1 / 1

直さんと優くん

手元に何もなくなって、ぼんやりと流されるままにしか生きることしか許されなくて。毎日毎日快楽の海に突き落とされて、何度も何度も溺れて気を失って。今が夢か現実かも判別がつかなくなった時だけ恋人の陽正は優しかった。 「お前のそういう顔ホント可愛い」 穏やかな瞳に囚われたまま、両手で頬を包まれ、そっと唇を奪われる。舌を絡めて返す元気もないほど疲れ切った身体を抱きしめられ、体中の空気を奪われ、絡め取られた舌から伝う唾液を飲まされる。この部屋に居続ける限り、陽正の呼んだ男のおもちゃにされる。陽正は滅多に帰ってこない。ただ直幸の身体で遊びたいだけの人間に抵抗もできずにモノのように扱われ、手ひどく犯される。身体も心ももう限界で、陽正が帰ってくるたび関係の終わりを告げようとした。 「可愛いお前とまたキスしたい。次も待っててくれるよな?」 「……うん」 しかし行く宛も将来への希望も失った直幸にはどんな形であれ自分との未来を望まれることがどうしようもなく嬉しくて。実際は一度として陽正の言葉を拒むことができなかった。 「直さん、一緒に暮らそうか」 春の匂いが色濃く香る冬の夜。恋人の家に住み着いて一年が過ぎた頃、恋人の弟にそう言われた。 「ねぇ、お願い。俺のこと好きじゃなくていいから。何も考えなくていいから頷いて。こんな家出てさ、一緒に住もう?」 「優……」 散々嬲られ、服を着る気力もないまま眠りに落ちた直幸の身体が優の高い体温に包み込まれる。優は泣きながら掠れた声で何度も「お願い」の言葉を繰り返した。今の今まで首を絞められながら犯され、泣き叫んでいたせいで耳も頭もぼんやりしている。ぼんやりとしすぎて、自分の身体の輪郭も、意識も、何もかもがあいまいな中に、優の言葉が生々しく流れ込んでくる。暖かくて、優の声だけはどこまでも優しくて、勝手に直幸の心の奥まで染みていく。どうしようもなくなるほど嬉しかった。涙が流れて止まらない。限界はとうの昔に超えていて、傷付くことにも疲れて感情を遮断してしまった筈なのに。驚くほどに鮮やかに感情が直幸の中に溢れ、瞳からこぼれていく。陽正に捨てられることが怖くて、気付いたら逆らう力ももう残されていなくて、逃げることもできず全てが終わるまでじっと声を殺して、気を失うまで疲れ果てて、泥のように眠る毎日を繰り返していた。もはや人間ではなく性欲を処理する道具でしかなかった。だからこんな風に血の通った人間に向けるような扱いを受けたら、心の弱い部分が震えてしまう。あっという間に弱さが剥き出しになって、全部を目の前の彼に明け渡してしまう。直幸は震える手で優に縋りついた。 「優、たすけて……こんなの、もうやだ……やめたい、したくない」 「知ってる……っ」 「ぜんぜん嬉しくないのに、嫌なのに、気持ち良くて、死にそうなくらい苦しい」 「そうだね」 「もうやだ。お願い……優。たすけて」 泣きじゃくりながら直幸は優の手を掴み、濡れた頬を擦り寄せた。手を離したらもう二度とこんな暖かさを自分では感じられなくなる気がして優から身体を離せなかった。子供みたいに泣きながら、年下の男の腕の中で直幸はまとまりきらない言葉をいくつも吐き出す。そんな彼を受け止めながら、優は涙をいっぱいに溜めた瞳を揺らして首を縦に振った。 「助けるよ。ずっと一緒に居よう。二人で一生暮らそう」 「……本気にしてもいい?」 「当たり前でしょ」 「好きになってもいい?」 「もちろん」 「嬉しい……」 直幸の頬を大切そうに両手で包んだ優はじっと彼の顔を見て同じく笑う。 「直さんの笑った顔、久しぶりに見た」 優が笑うとその眼の端からぽろぽろと涙がこぼれた。彼が瞬くたびに直幸の頬に冷たくなったしずくが落ちる。 「俺だけに見せる顔、見せてよ」 涙で濡れた瞳も、きらきら光るまつ毛もとても綺麗で見惚れてしまう。言われるままに頷くと優は直幸の唇を奪った。ひそやかな息が混ざり合い、お互いの肺に吸い込まれて、互いの唾液が同じ温度になるまで熱く舌が絡み合う。長くて、優しいキスだった。 「俺がいなくても俺の傍にいて。兄貴の部屋で俺のこと待ったりしないで」 優がそう言うからその日から直幸は優の部屋で眠った。居場所のなかった直幸は「逆らったら別れる」と告げた陽正の言うことをなんだって受け入れてきた。陽正の言葉に背いてまで誰かのお願いを聞くなんて初めてのことだ。陽正の部屋から離れ、優の部屋で優と一緒に過ごすだけの生活を始めて一週間も経たないある日。 「直幸」 「っは……ッ」 優が通学でいない日中、眠っていた直幸を起こしたのは恋人の陽正だった。無表情に首を締め上げ名前を呼ぶ。まるで彼の部屋を訪れる男たちのように、その目と手は彼を道具としてしか見ておらず、道具を扱うような手つきで、直幸の意識が覚醒すると首から手を離してベッドの上に放り出す。咳き込みくずれる直幸の髪を掴み、視線を上げさせるとようやく口を開いた。 「寝る部屋、間違えてるぞ」 「ま、まちがえて、ない……」 「俺の部屋で俺のことだけ待ってろって前来た時に言ったよな」 「もう……僕、陽正さんのこと、待たない」 「へぇ」 「別れて」 髪の毛を掴まれたまま、横倒しにされ腹を蹴りあげられる。鋭い痛みが腹に広がり、蹴られるたびに勝手に呻き声が出た。今更悲しいとも思えない。陽正の機嫌を損ねたらこうなることは直幸が一番よく分かっていた。 「久々に帰ってきた恋人に言うこと他にあるだろ?」 「……別れて」 「違うよな」 「ッ」 いつも容赦なく何度も蹴り上げられるたび、身体も心も柔らかい場所ばかりが同時に壊されるような気がした。痛みで肺の中が焼けてしまいそうなほど苦しい。暴力よりも何よりも陽正の怒声が直幸にとっては恐ろしかった。身寄りもなく、施設から進学して、学校で居場所を失って、もはや彼以外に頼る相手を失った直幸にとって、彼に嫌われること、捨てられることは人生が終わることと同義にすら思えた。彼に放り出されると考えただけで、一瞬で先の未来が失われたように感じるほど大きな不安にとらわれた。未来の全てだった筈の彼の怒声は、脳も心も大きく揺さぶり、完全に直幸は平衡感覚を失っていた。 「住んでる学生寮で乱交して行くアテなかったお前を拾ってやったの俺だよな」 「よ、陽正さんがしろって言ったから……もう僕は好きじゃない人としたくない」 「メンドクサイこと言うなよ」 「……別れてください」 「いいよ、そんなに別れたいなら出てけよ」 立つこともままならず、がくがくと全身を震わせながら床に手を付き、頭を下げる直幸を見下ろす陽正は興味なさそうに答える。直幸が顔を上げようとした瞬間、後頭部に陽正の足が置かれ、踏みつけられる。その勢いに直幸は床で額を強くぶつけて痛みと恐怖で動けなくなった。 「……っ」 「別にオナホはお前じゃなくてもいいって前も言っただろ。生でも孕まないからお前でいいってみんな妥協してただけ。優も最近お前のせいで生意気だし。代わりはあいつでもいいからさ」 「え……」 「直幸の代わりに優がみんなの便器になるだけの話だから」 「やめて、それだけは……」 「なんで? もうお前こういうの嫌なんだろ? アイツがどうなったってお前には関係ないよな」 「関係、なくない……!」 「なんで?」 「優は、こんな僕に優しくしてくれた……本気で心配してくれて……一度も軽蔑なんてしなかった」 「何が言いたいわけ? 全然分かんないんだけど」 「ッぐ……優に、そういうの、しないで、ください……ッ」 頭を踏みつける力を強くされ、不格好な体勢のまま直幸は必死に頭を下げた。その間にも恐怖と混乱が混ぜこぜになった脳はどんどん悪くなるばかりで、呼吸は上がり、涙腺は緩み、視界をめちゃくちゃに滲ませていく。 「なんでお前のせいで俺が我慢する話になってんの?」 「……ごめんなさい」 「それで詫びたつもりか?」 「ゆるしてください……ッ!」 肺に空気を溜めるだけで痛くて苦しい。大きな声を上げると痛みで全身が壊れそうになる。涙交じりの悲鳴のような懇願を繰り返す最中、何度も身体を蹴られた。暴力で言葉を吐き出す気力がなくなるまでぼろぼろにされて床に這いつくばる。 「直幸」 髪を引き上げられ、瞬くこともできずに視線だけを動かして陽正を見た。 「ぁ……」 「っはは、やっと可愛くなった。お前のそういう顔。ホント可愛いし好き」 意味のある言葉も吐き出せず、血の滲んだ口の中を舌で掻き混ぜられ、唾液を飲まされる。舌をもつれさせ、唾液で気道をふさがないためだけに、喉を鳴らすことしかできない。 「いいよ。今は別れてやる。だけど俺が遊びたくなったらまた可愛くなるまでいっぱい遊んでやるから楽しみに待ってろよ」 「んぐっ……ぅ」 鼻にかかる甘い声。痛くて鉄の味のする生々しい口付け。苦しい呼吸を簡単に塞さがれて、肯定も否定も許されないまま窒息させられる。空気の少なさに脳はすぐに痛みを発して、直幸は耐えきれず意識を失った。 「直幸さん、直幸さん」 「……ゆう?」 夕焼けの差し込む狭いアパートのリビング。少し開いた窓から冷たい風が入り込む。風はカーテンを揺らし、テーブルの上で開かれたままの本のページをぱらぱらとめくっていく。無音の室内で静かに眠る直幸を起こしたのは帰宅してすぐの優だった。 「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」 「うん……おかえりなさい」 「寝ぼけてるでしょ」 「……うん」 優に肩を揺さぶられ、テーブルに顔を伏せて眠っていた直幸は眠たそうにゆっくりと目を瞬かせる。まだはっきりとしない声でたどたどしく優の名前を呼び、頬にキスをした。 「ゆう。お仕事、お疲れ様」 「うん」 椅子に座ったまま腰を浮かせて、優の首に手を回し、何度もキスをして穏やかな心地よさに溺れる。 『直さん、俺と一緒に大学行こっか』 不意にこのアパートに越してきたその日に、優が言ったことを思い出した。 『働いてさ。貯金して。嫌じゃなかったら一緒に大学行こう?』 その言葉は自ら潰えさせてしまった過去からずっと止まっていた直幸の時間を一瞬で巻き戻してくれるようにすら感じた。 『直さん、本とか勉強するのとか本当は好きでしょ。俺の部屋にあった本、こっそり読んでたの知ってるよ』 そう言われた時、直幸は少しだけ驚いた。陽正と別れてからこのアパートに引っ越すまでの間、彼の部屋の本棚の本をこっそり読んでいたのは誰にも話したことがなかったからだ。確かに本は好きだった。ただ本であれば何でも良かったほどこだわりの少ない執着でもある。ただ文字を追って、それを理解するだけの行為を繰り返すことができれば直幸はそれで満足だった。おかげで成績は良かったものの、それはたくさんの本を読んでも自身で十分に理解できるよう、理解するための範囲を増やしていくだけの工程に過ぎなかった。本はテレビと違って開いても勝手に笑い声を上げたりしない。テレビの明るく空虚な笑い声は自分をあざ笑うようにも聞こえて、どこか恐ろしく感じられた。そのため、直幸はテレビの類には一切触れず、無音の中でたくさんの本に溺れた。ただすぐに物足りなくなってしまった。もっと学びたいなんてあまりにも贅沢すぎて優には言える筈もない。そんな自身の貪欲さまで見抜かれていたような気がして恥ずかしくて、嬉しくて。その日、直幸は優の背にくっついたまま彼の言葉に頷いた。このアパートで暮らすようになってからも変わらない。今までずっとモノのように扱われ、泥のように眠る生活しかしてこなかったせいか。寝て、起きて、与えられたことをしても時間と体力が余っているということが落ち着かなかった。だから手当たり次第に本を読んだ。 「本読んでたらいつの間にか寝ちゃった」 「ごめんね遅くなって」 「ううん。帰ってきてくれて嬉しい」 優の頬や首筋、鎖骨にキスを触れるだけの繰り返して、直幸は彼の暖かい身体に懐く。 「直幸さん。あのさ……あんまりされるとしたくなっちゃう」 「したくなるようにしてる」 「……バカ」 耳まで真っ赤になった優の言葉は最後まで告げられずに直幸の口付けによって塞がれる。唇を舌で突いて、舌を吸うように舐めて遊ぶと今度は優に強く抱きしめられて直幸の口が塞がれた。絡み合う舌の温度が溶け合うまで二人は穏やかなキスを繰り返す。窓辺では夜の闇に淡く染まりかけた白いカーテンが風で静かに揺れていた。

ともだちにシェアしよう!