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第3話

 ドジなのは昔からのことで、ビーシュもさすがに自覚はあったが、さすがに今日は調子が悪すぎた。 「あんなに、停留所に人がたくさんいるだなんて。今日は、なにかあったっけ?」  転んだ拍子にぶつけた膝をさすり、ビーシュはポケットから、ペリドットで作った義眼を取り出した。  仕事ではなく趣味で作ったものなので、傷がはいろうと欠けようと困らないが、がっかりはする。  よくよく見なければ気がつかないほどの小さな傷ではあったが、ビーシュはがっくりと肩を落としてため息を零した。研磨すれば綺麗になるとわかっていても、気持ちは沈む。  とてもよくできた作品だっただけに、残念としか言い様がない。 「無くすよりは、良いけれど」  作業台の上に置いてある年代物のケースを手元に引き寄せ、鍵を開け、ふたを持ち上げた。 「いや、そもそも持ち歩かなければ傷なんてつかないんだけどね」  ケースの中にはほかにも、宝石で作った義眼が並べられている。  宝石そのものの価値はさほどではないが、どれも加工の技術で美しく仕立てられていた。  ペリドットの義眼を所定の場所に戻し、しっかりと鍵をかける。  ビーシュが所有する私物のなかで、宝石義眼のケースは一番財産価値のあるものだった。  ほかに誰も工房にいないのを確認してから、人目のつきにくい奥へとしまいこんだ。 「彼、誰なんだろう。綺麗な青い目だったなぁ」  時刻は昼を過ぎた頃、宿屋で朝食を恵んでもらってから何も口にしていない。  気分が滅入っていて食欲はさほどなく、昼食を満足に買おうにも、手持ちは少ない。まとまった金はすべて、昨晩の相手に持って行かれた。次の給料日まで三日、それまではどうにか節制してくいつながなければ。  ビーシュは工房の奥にある簡易キッチンに移動して、水差しに入っていた水を薬罐にうつし、ランプで湯を沸かし始めた。  共用の珈琲で、わずかな空腹を紛らわせるだけで、今はじゅうぶんだ。 「彼の、あの瞳はサファイヤかなぁ」  棚から珈琲豆とミルを取り出し、湯が沸くのを待ちながらゆっくりと豆をひく。  乗合馬車の停留所で、人波に押されて転げた拍子に、ポケットにしまっていたペリドットの義眼が飛んでいった。  慌てて追いかけていたので、周囲にはまったく目がいっていなかった。彼が拾ってくれていなかったら、最悪、馬車につぶされていたかもしれない。 「ぼくは本当、とろいから。義眼じゃなくてもしかしたら、ぼくが牽かれていたかもしれないな」  笑い事ではないが、声が漏れる。  軍服を着ていたから、軍人であるのは確かだ。  綺麗な顔立ちをしていたし、側にいた馬車には家紋が描かれていた。どこかの、青年貴族だろう。   若々しい顔立ちをしていたが、子供っぽさはなかった。三十代はじめくらいだろうが。四十を超えた自分からすれば、二十代も三十代も若者であるが。  コポコポと沸騰する音を聞きつけ、慌ててやけどしないよう慎重にランプに蓋をかぶせ火を消し、準備しておいたカップに湯を注ぐ。  身の回りのものに無頓着であるビーシュだったが、珈琲は作品と同じように、こだわりを持てる嗜好品だった。金も惜しまない。  湯気とともに立ち上る香ばしい香りは素晴らしく魅力的で、落ち込んでいた気分もわずかに上昇した。 「おや、お戻りになられていたんですか?」  声に振り返ると、ビーシュの助手を務めているフィンが立っていた。 「良い香りだ。ビーシュさんの入れる珈琲は、本当においしい。すぐに、店が出せますよ」  くすんだ金髪を短く刈り込んだ、辛気くさい雰囲気の漂う工房には似つかわしくないさわやかな青年が、クンクンと鼻を動かした。子犬のようで、かわいらしい仕草だった。 「ありがとう。どんくさいけど、手先だけは昔から器用でね。もしかしたら、軍で装具技師をしているよりもずっとお金がもらえるかもね」 「ビーシュ先生のドジにもあきれないでいてくれる、こころの広い店員をつかまえられたら、ありですね」  よそ見をしていたら、少しばかりお湯を手にかけてしまった。  熱さにじりっと痛む親指を咥えると、フィンが 「あいかわらず、おっちょこちょいですね」と笑っていた。 「ひどいな、フィンくんは」  二回りも違う年下の青年には、笑われてばかりいる。  言った側から仕方ない人だ。と、あきれ顔をつくって救急箱に手を伸ばすフィンに「大丈夫」と手を振った。じりじりと痛むが、手当をするほどではない。 「珈琲、フィンくんの分も入れてあげようか?」 「せっかくですが、遠慮しておきます。これから、ミュレー先生の診療所での手伝いがありますので」  棚から取り出しかけたカップを、再び戻す。 「あぁ、そういえば。五日間の予定だったかな。ミュレー先生に、よろしく言っておいてね」 「五日も工房を離れるなんて、ビーシュ先生が怪我しないか心配になってきますね」 「ひどいな。フィンくんが来る前まで、一年くらいはずっとぼくひとりでここを回していたんだよ」  義手や義足を必要とするほどに負傷した軍人の殆どは、軍を退役して一般人に戻る。年金を受け取りつつ、軍病院や帝都の病院で予後の面倒を見てもらうのが普通だ。  日常に戻るまでの間、新しい手足になれる手伝いをし、患者の一生を支える手足の整備をし続けるのが、ビーシュの仕事だ。  フィンはなり手の少ない軍属の、装具義肢の期待の新人だった。  ビーシュの久しぶりの弟子であり年の離れた弟のような存在でもある。人柄も、見た目とは違い温厚で気の良い青年だ。患者からの評判も、上々だった。 (いつまで、ここにいてくれるかはわからないけれど)  負傷した兵士と同じく、ビーシュは自分の持ちうる技術を教え込んだ弟子たちを、多く世に送り出してきた。  フィンが手伝いに行くミュレーも、ビーシュの弟子の一人だ。帝都は今も拡張工事が続いており、軍人ほどではないが事故によって四肢を損傷するけが人もいる。  軍人と一般人。どちらにやりがいを感じるかは人それぞれだが、報酬の面で外の世界を選ぶ装具技師は少なくない。 「ミュレーも、いい人だし器用だからね。勉強になると思うよ」 「はい、しっかりと学んできます。ビーシュ先生も、ぼくがいない五日間は、どうかおとなしくしていてくださいね」 「フィンくん、ぼくはもう四十二歳だよ」  自分で言っておきながら、どうしてか自信がなくなってくる。  ついさっき、派手に転んだせいかもしれない。 「行ってらっしゃい」  珈琲をすすりながら、忘れ物を回収して工房を出て行くフィンを見送る。  一人になって、訪れる者の少ない工房はビーシュだけの空間になる。ほっとするようで、どこかもの悲しい。  つねに見送る側であるからだろうか。置いてゆかれるような気分になる。 「ぼくも……仕事しようかな」  一年の殆どを、ビーシュは軍病院の一角にある工房で過ごしていた。  自宅と呼べる場所はあるにはあるが、軍病院からは遠く、築年数も古くて風通しが良い。  夏はまだしも、冬になれば凍えるほどだった。  工房のほうがよっぽど、快適に暮らせる環境だった。フィンには内緒にしているが、奥にはベッドもある。  ビーシュはカップを両手にもって、転ばないようそろりそろりと作業台へと戻った。使い込んだ椅子の背をきしませて、引き出しから手帳を取り出す。 「ああ、そうか。今日は遠征から軍人さんたちが戻ってくる日だったんだね」  幸いにも、今回の遠征でビーシュが赴かねばならない重傷人はいないようだった。予定が入っていなかったので、記憶になかったのだろう。  ページをめくり、往診の予定や外来の予定を確認する。  ぽつぽつと、見知った名前が記入されていた。  うっかり忘れないようにと頭に叩き込みながら、ビーシュは工具を手にとった。 「しばらくはまた、引きこもりかな」  まとまった金ができるまで、夜遊びはできない。まさか、愛弟子のフィンに迫るわけにもゆかない。  もうすこし若い頃、たまらずに弟子に手を出したこともあるが、手痛い目に遭って以来、自重していた。  魅力的な容姿も性格も地位もない。そんな自分が一晩の快楽を得るためには、金しか対価にできるものがない。  いざとなれば、義眼を売れば良いが、それは本当に困ったときだ。 「ぼくも、たいがいわがままなんだよね。見た目によらず頑固だから損をするんだって、言ったのは誰だったかな」  執着するものがが少ないからこそ、これと決めたものはどうしても手放せないでいる。  珈琲は、装具技師としての技術をたたき込んでくれた祖父が愛していた飲み物だ。  宝石、宝飾類は幼い頃に男を作って出て行った母が愛していたものだ。  快楽は、母を追って歓楽街に消えた父がおぼれていたものかもしれない。  ビーシュは空腹の胃に珈琲を流し、暖められた吐息を白く曇らせた。  もう少し、自分らしく生きればいいのにと言う人もいる。ビーシュとしては、それなりに自分の好きなように生きていると思っているのだが、どうしてか強くは否定できない。  曖昧に笑って、いつも無難にやり過ごすばかりだった。 「軍の仕事はさほどはいっていないから、内職に時間を使えるかなぁ」  義足用の工具を作業台の端において、ビーシュは鍵のついた引き出しを開けた。  中には、宝石商から安価で譲りうけた原石が保管されている。すべて、趣味で作る宝石の義眼のために仕入れたものだ。  決して多くはない給料をやりくりしながら、目当ての石を探しているうちに知り合った宝石商から、原石の加工をする代わりに、安価で宝石を購入している。 「あのひとの目……そうだな、やっぱりサファイアがいい。それも、とびきり綺麗なものだ」  引き出しの中にもサファイアはあるが、もっと透明度が高く、輝くような青が良かった。  すこし頑張らなければ、手が届きそうにもないが、時間だけはたっぷりとある。

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