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第3話

「ところで」 箸先を椀の中に入れ、くるんと味噌汁を掻き混ぜた凌が、言い終わると同時に手を止める。 「あれから二週間経ったけど。今の生活はどうや。ちゃんとさくらちゃんの望み通りになっとる?」 不意に向けられる、真剣な顔。真剣な眼差し。 それは、ハルオに囚われ脅えていた僕に手を差し伸べ、引っ張り出そうとしてくれた──あの海辺での出来事を彷彿とさせた。 束縛。強姦。そして、監禁。 玄関には既に外鍵が取り付けられていて。辛うじて脱出できそうな2階の小窓から飛び降り、両手を広げて待ち構えていた凌に受け止められた。 その日の午後──食事を摂り、ドライブをして気持ちが落ち着いてきた頃。凌が借りたという二階建てアパートに案内された。 都心に近い、凌の住むこの高層マンションの裏手に広がる住宅街。そこに埋もれるように建つ、6畳一間の古びた小さなアパート。凌が用意してくれたんだろうか。必要最低限の家電や家具は既に揃っていて、初めての一人暮らしをするには充分すぎる程だった。 「……はい」 それでも。ふっ、と恐怖に駆られてしまう時がある。 ハルオのアパートに居候してからずっと、苦しい思いをしてきたから。 「なら、良かったわ」 口の両端を持ち上げ、僕に微笑み掛ける凌。箸でもう一度味噌汁をひと混ぜし、目を伏せると、椀の縁を口に付ける。 「……」 もし、凌を頼っていなかったら。 電話番号を書いたメモ帳を、受け取っていなければ。 ハルオのアパートに、凌が尋ねて来なければ。 ……もし、凌と出会っていなければ…… 僕はずっと……、多分一生。 ハルオのアパートの中でしか生きられない、籠の鳥だったかもしれない。 凌のマンションを出ると、ぴんと張った冷たい空気に身体が縮む。 ハァ…と両手のひらに息を吐きつけ、擦り合わせた後、結んだマフラーを持ち上げ鼻先まで覆う。 「……」 ふと、見上げる夜空。 大通りに面した高層マンションの門や外壁を照らす、煌びやかな照明のせいか。そこにあるはずの星々が、見当たらない。 加えて新月なのだろう。 より一層深く、闇を感じる。 ……はぁ、 天に向かって溜め息をつけば、儚げな白い息が、闇夜に溶けるようにして消えていった。

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