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「調教開始だ」 艶やかに、男が笑った。 ほこりっぽいその部屋の中で、不似合いな存在。 女性たちが振り返って二度見するような、整った外見。 さっきまで作業をしていたから汗をかいたのだろう、Tシャツも脱ぎ捨ててツナギの上を腰に巻き付け、上半身を惜しげもなくさらしている。 無理矢理鍛えたわけではなくて、自然と生活の中でついたとわかる、しなやかな筋肉。 なんてキレイなんだろうと、こんな状況なのに見ほれてしまう。 そう。 ほとんど使われることのないほこりっぽい離れの部屋の中、オレは下着だけを身につけて、どこかから出てきた電気コードで椅子に縛り付けられている。 どうしてこんなことに。 いつものように、大学の研究室に行った。 打ち合わせをして、現場にでて作業を手伝った。 途中で昼飯を食べた。 昼からは別行動になった。 オレは離れに用意されてる事務室――こことは別に用意されたパソコン作業用の部屋で、データの入力作業をしていた。 男は現場と離れをいったり来たりしていたように思う。 とにかく、別の行動だった。 今日の作業が終わり、一緒に作業していた人たちが帰り、なんだかんだと帰り際に言いつけられたことを片づけて、自分の帰宅用意をして…… そして。 呼ばれてこの部屋に入った。 暗い部屋の中、足下に気を取られていて、男の行動に気が付くのが遅れた。 抱きしめられてキスされて、ふわふわした気分になって。 オレを抱きしめていた男の腕が離れたのが寂しいと思った。 気が付いたらこの状態だ。 身じろぎしただけできしむようなおんぼろの椅子に、下着姿で、電気コードで縛り付けられている。 「何で?」 泣きそうな気分で、開け放ったドアを背にシルエットになっている男に問いかけた。 自分の男だなんて、今でも夢じゃないのかと思うくらいに、すてきな人。 優しいはずのその男が、不敵に笑う。 「何度もいったはずだよな。そろそろ、身体に覚えてもらおうか」 いつのまにどこから持ってきたのか。 男が手にした物を見て、オレは凍り付く。 「やめて、それだけは……」 「口、あけて」 「やだ……お願い、ゆるして」 あれを口に入れるつもりなんだろう。 微笑みながらこちらに近づいてくるのを拒みたいのに、縛り付けられた椅子が邪魔をする。 フルフルと首をふって何とか椅子ごと後ろに下がろうと床を蹴る。 がたん。 椅子の脚が何かに引っかかった。 「やだ」 「斉藤の時、努力するっていったよな?」 「え?」 「寺内の時には、気をつけるっていった」 悲しそうに微笑んで、男はオレの失態を数え上げる。 「西畠の時は、もうしないって、そういった」 「ごめ…ん」 「それで、今回の平野だ。もう、いい加減俺の我慢も限界だ」 男はオレの正面で足を止めた。 「俺だけに見せる顔、見せてよ」 口元にあてられる、赤。 「ねえ、口をあけて」 謝りたいけど、口を開けたらそれが入ってくる。 怖くてオレは首を横に振った。 じわりと視界がゆがんだ。 「泣いても駄目だ。調教だっていったろ?」 「ふ…」 「大丈夫。お前のためだから。口、開けて」 「んー」 「開けな」 怖くて。 微笑む男も、口元の赤も、自分がしでかしてしまったことも、怖くて目を閉じて首を振った。 「かわいいけど、駄目だよ。今日こそは許さない」 きっぱりと言って、男はオレの鼻をつまんだ。 嘘。 マジ? 息できないじゃん。 やだやだ。 口を開けたくない。 「んー! ん、ん、ん……う……ぷは!」 苦しい。 息ができないことに我慢できなくて、空気を求めて口を開けてしまった。 「いいこ」 すかさず男が口の中に待機していた物を放り込んでくるから、今度は口を閉じられなくなる。 「ぅあああああ」 「大丈夫だから、口閉じろ」 「あーあーあー」 「大丈夫だってば。お前の条件はクリアしてある」 「……ああ、あ」 「自分でいったじゃないか。だから、その通りにしてある」 そっと頭を撫でられる。 優しい手。 なのに、口の中のモノは出してくれない。 「食わず嫌いもほどほどにしとけ。火が通ったものなら食えるって、自分で言ったんだからな」 オレの後頭部に手を回し、男はオレの口を唇でふさいできた。 舌が口の中に入ってくる。 何とか口の中でそのままにしてあったものが、男の舌で押しつぶされる。 ああ。 やだやだやだやだ、どうしよう。 口の中に広がる味と感触を想像して、マジで涙が落ちそうになった……けど。 え? 「んー、んー、んー……? ん?」 あれ? ぷつんと破裂するような皮の感覚はなかった。 缶詰の桃みたいな、柔らかい感触がにゅるっと舌で押しつぶされて、広がる甘味。 オレが抵抗をやめたのに気がついて、男が喉の奥で笑った。 キスというか口移しというか。 与えられたモノを、もぐもぐと咀嚼する。 「うまいだろ?」 「うん」 「だから、お前が食えるようにしてやるから、口に入れろっていったんじゃないか……いい加減、トマトくらい食えるようになれよ」 「これなら、食える」 「他の男からばっか、食わされてんじゃねえよ」 もう一口欲しくて、あ、と口を開けたら、さっきまでの怖い雰囲気がすっかりなくなった男が、嬉しそうにオレの口に赤い実を放り込んできた。 オレたちの研究室は、温室でいろんな野菜を育ててる。 男の専門はトマト。 オレの大っ嫌いな。 天敵といってもいいくらい嫌いな、赤い実。 絶対に美味しいから食えといわれても、生ではどうやってもどの品種でも食べられなかった。 斉藤も寺内も西畠も。 何とかしてオレにトマトを食べさせようとした、トマト栽培班だ。 餌付けされるようにトマト料理をもらっては、男に怒られるのを繰り返していたのだ。 曰く『俺が食べられるようにしてやりたい』と。 面倒な男のかわいい独占欲。 今日、頑張って食べようと思ったけど恐ろしくて自分で口に入れることができなくて、平野にトマト色の料理を口に入れてもらったところを見られたらしい。 「火が通たモノなら大丈夫で、皮が苦手で、甘いものが好きなんだから、こうしたら食べられると思ったんだ」 「うん、おいしい」 「お前は、俺が作ったものを、俺の手から食べとけばいいんだよ」 きれいな男。 誰もが目を奪われてもおかしくないような。 なのに、たかがオレの好き嫌い一つに、こんなに心を砕いてやきもきしてるなんて、誰が想像するだろう。 「うん。これからはそうする。お前が大丈夫っていったら、ちゃんと食べる」 だから、さ。 「そろそろ、これ外して?」 ガタガタと椅子を揺らしたら、にやりと男が笑った。 「ちゃんと食べられて理解できたんだから、今度はご褒美が必要だろ?」 「え?」 「調教には、飴と鞭が必要だから」 えええええええええええ?! ざあって、血の気が引いた感じがした。 多分すごい顔をしたんだと思う。 男はとても楽しそうにゲラゲラと笑いながら、オレを抱きしめて、椅子ごと床に転がった。 「ああ、もう、ホントにお前大好きだ。かわいい。お前はホントに俺が好きなんだな」 いやそうですけど。 事実そうなんだけど。 わかったから、外して。 解放して。 オレが解放されたのは、結局、男が満足してからだった。 きれいな男。 残念な男。 バカだな、そうやって調教しなくたって、すっかりオレはお前に夢中なのに。 だって、お前の悲しい顔が嫌で、何べんも天敵に挑戦したんだからな。 <END>

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