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第15話

 なじみの珈琲店は、エヴァンが宿泊している宿にほど近い大きな通りにある。  真昼に近い時間帯とあって、人通りは多い。  人混みになれていないビーシュは、早朝か夜遅くにしか街に繰り出さないが、珈琲を買うときだけは別で、賑やかな通りおっかなびっくりに歩く。  引き出しから取り出した宝石を換金して、久々に重くなった財布を抱え、年期を感じさせる店構えの珈琲店に入る。 「いらっしゃい、久しぶりだね先生」 「こんにちは、レクトさん。足の調子は……良さそうだね、よかった」  珈琲店の店長をしているレクトは、左足を戦争で亡くした退役軍人だった。ビーシュよりも少し若く、レオンハルトよりは上。男盛りのレクトは、隣に立つ夫人に目配せをして、カウンターから出てきた。  現在、レクトの足を支えている左の義足はビーシュが作ったものではない。が、しゃきっとした背筋と表情は、医者としてはとても喜ばしい姿だ。 「今日は豆を買いに来たのかな? 珈琲を味わいにくるなら、もっと遅い時間だものね」 「ええ、今日は豆を買いに。今朝、切らしてしまって」  レクトは父から継いだ珈琲店の半分でカフェを運営し、残りの半分で自慢の豆を売っている。  時間の経過を鮮やかに残すソファーが並ぶ、穏やかな雰囲気の店内に漂う珈琲の匂いに、ビーシュはとろりと目尻をさらに緩めた。 「豆を買い忘れるほど忙しかったのかな?」 「ええ、まあ……珍しく、忙しかったのかな」  仕事で忙しいわけではないところが、どうしてか後ろめたく思える。  レクトはビーシュの遊びを知らない。少し臆病だが、珈琲好きの気の良い医師といった認識しかないだろう。  騙しているような気分になって、いビーシュはそそくさと、様々な種類の豆が並ぶ棚に移動する。  レクトもついてこようとしたが、いつでも盛況なカフェは夫人一人で切り盛りするのは大変だ。  ビーシュは、困ったら呼ぶからと断って、いつも選ぶ、手頃な豆の棚よりも少し奥で立ち止まった。  少しなら、奮発してみても良いかもしれない。  輸入品である珈琲豆は、どれもこれも少し高かったり、だいぶ高かったりする。  つまりは、上層階級の嗜好品だ。  軍医でなければ、宝石研磨の腕がなければ、口にする機会もなかったかもしれない。 「なにか、良いことでもあったのか?」  ふわりと珈琲の苦みに混じる、甘い匂い。白昼堂々、目立つ軍服姿の男が片手に高級豆を持ったままビーシュの隣に立った。 「エフレムくん、お久しぶりだね」 「なんだか、同窓会みたいだな。懐かしい顔ぶれが、そろいもそろって」  青灰色の目を細め、サイフォンで珈琲を抽出しているレクトを見やる男は、エフレム・エヴァンジェンス大佐。  レクトの元上官で、レクトを診断した際に知り合った、数少ない同年代の友人だった。  互いに珈琲を愛してやまない性癖であり、偶然、レクトの珈琲店で再会してから、会う約束をするような仲になった。 「ちょうどいいや、エフレムくんのおすすめの豆はどれ?」  珈琲は好きだが、知識のほうはからっきしのビーシュを馬鹿にすることなく、エフレムはぎょっとする値段がつけられた豆を手に取った。 「一番は、やっぱりこれだが……予算がたりないか」  さすがは、貴族。  値段は、とくに見ていないようだ。  普段よりも手持ちはあるが、さすがに高級な豆に手を出すのは躊躇する。 「できれば、こっちの棚の中で」 「なら、これだな」高級豆を棚に戻し、エフレムは右手に持っていた豆をビーシュに差し出した。 「どうした? 恋人でもできたか?」  無精髭のように見えるわずかな顎髭をさすり、エフレムは興味津々といった態度を隠そうともせず、ビーシュに詰めよった。 「まさか、できるわけないでしょ。ぼくはもう……四十二だよ? いまさら……」 「まだ、四十二だ。人を好きだと思う感情に、年齢は関係ない」  おすすめの豆を受け取ると、ずっしりとした重みが両手に掛かった。 「美味い珈琲を一緒に飲みたいと思える相手ができたってのは、なんにせよ良い出来事だと思うがね。恋人であろうと、友人であろうと」  どうせなら、恋人のほうが面白いが。ほくそえむエフレムに、ビーシュはむっと眉をひそめる。  人ごとだと思って、ずいぶんと言いたい放題の口だ。 「茶化さないで」 「からかっちゃいないさ。潮時なんじゃないかって、思っただけだよ。どんなに背を向けていても、変わり目ってやつはくるもんだ」  黙って立っていれば、誰もエフレムが男娼のまねごとをしていたとは思わないだろう。 「どうして、わかるんだい? ぼくが、がらにもなく浮かれているって」  エフレムに指摘されるまで気づけなかったが、たしかに浮かれ足だった。  久しぶりに、心が軽いのはたしか。  曇天ばかりの人生で、わずかに差し込む日の光に、冷え切った心は焼けるほどの熱を帯びていた。 「楽しそうにしているんだ、勘ぐらないわけがない」  言われるほど、普段の自分は楽しくなさそうだったのか。 「年齢を気にするなら、夜遊びはほどほどにしておいたほうがいい。金で繋がる関係は楽で手っ取り早いのかもしれないが……むなしさを感じているなら、やめるべきだよ」 「……うん」  わかっているとはっきり言えなかったのは、わかっていても、ずるずるとやめられないでいるからだろう。  ここ数日はエヴァンと過ごし、昨晩はレオンハルトと過ごした。財布事情もあるが、もうずっと、男を買うためにバーには行っていない。 「たしかに、今はとても幸せだ。でも、いつまでも続くとは思えなくて」  どんな物事にも、永遠なんてありえない。  わかっているからこそ、大事なものを得るのに躊躇する。  失うつらさを思うと、どうしても逃げ腰になる。エフレムのようにやり過ごす器用さがない以上、ビーシュには逃げるしか道がないように思えた。 「ありもしない奇跡を、望んでみてもいいんじゃないか。まあ、俺が言うんじゃ説得力なんてみじんもないかもしれないが」  エフレムはビーシュに渡した豆を取り上げて、会計台へと持って行った。  あわてて後を追うが、エフレムは二袋分の金額をレクトに渡していた。 「まあ、ゆっくり答えをだせばいいさ。生きている限り、時間はあるんだ。嫌になるくらい、たっぷりと」 「餞別だ」エフレムは自分用の豆だけを持って、珈琲店を出て行った。  一人、取り残されたビーシュはありがたく贈り物をいただき、レクトに向き直る。 「どうしたんです? なにか、聞きたいことでも?」 「レクトさん、貴方はいま、幸せですか?」  少しばかり驚いた顔をみせたレクトは、あくせく動き回る夫人を見やって「ええ」とうなずいて見せた。 「その幸せがいつかなくなるとして……幸せでいられますか? ふとしたとき、悲しくなったりはしないですか?」  言っておいて、ビーシュはとても失礼な質問だったと唇を噛んだ。懇意にしてもらっているとはいえ、調子に乗ってはいけない。  仲むつまじい夫婦であっても、離別や死別の可能性はないとは言えない。けれど、だからといって、していい質問ではなかった。  レクトは驚いただけで、とくに気分を害したような様子はなく、逆にビーシュを気遣うよう穏やかに微笑んだ。 「先生。ほんとうに、心の底から愛おしいと思う相手に出会ったら、先のことなんか一切考えられなくなるもんです。心配するだけ、無駄ですよ」  働く夫人の姿を見つめるレクトの視線は、とても優しい。見ているだけで、ビーシュも穏やかな気持ちになれる。  足を失った頃に見せた、絶望的な表情は穏やかな思慕に取り変わっている。喜ばしい変化だ。 「先生は、悲しい出会いばかりされていたんでしょうね。本物か、嘘かがわからなくなるほど、たくさん泣いていたんでしょう」 「そうなのかな? 自分じゃ、よくわからないけれど」  自分よりもずっとずっと、不幸な身の上の子たちはいて、夜の街で体と心を傷つけながらさまよっているのを知っている。 (幸い、ぼくは片足ぐらいは抜け出られたけど)  満足はしていないが、人から言われるほど自分を不幸だと思えなかった。思いたくないだけなのかもしれないが。 「おびえる余裕もないほどに、素敵な出会いができるといいですね」 「……うん、そうだね」  どうしても、深く考えすぎてしまうのだ。  経験が、悲しい未来を予測して目の前に突きつけてくる。  すべてが同じように行くわけがないとわかっていても、ちらついて、無視ができない。 「奇跡を、信じられるぐらい強くあれたらいいのだけどね」  珈琲豆を紙袋に包んでもらい、ビーシュは店を出た。  そろそろ、レオンハルトと約束した時刻になる。

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