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第21話
静かすぎてゆっくりと時間が流れてゆく工房に、一定のリズムを刻む音が響いている。
引き留めるエヴァンを振り切るようにして高級宿から出て、ようやっとの体で戻ってきた工房を片付けていたら、時刻は昼を回っていた。
空腹を感じなかったし、もとより食欲はなく。ビーシュは作業台に向かって、サファイアを一心不乱に磨いていた。
傍らには、丸く磨き上げた、雪のように真っ白なミルキークォーツが転がっている。
母性愛の象徴と言われる白い水晶にはくぼみがあり、もうすぐ磨き上がるサファイアをはめ込めば、宝石義眼のできあがりだ。
ポケットに入れてずっと連れ歩いていたサファイアは、研磨してゆくにつれ輝きを増してゆく。
光を閉じ込める、美しい青。
矢車菊の青色と称される最上級のサファイアではなくとも、魅力的な青だ。
ビーシュは手を止めて、ふうっと、息を吐いた。 あまりにも美しくて、名残惜しくなってくる。
いつまでも見つめていたい気持ちを無視して、ビーシュは台からサファイアを外し、特殊な接着剤を使って、台座となるミルキークォーツにサファイアをはめ込む。
実際の眼球より少し大きい宝石義眼は、ビーシュの手のひらの上でひんやりとなじんだ。
美しいサファイアの義眼。
レオンハルトとの、短い思い出の名残。結局は捨てられずに、ずっと持ち歩いていた。
忘れることができないのなら、せめて美しいままで。ビーシュはころころと手のひらの上で義眼を転がし、光の入り具合で色味を変化させる宝石義眼を眺める。
レオンハルトの青よりは少し薄く、透明な色。人とは違って無垢な視線は、見つめるほうの気持ち次第で意味を変化させる。
関係を持った男たちは、いつもビーシュを通して別の誰かを、何かを見ていた。
ぼんやりとしていて鈍くても、それくらいは理解できる。
体の深いところをいくら貫かれようとどこか満たされないでいるのは、見つめてくる目の中にいられないでいるからだろう。
(あぁ、でも……レオくんはどうなんだろう)
美しいあのサファイアの中にある人は、誰なのだろう。
ニルフの言っていた婚約者だろうか? わからない。思い出そうとすれば、自分の顔に見つめられているような気分にもなる。
手のひらにのせていた宝石義眼を摘まみ、ビーシュはそっと唇で触れる。
つるりとなめらかな表面は肌に心地よく、人肌よりも少し冷たい感触は心地良い。
「……んっ」
ビーシュは大きく息を吸って、そろりと舌を伸ばして宝石義眼をおそるおそる舐める。
「はぁ、う……んっ、んっ」
飴をなめるように舌を絡め、手に唾液がしたたる頃には、唇をもつかって宝石義眼をむさぼっていた。
ちらっと、手元を見やればとろとろに濡れたサファイアが妖しい光をたたえ、ビーシュを見つめ返している。
ちゅく、ちゅるっと誰もいない静かな工房に水音が響く。
寂しさが埋まらない。
何をしても、むなしさが積もってゆく。
諦めて、諦める振りをし続けて、気付けば四十を超えていた。もうそろそろ、お金を積んでも誰にも相手にされなくなるかもしれない。
共においでと手ぐすねを引いてくるエヴァンに従えば、不安もいくらか解消されるだろうか。
偽物のまま、満足できてしまう日が来るだろうか。
「ん、んっ」
口を開け、宝石義眼を頬張る。
じりじりと体の芯が焼けるようなしびれにいつしか手は下肢へ伸びていて、服をくつろげるのも忘れて快感を追っていた。
指先を濡らす唾液と、内からあふれる快楽の兆しが服に染みを広げてゆく。
快楽は好きだ。
終わった後には後悔と虚無感に頭を抱えるが、している間は何もかも忘れていられる。
彼に、夢中になれる。
口の中でサファイアの義眼を転がし、かるく嘔吐きながら、ビーシュは背中を大きく振るわせた。
「ん、んうっ!」
片手で口を塞いで、びくびくと腰を揺らす。
射精の脱力感に、視界の端がゆがんだ。ビーシュは口を塞いだ掌に宝石義眼を吐き出し、口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。
椅子の上で大きく開いた足の間が、ぐっしょりと湿っている。
「何をしていたの、ビーシュ」
「――えっ」
こつ、こつ。
床板に響く靴音に、ビーシュは体をこわばらせる。
「れお、くん?」
「教えて、何をしていたの?」
穏やかな、それでいて否定を許さない強いレオンハルトの声音に、ビーシュは目を泳がせる。
どう、答えれば良いのだろう。
背後で立ち止まるレオンハルトを、ビーシュは振り返られないでいた。
何をしていたかなんて、答えられるはずもない。
「いつから、いたの?」
怖々と訊ねるビーシュに、レオンハルトは答えない。
ビーシュは背を向けたまま、唾液に濡れた宝石義眼をぎゅっと握りしめた。
……見られていたのだろうか。
義眼で達した痴態を、レオンハルトは見ていたのだろうか。
情けなさと恥ずかしさ、そして少しばかりの興奮に胸が締め付けられる。
レオンハルトは何も言わない。
ただ、痛いほどの強い視線を背中に感じる。
「かっ、帰って。だめだよ、れおくん」
濡れた体を縮ませて、ビーシュは首を振った。ニルフの言葉を何度も何度も思い出す。
レオンハルトには、将来を約束している女性がいる。
邪魔をしてはいけない。ビーシュは義眼を握りしめた手に手を重ね、爪が食い込むほどに強く力を込めた。
「どうして? ビーシュは、僕と一緒にいたくないの?」
レオンハルトは、ビーシュの葛藤など素知らぬふりで、問い返してきた。
ビーシュは唇を噛んでうつむき、頭を振るしか無かった。
行かないで欲しい。
けれど、一緒にいないほうが良いに決まっている。
立ち去らない。
近づいても来ない。
体をこわばらせるばかりのビーシュが振り返るのを、レオンハルトはただじっと、待っているようだった。
「結婚、するんでしょ?」
ようやっと吐き出した声は、情けなくなるほど震えていた。
「ぼくなんか、構ってちゃいけないよ」
冷えたからだが悲しくて、ビーシュはさらに己の体を抱え込んだ。
「悲しくなることを、言わないでビーシュ」
かつん。
一歩、靴音が響く。
甘い蜜の匂いがして、ビーシュは嫌々と首を振った。
「誰から聞いたのかな?」
「ニルフくんが、昨日……れおくんと一緒にいるところを見ていたんだ。近づくなって、迷惑だって。彼の言うとおりだよ。ぼくと一緒にいちゃいけない」
こつん。
つま先が、椅子の脚を小突く。
逃げようにも逃げる場所はなく、後ろから覆い被さってくるレオンハルトに、ビーシュは頭を振り続ける。
「ごめんね、ビーシュ。ニルフにも、悪いことをしたようだ」
肩を撫でる手が温かくて、すがりそうになる。
振り払わなければならないと思っていても、体はぬくもりをひたすら求め、動けないでいる。
「ビーシュと一緒にいるのがとても楽しくて、いろいろと忘れていたんだ。……エリスにたっぷりと怒られてきたよ」
レオンハルトは「僕の婚約者だったひとだよ」と苦笑を滲ませた。
「結婚はしないよ。解消されてしまったからね」
「どうして、しないの? した、ほうがいいよ。ぼくと一緒にいちゃいけないよ」
肩を撫でる手が、体の線をたどるよう降りてくる。
すっぽりと背後から抱きかかえられ、ビーシュは耳元をくすぐる吐息に身じろいだ。冷えていた体に、再び熱がともり始める。
「ビーシュと一緒にいたいから、しないよ」
首を振ろうとして、顎をしっかりと掴まれる。
「駄目と言わないで、ビーシュ。どうしたら良いか、わからなくなってしまうから」
ちゅく、と触れるだけの口づけ。
驚いてレオンハルトを見返せば、美しいサファイアに心が一瞬で囚われる。
「もう一度、僕に見せて。何をしていたの?」
じいっと見つめてくる視線には、ビーシュしか映っていない。
ほかの、誰とも違う。
ずっと、ビーシュが望んでいた視線が目の前にあって……抗うにはもう、遅かった。
ビーシュは迷うよう視線をふらふらさせながら、握りしめていた手を開いてみせた。
「サファイアの義眼、僕の目かな?」
「うん。れおくんの、目だよ」
ビーシュは義眼とレオンハルトを交互に見やり、おずおずと、義眼につきだした舌を伸ばしていった。
ずっと握りしめていたせいか、先ほどよりも暖かい義眼に舌を絡め、唇で吸い付く。
甘い果実をむさぼるように、ビーシュは義眼を味わう。
「すごいね、ビーシュ」
興奮にうわずるレオンハルトの声に、ビーシュは喉を鳴らしてあふれる唾液を飲み込んだ。
レオンハルトの目をもした義眼を、本物の視線の中で愛撫する。
なんて、倒錯的なのだろう。頭がおかしくなりそうだ。
耳元をくすぐるレオンハルトの吐息にだんだんと熱がこもってゆくのを感じ、腰がきゅんと切なく軋む。
「おいしい? 僕の目は?」
「う……うん、おいしい、よ」
口の端からたらたらと唾液があふれ、手を伝って零れ、膝を濡らしてゆく。
レオンハルトに足の間を覗き込まれ、恥ずかしさと期待が入り交じり、ビーシュは舌で愛撫していた義眼を口に入れた。
「ふ、んっ……はふっ、ふっ、んっ」
頷く。
なんども、なんども頷いて、もどかしさにビーシュは膝頭をこすり合わせた。
「いいよ、してあげる」
「……ふ、あ?」
あっという間にベルトが引き抜かれ、潜り込んできた手が下肢に伸びてゆく。
止めるまもなく絡みつく指に、ビーシュは義眼を吐き出していた。
「おっと、あぶない。壊れてしまうよ」
「あっ……」
唾液でしどしどに濡れた義眼を受け止めたレオンハルトは、ビーシュのペニスを扱くように義眼をも指で愛撫しはじめた。
目が離せない。
動くたびに唾液を絡ませる指、サファイアの青に誘惑され、頭がくらくらしてなにも考えられなくなる。
「だめ」ビーシュは震えながら、うわごとのようにつぶやく。
「どうして?」
背後から覗き込んでくるレオンハルトに、ビーシュは目を細めて首を振る。
「こわいから、だめ」
義眼をいじるレオンハルトの手に手を絡め、ビーシュは目を閉じる。
再び目を開ければ、全部夢になってしまいそうで。
体に重なる体温が消えれば、凍えて死んでしまいそうで。
「なにも、怖くなるようなことなんてないよ」
下肢をいじる手を止め、レオンハルトは義眼と一緒に強くビーシュの手を握りしめてそっと、抱きしめてくる。
「僕は、ビーシュに夢中だ。誰かを苦しいほどに愛おしいと思ったのは、初めてで、正直戸惑っているよ」
目を開けて。
ささやく声に、ビーシュはゆっくりとまぶたを持ち上げる。
生活の一部となった、質素で殺風景な工房。終の棲家にするには、少し寂しい場所。
レオンハルトに後ろから抱きかかえられたまま、快感に疼く体をそのままに、ビーシュは繋いだ手を胸に押しつける。
「どうして、ぼくなの?」
息を荒くさせながら、ビーシュはレオンハルトを振り仰ぐ。
「ぼくは、本当につまらない人間だよ。いろんな人と寝てきた、汚らしい男だよ? おまけに、若くない。れおくんは、もったいなさ過ぎる」
「好きになる理由がないと、ビーシュは不安かい?」
見下ろしてくるサファイアの瞳の色が、濃くなる。
相変わらず穏やかな笑みをたたえているレオンハルトだったが、目元は興奮に赤く染まり、吐く息は獣のように荒く浅くなっていた。
目の前にいるのは、雄だった。
ビーシュはぞくぞくと背中を振るわせながら、どうすべきか必死になって頭の中を探った。
ほんの少しのきっかけで、すべての関係が変わる。危うくて魅力的な予感がした。
「ごめんね。言葉にできそうな理由が見つからない。ただ、君が欲しくてたまらない。ビーシュ、君が欲しい」
「で、でもっ」
ビーシュは渾身の力でレオンハルトを突き飛ばし、椅子を蹴飛ばし工房の奥へと逃げた。
レオンハルトと繋いだ左手が、溶けてしまいそうなほどに熱い。脱げかけたズボンを引きずるようにして、ビーシュは片付けたばかりのベッドの前でへたり込み小さく体を丸めた。
来ないで。
左手を抱え込んで震えるビーシュは、ゆっくりと、逃げ道を塞ぐように歩いてきたレオンハルトを見上げた。
「ビーシュ、逃げないで」
レオンハルトの顔が、ゆがんで見えない。眼鏡はちゃんとしているはずなのに。
目をこすれば、指先がしっとりと濡れる。
「泣いても良いから、僕から逃げないで」
「ぼく、泣いているの?」
濡れた両手を呆然と見下ろし、ビーシュは眉根を寄せてレオンハルトを見上げた。
「うん、泣いているよ」
ビーシュの前で膝をついたレオンハルトが両手を広げる。
「おいで」と動く口に、ビーシュは嗚咽を零しながら腕の中に飛び込んでいた。
「れおくんは、ぼくでもいいの?」
すがりつけば、同じ力で抱きしめてくれる。ぴったりと寄り添う安堵感に、涙があふれてくる。
涸れてなどいなかった涙腺が、感情を押し上げあふれ出てゆく。
「ビーシュが良いんだ」
照れるそぶりもなく断言するレオンハルトに、ビーシュは涙を止めようと唇を噛みしめた。
「泣いていいんだよ、ビーシュ。我慢なんて、しなくていいんだから」
あやすよう頭を撫でる手に、ビーシュは顔を上げた。涙とよだれでぐしょぐしょで、きっとひどい顔をしているだろうに、レオンハルトは目をそらさずに見てくれる。
「う、うれし……くて」
「嬉しくて泣いているの?」
驚いてみせるレオンハルトに、ビーシュは頷いた。何度も何度も、涙をこぼしながら。
「かわいいね、ビーシュ」
「んっ、ふあっ」
歯の跡がついた唇を唇でこじ開けられ、舌が差し込まれる。
反射的に逃げようとする体を抱き留められ、興奮する下肢をこすりつけるよう密着しあう。
いつの間にか、ビーシュだけでなくレオンの雄も堅く頭をもたげていた。
「あっ、ふ……んっ」
涼しげな顔とは全く対照的な反応を見せるレオンハルトの体から甘い匂いを感じて、ビーシュは息を荒くさせながら首元に顔を埋めた。
このまま、溶けてしまいたい。
すがりつき、欲の塊を擦りつけながら悦に浸る。
「ビーシュ、いいかい?」
じいっと見つめてくるサファイアの瞳が、心地よくて酔いそうだ。
腰が抜けそうな体を支えていた手が、下肢をまさぐり、その奥へと伸びてくる。
綺麗に手入れがされた爪が柔らかい入り口をぱくっと開き、浅い場所で行ったり来たりを繰り返し、消えかけていた火をともしてゆく。
「ビーシュと、したい」
「ん、んぅ」
レオンハルトの首筋を甘噛みしながら、ビーシュは愛撫の心地よさにゆるく腰を振った。
男たちは自分の欲を満たすため、ビーシュの返答など待たず性急に組み拉かれた。
あのエヴァンですら、愛撫は自分が気持ちよくなるための前座であった。
レオンハルトのように、快感を追うビーシュを待ってくれた男はいない。
ビーシュはゆるい愛撫に浸りながら、大きく息をついた。
「して、いい……よ」
引き抜かれた指に、背中が反る。
いきかけたビーシュを引き戻すよう、唇を奪い。舌を吸いながらレオンハルトはビーシュを床に縫い付ける。
「ごめんね、ベッドまで行く余裕もなくて」
たいした愛撫もしていないのに、服を脱いだレオンハルトの雄は堅く張り詰め、濃い先走りを零していた。
見ているだけで、体の奥が苦しくなる。
ビーシュのほうも、早く欲しいとはしたなく疼く体をたしなめる余裕もない。
ごくりと生唾を飲み込んで、自ら足を開く。
絡み合う視線はほぐれず、絡まったまま、離れない。
ビーシュは入り口を先端でこすりあげられながら、ふたたび涙をこぼした。
(ぼくはまだ、奇跡を信じられるのかもしれない)
奥を目指して潜り込んでくる雄を内壁で締め付けながら、ビーシュはレオンハルトへ両手を伸ばした。
余裕のないゆがんだ顔から汗がしたたり墜ちて、ビーシュの流した涙に溶けてゆく。
「あっ、れおく……おっきぃ」
「苦しい?」
いたわるような声、とはいえ挿入には容赦のかけらもない。
ビーシュは首を振って「大丈夫」と口元を緩めてレオンハルトの頬を両手で挟んだ。
性欲に燃えるサファイア・ブルーにアメジストの紫が混じって滲んでゆく。
「んんっ、ふ、深いっ」
奥を穿たれ、そそり立った先端からも涙がどっと零れた。
射精感に、意識が飛びかける。
「……気持ちいいの? すごく締め付けてくる。動くよ、ビーシュ。もう、我慢できないや」
「うん。きて、れおくん」
濃さを増す青に満たされ、涙があふれて止まらない。
「いっぱい、ちょうだい」
レオンハルトを引き寄せ、子供のようなキスを交わし、二人は明るい日差しの中で求め合った。
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