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第26話

 温かい食事の匂いに、ビーシュは瞼を持ち上げた。  悪い夢を見ていたのだろうかとぼんやり考えて、鈍い体の痛みに眉をひそめる。  いつの間に、眠っていたのだろう。エヴァンに組み拉かれ、体を思う存分むさぼり尽くされた。  全身が痛いように感じるのは、あちこち噛みつかれたからかもしれない。肌には赤い跡が転々と散らばっていた。 「朝、かな?」 「昼前ってところですかね」  分厚いカーテン越しに届いてくる光は、眩しいほど明るい。 「先生、起き上がれますかい?」  顔だけを声のする方へ向けると、レスティが立っていた。 「……うん、なんとか」  よろめきながら上体を起こすと、レスティがひゅうっと口笛を吹いた。 「さすが、先生。絶倫のロナード様を、満足させることができるだけのことはありますね。途中からサティが部屋を出て行くくらいに激しかったのに、動けるなんて」  すごい、すごいと手放しで持ち上げてくるレスティだが、内容が内容だけに、いまいち嬉しくはない。  扉一枚隔てた向こうで、ずっと聞き耳を立てていたのだろうか。  今までと違った暴力的な性交は、途中から記憶が定かでなくなっていて、どんな痴態を晒したかビーシュにはわからない。 (れおくんとのを見られたほうが、恥ずかしい……かな)  指先で眼鏡を探していると、レスティが差し出してくれた。よかった、ゆがんでいない。 「あの、帰ってもいいですか?」 「なに言っているんです、先生。駄目にきまっているじゃあないですか。さあ、食事を取って下に降りましょう。ロナード様が、あちらでお待ちですよ」  駄目で元々、わかっていて聞いたのだが、はっきりと言葉にされると不安が募る。  このまま、帝都からも連れ出されてしまったらどうしようか。  レスティが背中を向けた隙に、突き飛ばして逃げられないかと考えるも、体の疲労は重く、歩くだけで精一杯だ。  エヴァンの拘束をはね除けるどころか、身じろぐことすらかなわなかった非力さは、情けない。  軽口を叩くレスティだが、体つきは軍人を連想させる。力尽くで逃げるのは、どうにも現実的ではないように思えた。 「あの、食事よりも先に服がほしいです。体も、その……拭きたいですし」  贋作が転がっていたはずの床は、脱がされた衣服と一緒に綺麗に無くなっていた。 「あぁ、たしかに。男の匂いをぷんぷんさせて出歩くわけにもいきませんよね。申し訳ありません、サティと違って全く気が利かなくて」 「もういいわ。あなたは仕事に戻りなさい」  すぱん、と音がしてレスティがつんのめった。足音もなく歩み寄ってきたサティに、平手で殴られたようだ。 「スフォンフィール先生、こちらへ」  体をつかってレスティを押しのけ、道を空けたサティに感謝しながら、ビーシュはシーツをたぐり寄せて体に巻き付けた。さすがに、女性の前で全裸のままは気が引けた。 「あの、ビーシュでいいからね」  ありがとう。とサティに顔を崩してみせれば、つんと整った顔に赤みが差した。 「シャワー室は、ご存じですよね? 服はロナード様が用意した新しいものをお召しください、用意してありますので」  レスティが口を開こうとする都度、肘や蹴りをいれて黙らせるサティに心の底から感謝して、ビーシュは足早にシャワー室へ向かった。  体の奥に残されたままの精を、とにかく早く出してしまいたい。 「……あっ」  道すがら、壁に掛けられた白衣を見つけ、ビーシュは慌ててポケットを探った。 「よかった、あった。傷もない」  サファイアの宝石義眼をぎゅっと握りしめ、ビーシュはシャワー室に飛び込んだ。内鍵はついていないので立てこもれないが、ゆっくりと呼吸はできる。 「れおくん」  握った掌をほどいて、宝石義眼に唇を寄せる。  足を伝って流れる陵辱の残滓が冷たくて、ビーシュはシャワーの蛇口へと手を伸ばした。 ◇◆◇◆  諦めの悪い男だと、ニルフは自己嫌悪に陥りつつ、レモンを浮かべた紅茶を飲んでいた。  高級宿内のカフェらしく上等な茶葉を使っているのはわかるのだが、あいにくと、ゆっくり味わう余裕はなかった。  紅茶と一緒に頼んだ軽食も、手つかずのまま。周囲を行ったり来たりしている店員の困った表情だけが向けられる。 「エヴァン・ロナードは、エーギル・バロウズと近々商談すると言っていた。ここで見張っていれば、なにかしら情報が得られるかもしれない。と、思ってきてみたけど。何をやっているんだか、俺は」  平日とあって、カフェの人だかりはまばらだ。  エヴァンに気付かれて声を掛けられでもしたら、恥ずかしいにもほどがある。が、ニルフはティアラが盗まれた晩に鉢合わせた男の正体を、どうしても知りたかった。  婚約が解消された今、ティアラも花嫁衣装すら無用の長物となった。いまさら、行方を捜したところで何にもならないが、気が収まらない。  ティアラの盗難で父が消沈していなければ、もしかしたらエリスを説得できていたかもしれない。 「逆恨み、というのかな。姉さんに知られたら、女々しいと馬鹿にされるだろうな」  未練たらしい自覚はあるが、気持ちを切り替えるきっかけが欲しかった。  エリスの婚約が無くなった今、アーカム家を一身にささえるのはニルフだ。  独身を貫くとエリス自身が選んだ道を、いつか肯定できるようになっていたい。 「あら、彼女も連れずにデート?」  声も掛けずに目の前の席に座る女、エリスにニルフは手に持っていたカップを取り落としそうになった。 「どうして?」  思わず、うわずった声になってニルフは口元を押さえて軽くもんだ。動揺して、痛い腹を突かれるわけにはいかなかった。 「茶葉を買いに来たの。ここのカフェ、国外の良い茶葉も売っているのよね。おまけに、休憩がてらに紅茶もいただけるし、お気に入りの場所なの。警備員もいるから、安全だしね」  身なりの良いものでなければ、基本、入り口もくぐれない。たしかに、帝都の中でもっとも安全なカフェかもしれない。 「私よりニルフ、あなたよ。カフェで一人お茶だなんて、珍しいこと。私の知らないお嬢様とデートかしら?」 「浮気ではないですよ。たまには、一人でゆっくりカフェに入ったりもします」  普段は部屋に引きこもっているくせに、好奇心の強さは健在のようだ。  なんとかはぐらかそうとしているニルフだったが、階段から降りてくるエヴァンの姿を見つけ、思わず腰を浮かせていた。 「どうして、ビーシュ・スフォンフィールも一緒にいるんだ?」  着古したズボンと白衣姿ではなく、両脇を固める双子の男女と同じ漆黒のスーツを着ている。櫛を通しているのか怪しい茶色の髪も、綺麗に梳かれて後ろで一つにまとめられていた。  どうして、レオンハルトがあんな冴えない男に夢中になるのかわからなかったが、小綺麗に身なりを整えていると、どうしてだろう、そこいらを歩く女性よりもずっと視線が引き寄せられる。 「ビーシュ? もしかして、レオンの彼氏? どの彼かしら?」  あんまりな姉の発言に、ニルフは思わずテーブルを叩いていた。  驚いた店員が慌てて駆け寄ってくるのに、ニルフは詫びをかねて、気持ち多めの料金をテーブルに置いて席を立った。 「姉さんは、お茶を楽しんでいてください」 「ねえ、ニルフ。あなた、いったい何をしようとしているの?」  きゃんきゃんと噛みついてくる姿は、神経質な小型犬のようだ。気むずかしそうでいて、頭が回るからたちが悪い。 「姉さん、噂はご存じですか? 怪盗と名乗る若い男に、宝飾品が盗まれる事件です」 「ええ、誰がどれを盗まれただの。まるで、怪盗に物を盗まれた自慢をしているようだったわ。お父様も、いつまでも落ち込んでないで参加すればよかったのに。なにせ、アーカム家が一番最初の被害者でしょう?」  エヴァンとビーシュはニルフたちに気付く様子はなく、フロントに鍵を預けてエントランスへと歩いて行く。  二人は肩が触れるほど寄り添って歩いているが、和やかな雰囲気はどこにもない。  隠しきれない不穏な空気を、エリスも感じ取ったのだろう。騒ぐのをやめて息を潜めていた。 「どうしてかしら、脅されているようにしか見えないわ」 「ええ、なにかおかしい気がします」  最初、二人の姿を見たときは、なんて破廉恥な男だろうと胸中で罵った。エリスとレオンハルトの間に割って入っただけでなく、さらにつるむ男がいたなんて、と。  隣にエリスがいなかったら、後先考えず殴り込んでいたかもしれない。 「ビーシュは、あの眼鏡の人ね。なるほど、レオンの言うようにかわいらしい人ね」 「久しぶりに外に出て、感性が麻痺しているんじゃあないですかね」  思わず、一瞬でも見惚れた自分が恥ずかしい。ニルフは目を爛々と輝かせてビーシュを視線で追うエリスにしっし、と手を振った。 「とにかく、姉さんはここにいて――」 「追いかけるのね、行きましょう。普段は引きこもりだけれど、武術には心得があるから大丈夫」  買い求めた茶葉を片手に息巻くエリスに、ニルフは頭を抱える。たしかに、ニルフよりも剣術や体術の部類は上だが、所詮は引きこもりだ。さすがに錆びているだろう。  とはいえ、危険だと言って聞くような相手でもない。押し問答をしていたら、見失うかもしれない。 「危険でないところまで、ですよ。僕も姉さんも本業じゃないんですから」  軍人であるレオンハルトがいてくれたら良かったのだが。  護身用のナイフだけでは頼りないが、どうにも胸騒ぎがした。

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