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第17話

 少し遅めのランチを終えたあと、レオンハルトは用事があると貴族の邸宅が建ち並ぶ区画の方へと歩いて行ってしまった。  実家に戻るのかもしれない。 「会う約束、するの忘れちゃった」  珈琲豆の入った袋を抱えるようにして、ビーシュは軍病院へと向かう乗合馬車の停留所へ、とぼとぼと歩いて行く。  きっと、また会える。  会いに来てくれるはずだ。一緒に珈琲を飲みたいと言ってくれた。  せっかく買った豆が無くなる前に、来てくれると良いのだけれど。前を見る余裕も無く、ぐるぐると回る思考に振り回される。悪い癖だ。 「夜まで一緒にいられるなんて、勝手に思っていたぼくがおかしいんだし。がっかりしなくたってまた会えるよ……たぶん。さよならは言っていないしね」  珍しく気落ちしている胸中を、ビーシュは蹴飛ばすように笑った。いつもなら、しかたないと流してしまうのに、今回はやけに諦めが悪い。 「女々しいね、とても」  レオンハルトと交わした約束は、ランチまでだ。  ランチの後の予定までは、決めていなかった。  引き留めていれば、もしかしたら今も一緒に歩いていたかもしれないが、レオンハルトの背中をビーシュは追いかけられなかった。  怖かったのかもしれない。  遊びでない付き合いかたをしばらくしてこなかったから、レオンハルトの強すぎる視線を前にすると体がすくむのだ。  ビーシュの本能的なおびえに、レオンハルトは気付いているのか、いないのか。  野生の獣を手なずけるような優しくも、強引な物腰は身を任せるにはとても心地よい。  いっそ、このまま流されてしまえば楽なのかもしれないが、ビーシュは傷つく痛さを知っている。  夢のような日々が夢であるうちは諦めもつく。悪い夢を見たのだと笑い飛ばすこともできるだろう。現実のものとなると、難しい。  ビーシュなりの処世術は、数十年の月日を重ね、柔らかくも分厚い殻を心の内に作り出していた。  一か八か、勝負にでれない。  失敗が、死ぬよりも恐ろしい。  立ち止まって、ビーシュは頬をぱちんと叩いた。  見知らぬ通行人が驚いて振り返るのに、なんでもないと愛想笑いを返してふたたび歩き出す。  光に満ちた世界がとても眩しくて、眩しすぎて体のあちこちが痛い。 「どうして、ぼくは普通に生きられないんだろうね」  涙はとうに、枯れていて。  怒りはすぐさま、諦めに切り替わる。  日々の早さは、いつの間にか鈍く滞っていた。  いつも、置いてゆかれる。  重い足を引き摺って、ビーシュはゆっくりと歩き続けた。抱えた珈琲豆が、大岩のように感じる。 「ぼくなんて、そばにいても迷惑でしかないのに」  気まぐれで抱くならば、早くそう言って欲しい。  期待しないで良いぶん、楽になれる。  ビーシュは、乗合馬車の停留所が視界に入ったところで足を止めた。  もういないレオンハルトを探すよう振り返り、背の高い青年と視線が絡み合った。見覚えがあるような気がする。 「――おい」  腹の底からひねり出した苛ついた声音に、ビーシュはたじろいで周囲をきょろきょろ見回した。 「おまえだ、そこの眼鏡のおっさん」 「ぼくが、何か?」  とろとろ歩いていたのが、気にくわなかったのだろうか。だとしても、呼びつけられるいわれはないのだが。  青年は少し間を置いてから、ずんずんと勢いよくビーシュに向かって歩み寄り、胸ぐらをつかんだ。 「おまえ、レオンさんの何なんだ?」  レオンハルトの知り合いだろうか。「喧嘩か?」と騒ぎ出す周囲を一瞥して、青年は「ニルフ・アーカムだ」とビーシュに名乗ってみせた。  乱暴ではあるが、危害を加えるようにはおもえない。むろん、こちらがなにもしないのを前提に考えて、ではあるが。 「ぼくは、ビーシュ・スフォン……」 「名前なんざ、どうだって良い。答えろ。レオンハルトさんの何なんだ?」 「友人、かな?」  無難な落としどころと思ったビーシュだったが、ニルフと名乗った青年は納得が行かないようだ。  眉間の皺を深くし、眦をつり上げてビーシュに掴みかかってくる。 「友人が、キスをするのか? 頬ではなく、口に? それも、舌を絡めて?」  ニルフは、テラス席での睦言を見ていたのか。  ビーシュは恥ずかしさに頬を火照らせる。 「まあ、いい。いくらだ? いくら払えば、レオンさんから手を引く?」  憲兵を呼びかねない周囲の雰囲気に、ニルフはビーシュから手を離し、「何でもない!」と声を荒げて野次馬の視線を蹴散らした。 「いくらって、ぼくは男娼じゃ……」 「レオンさんも、レオンさんだ。婚約者をほうっておいて男遊びをしているなんて、しかも、こんな年かさの男を相手にしているなんて。だから、趣味が悪いと噂を立てられるんだ」  懐から取り出した財布を広げ、紙幣を三枚引っ張り出したニルフが、殴るようにどん、っとビーシュの胸に突きつけた。  受け取ろうとせず、呆然と立ちすくむビーシュに、ニルフは「口止め料も必要か?」とあからさまな侮蔑を感じる舌打ちをした。 「婚約者、って? レオンくん、結婚が決まっているんですか?」 「卑しい口で、軽々しくあの人の名前を呼ばないで欲しいね」  財布からさらに紙幣を一枚引っ張りだし、かなりの高額を、ニルフはビーシュのシャツの胸ポケットにねじ込んだ。 「いいな、レオンさんは俺の姉と婚約している。手切れ金に味をしめて、また周りをうろついてみろ? 今度は、ただじゃおかないからな」  返事はできなかったが、ニルフは呆然と立ち尽くしたままのビーシュに満足したようで、財布をしまって背を向けた。  背後で、馬のいななきが聞こえてきた。乗る予定の馬車かもしれないが、ビーシュは一歩も動けなかった。 「遊び、だったのかなぁ」  浮かれていたぶん、突き落とされた落差は激しい。  どうして、レオンハルトは婚約者が自分を抱いたのだろう。遠征から帰ってきたばかりで、いろいろと溜まっていたのだろうか。  ニルフの言葉が、ぐるぐると頭の中を回っている。  婚約者。  きっと、美しく若い女性だ。むさ苦しい男よりもずっと、よく似合いそうだ。 「……勘違いにも、ほどがある。ぼくにかまってくれるわけ、ないんだよね」  レオンハルトは、若く有能な軍人で、貴族でもある。  決まった相手がいないわけがない。 「ばかだよねぇ……ぼく」  ぎゅっと紙袋を抱きしめて、ビーシュは停留所ではなく、来た道を戻るよう歩き出した。  工房には、まだ処分していないレオンハルトの匂いが染みついたシーツがある。  情事を思い出す場所に、今すぐには戻れなかった。 「ぼくなんて、まともに相手されるわけがない。どうして、勘違いしちゃったんだろう。何度も、何度も……ほんとうに、懲りないね」  ため息に、苦笑いが混じる。 「どこで、時間をつぶそうかな?」  夜の街に繰り出すには、まだ、時刻は早い。  工房には戻りたくなかったので、スラム近くの自宅まで歩いて戻ることにした。  もう、ずっと帰っていないから、掃除なり換気なりはしたほうがいいかもしれない。  ちょうどいい。  ビーシュは顔を上げて、歩き出した。  大丈夫。  いつものことだ。  レオンハルトのことだって、すぐに忘れてしまうだろう。  ポケットの中には、小さなサファイアがある。研磨したてのきらきらと輝く宝石は、いくらで売れるだろうか。

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