたのは本当だから。」
「俺も嬉しかった。惣右介がそれを着けてるところを見た時は、凄い、嬉しかった。」
水野が照れたように笑う。
それも初めて見る水野の姿だ。
「水野も明日からそれ着けて学校に来てよ。」
「…でもお揃いでこんなん着けてたらなんか言われそう。」
「言われてもいいだろ。俺にとっては自慢だし、変な事じゃない。」
「そうだけど…ま、いいか。」
水野のそういう思い切りがいいところが惣右介は好きだ。
何をしても許されるような気がしてしまう。
「じゃあ、明日学校で。」
「おう。」
二人は目を合わせて同時に笑って、お互いに手を挙げてから背を向けた。
明日、また、学校で会える。
惣右介は腕を持ち上げてブレスレットを見た。
貰った時より成長した惣右介には、実はこのブレスレットは少し小さい。
水野もあの頃よりは成長したはずなのに、同じブレスレットを着けていたのなら、水野のものも小さくなったんじゃないだろうか。
なのにもし、水野が今もそのブレスレットを着けているのなら。
水野も惣右介と同じ気持ちでいてくれたんじゃないか。
そう思うだけで惣右介の心は新しい感情に満たされていく。
ブレスレットに触れて、ぎゅっとそれを握りしめた。
蘇る思い出は「綺麗な星空」ではなく「少年」だった。
二人がその意味に気付くのは、まだ少し先の話。
ともだちにシェアしよう!