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また、山で逢いましょう
週末がやってくると、一人バイクに跨 がり山道を走る。
ツーリングが趣味になったのはいつからだろう。
もっと。もっと遠くへ。
何かから逃げるかのようにアクセルを開いて風を切り、深い緑へと潜っていく。
満員電車に押し込められ、仕事では画面の数字と睨めっこの毎日。
ビルの大群や鳴り止まない雑音、人の声。雑踏。
それらを一旦全て置いてきて、一人になることが好きだった。
*
「ふぅ…やっと着いたか」
高原のキャンプ場。
日野が以前ツーリングで近くを通りかかった時に知り、ずっと気になっていた場所だ。
たまには時間を気にせずゆっくり過ごすのもいいかと、一人でのキャンプ、いわゆるソロキャンプを思いきってデビューすることにしたのだった。
標高が高いこともあり真夏にしては涼しい。避暑という言葉通り、熱のこもった街から逃げてきて正解だった。
黒いマウンテンパーカーを羽織ると、長身の日野の体型によく映えた。
チェックインを済ませると、その先には見渡す限りに広がる森林が待っていた。
透き通るような風が、褪 せた焦げ茶色の髪を爽やかに揺らし吹き抜けていく。
高鳴る鼓動を抑えながら、早速拠点となる場所を探す。
案内によると決まったエリア内であれば好きな場所を選んでいいとのことだった。
大人数の賑やかなテントの付近は避けなるべく静かなところをと探していると、遠くに青い小さなテントがひとつ見える場所に何となく惹かれる。
キャンプ場の奥地なのでトイレや水場が遠くて不便そうだが、ここなら落ち着いて過ごせそうな気がした。
明るいうちにテントを張ろうと荷物を広げると、そこで蚊取り線香を忘れたことに初めて気づく。
虫が苦手な日野は今回のキャンプは中止かと悩んだが、ここまで二時間かけて来たのもありなかなか諦めることができずにいた。
そこで先程見た青いテントの存在を思い出し、厚かましいと思いながらもダメ元で声をかけてみることにした。
「あの、すみませんが」
日野がテントの持ち主に声をかけると、時間差で中から一人の青年が現れた。
黒髪の彼は立ち上がると自分より若干背が高く、一瞬日野は尻込みしそうになる。
昼寝をしていたのか元々そういう顔なのかわからないが、相手は暫くこちらをぼーっと眺めているだけだった。
「実は、蚊取り線香を家に置いてきてしまって。もし余裕があれば、少し分けていただけないでしょうか」
と精一杯の愛想で用件を伝えるも反応はなく。
何かを考えているような、そうでないような。
その表情からは感情は読めない。
そして、あまり気が長くない日野が少し苛立ちを始めた頃。
ようやくその口が開いた。
「あ…、すみません。線香、ですか。今日はそんなに持ってきてなくて…」
「そう…ですか。…こちらこそ無理を言って、申し訳ありませんでした」
小さな溜め息が漏れたが、大体予想はしていた答えだったので素直に引き下がる。
それでは、と日野がお辞儀をして踵を返した瞬間。
突然後ろから腕を捕まれ、呼び止められた。
「…待ってください」
「ちょっ、何」
「その…。貴方はこれから、どうするんですか?」
「…どうするも何も、もう帰るしかないだろ。このままじゃ俺、虫刺されまくりだし」
先程までの営業スマイルと敬語を忘れ、次第に日野はがさつな地が出てしまう。
「あの。線香の予備はありませんけど…。よかったら、ここにテント。隣に並べて一緒に使いませんか」
「……え?」
相手の思いがけない申し出に、一瞬は喜んだものの。
見た限り向こうも一人で、せっかくのソロキャンプを楽しんでいるはずだ。
そう思って遠慮をしようとしたが。
結局、誘惑に負けてしまい親切に甘えることにしたのだった。
早速テントを張ろうと取り掛かると、手伝ってくれるということになった。
随分と手際がいいなと褒めると、高校時代に山岳部に所属していたのだという。
会話はそこで一旦途切れるが、途中思い出したように青年はザックを漁ると日野に細身の茶色のボトルをひとつ渡し。
「虫除けです。よかったら使ってください」
ラベルにはハッカのボディースプレーと書いてあり、ハーブは虫除けに効くことを思い出した。
露出した肌に吹き掛けると、ミントの清涼な香りに包まれる。スッとした爽快感とアロマの刺激が気持ちいい。
少し寡黙 ではあるが、悪い奴ではなさそうだと日野は思った。
黒髪の青年は、名前を瀧 と言った。
まだ大学生らしく、年は日野よりも一回りも下のようだった。
日野が何かお礼をしたいと申し出ると、自分も同じ煙を使っているから気にしなくていいと言う。
「その代わり…。料理は俺が作りますので、このあと食事を一緒にしませんか」
え、そんなんでいいの。と日野が返すと。
はい、と短く返事をし瀧は早速料理の支度へと取り掛かった。
固形の栄養食品で過ごす予定だった日野にとってラッキーな誘いだったが、なぜだか瀧の方が機嫌が良さそうだった。
瀧は慣れた手つきで飯ごうで米を焚き、野菜を切り、鍋をバーナーに載せて茄子のカレーを煮込み始める。
何か手伝おうかと尋ねてみたが、出来上がるまでゆっくりしていてくださいと言われてしまい、大人しく折り畳みチェアに座り読書をして時間を過ごした。
呼ばれた頃には辺りが暗くなり始め。瀧は小型の焚き火台に火を起こした。
「すげえ、旨そう!」
「量、これで足りますか。日野さん」
「足りる足りる。俺、意外と少食だし。いただきます」
初対面でいきなり同じ食卓を囲うことになったが、日野は不思議とそれが窮屈には感じなかった。
キャンプの定番メニューとは言え、今が旬の夏野菜がプラスされた瀧のカレーは今まで食べたカレーの中で一番だった。
夜を迎えた森はすっかり真っ暗で、焚き火の柔らかい灯りだけが二人を照らす。
一つ二つと雑談をしていくうちに、折り畳みテーブルには既に食べ終えた二人分の皿が折り重なっていた。
「はぁー…。やっぱ、自然に囲まれてるとなんかこう、心が洗われるよなー」
「日野さんは、山が好きなんですか」
「んー、まぁな。普段は都会の喧騒に疲れてただがむしゃらにバイク走らせてるだけって感じだけど。たまにはこうやってのんびり過ごすのもいいかなーって」
「…なんか、わかります」
「そういや瀧はほとんど毎週ここに来てるって言ったっけ。ソロキャンプってそんなハマるのか」
「…。俺は、人付き合いとか苦手で。その。話すのが得意ではなくて、周りに馴染めないことが多いので…」
だから一人になれる山に来ると楽なのだと、瀧は言った。
「そうか?でも俺とは仲良くなれたじゃん」
「日野さんは、特別です」
「はは、なんだよそれ。でもお前見た目いいから、結構モテるんじゃねえの?」
「見た目なら、俺なんかより断然日野さんの方が…」
「いや俺の話はいいんだって。で、彼女は?いるのか?」
「…付き合っている人は、いません。人に嫌われることはあっても、好かれたことはないので…」
ふーんと相槌を打つと、瀧の少し寂しげな横顔を暫く見つめて。
「…お前も、色々あって一人になりたくてここに来たんだよな。今日は大事な時間、邪魔して悪かったな」
日野が真面目な顔で呟くと、瀧は慌てて首を横に振った。
「そんなことないです。俺、今日は一人でいるよりも楽しかったです」
「おー、そっか。なら良かった」
俺たち似た者同士、相性いいのかもな。
笑いながらそう言うと、瀧の瞳に焚き火の炎が揺れた。
それから、それぞれ自分のテントへと戻り朝まで休んだ。
日野が寝袋から体を起こし外へと出ると、先に起きていた瀧が挨拶をする。
テーブルには蜂蜜がけのパンケーキが用意されていて、朝食も一緒にどうかということになった。
日野もお返しに得意の珈琲 を淹れると言い、小型ミルで豆を挽きお湯を注ぐ。
ツーリングでも珈琲ブレイクを幾度もしてきたので手慣れたものだった。
ブラックでいいかと聞き、マグを瀧に渡す。
「日野さんの珈琲、すごく美味しいです」
「まぁな。豆にもこだわってるしな」
ふふん、と自信たっぷりに鼻を鳴らす。
美しい景色を眺めながら熱い珈琲を一口飲み、ほっと一息つく。
「あー。やっぱり山のど真ん中で飲む珈琲はうめえな」
だけど、いつもより美味しく感じるのはなぜだろう。
初めてキャンプ場で飲むからか。
それとも…。
日野は隣にいる瀧をちらりと視線をやった。
優しい眼差しをした彼と目が合い、なぜか頬が熱くなる。
だけどその理由が何なのかは、まだわからずにいた。
そしてチェックアウトの期限が来て、撤収となる。
もう終わりかと思うと、正直寂しかった。
瀧は口数は多くなかったが、一緒にいると居心地がとても良かった。
日野はバイク、瀧は車で来ていたので駐車場で別れることになった。
お互い荷物を無言で積み込み、そして振り返る。
「あのさ、瀧…」
よかったら、連絡先でも交換しないか。
一瞬、そんな言葉が出そうになるが。
瀧は人付き合いを避けたくて山に籠るくらいだ。
そういうのは煩 わしいと感じるかもしれないのではないかと躊躇 する。
瀧の顔を見ると、また明日から苦手な人間社会が待っているからなのか、早くも暗い表情をしていて。
「日野さん…。それでは、お元気で…」
目線を下に向けて、声までテンションが落ち込んでいるようだ。
山では生き生きとしていたくせに、そんなに人里へ帰るのが悲しいのかと。
そんな様子が段々と可愛らしくなって、元気づけてやりたくなった。
「…なぁ、瀧。お前さ、自分は人に嫌われることはあっても好かれたことはないって言ってたけど、そんなことねえからな」
バイクのエンジンをかけ、ヘルメットを被りながら言葉を続ける。
「少なくとも俺は、瀧のこと好きだからさ」
え…、と後ろから瀧の驚く声が聞こえたような気がした。
背を向けているので、瀧が今どんな顔してるのかはわからない。
もしかしてエンジン音で聞き取れなかったのかとも思ったが、人を励ますことに慣れていない日野は照れ臭くなりバイクを跨いでハンドルに手をかけた。
「いいキャンプ場だったな。…今度から俺も、瀧みたいにしょっちゅうここに来てみようかな」
「日野、さん…」
その時は、また会えたらいいな。
最後にそう笑いながら言って、瀧を一人残しキャンプ場を後にした。
柄にもないこと口にしてしまったなぁと自分自身、驚いていた。
恥ずかしさで火照 った身体を風で冷ますかのように、下り坂を一気に降りていった。
一方、瀧はというと。
「……」
時間が止まったかのように動かず、暫くその場に立ち尽くしていたのだった。
*
月、火、水、木、金。
灰色の街へと戻ってきた日野は。
また以前と同じように職場とただ寝に帰るだけの家との往復をする忙しい日々を送っていた。
「…マイナスイオンの空気を吸いたい」
緑に囲まれたいという禁断症状が出るのはいつものことだったが。ただひとつだけ違ったのは。
――瀧に、会いたい。
最初に思い出すのは山でも森でも湖でもなく、瀧のことだった。
たった一度会っただけなのに。
どうしてこんなに頭の中が瀧でいっぱいになるんだろう。
そして、待ちに待った土曜日。
今度こそ蚊取り線香を多めに詰め込んで、先週訪れたばかりの山へと向かった。
*
「…って。瀧、いねえし」
キャンプ場に着きすぐに瀧の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。
たとえ来ていたとしても連絡も取れないので、待ち合わせなど出来ないのであって。
念のため前回と同じ場所にテントを張ったのだが、瀧が毎回ここに泊まるかどうかもわからない。
チェックインの際に有料でハンモックをレンタルしてきたので、ひとまずそこへ寝転がり昼寝をする。
起きたらまたその辺を探しにいってみるか、と日頃の疲れもあって早々に目を閉じた。
「…日野さん?」
木陰でのまどろみの中。ふと聞き覚えのある声がして目を開ける。
声のした方角へと目線をやると、そこには息を切らして荷物を持った瀧が立っていた。
「た、き…?」
待ち望んだ相手がようやく現れ、思わずその名前を呟く。
慌てて身体を起こしたからかハンモックの上でバランスを崩してしまい。
落ちそうになったところを瀧がすんでのところで受け止める。
「日野さん!大丈夫ですか」
「あ、あぁ…。悪いな、瀧」
抱き抱えられるような体勢となってしまい、日野は慌てて体を離した。
空を見ればすっかり日が傾いて、夕暮れの色に染まっていた。
「今日は、来るのが遅かったんだな…」
別に今日ここで会おうなんて約束をしていたわけではないのだが、日野からついそんな言葉が出てしまう。
「遅れてすみません…。今日になって、急用が入ってしまって…」
瀧もまた、当然のように謝った。ここまで慌てて走ってきたらしく、まだ息が整っていないようだった。
「瀧。忙しいならそんな無理してまでキャンプ来ないで、今日は家で休んでればよかったのに」
「いえ、このくらい平気です」
「はは。お前、どんだけ山に癒されたいんだよ」
「それもありますが…。ここへ来ればまた、日野さんに会えるかもしれないと思ったので。どうしても来たかったんです」
「え、それって…」
――俺と、同じ理由。
日野は、自身の脈が速まっていくのを感じた。
「テント。隣にいいですか」
「いいけど…。つーか、わざわざ俺のとこ来ないで、一人になりたいなら好きなとこ行ってもいいんだぞ」
「え?日野さんがいるのに、ソロキャンプなんてもったいないです。…それとも俺、邪魔でしたか」
「別に…邪魔じゃねえけど」
心配そうな目をした瀧が、それを聞いて安堵した。
「あ…でも、その…。今日は急いで来たので、レトルトかインスタントしか用意ができなくて…」
瀧が申し訳なさそうに言うと、日野は持ってきた保冷バッグから四角いランチボックスをひとつ差し出した。
瀧がそれを受け取り中を確かめるとサンドイッチが詰められていた。
香ばしいライ麦食パンに挟まれているのは、レタスやチーズ、ハム。
洒落たカフェで出てくるようなものにも劣らない出来だった。
「日野さん、これ…」
「簡単なやつしか作れなくて、悪いな」
「手作り、してくれたんですか。俺も食べていいんですか?」
瀧の瞳がキラキラと輝き出す。
「当たり前だろ。前にうまいカレーもご馳走になったし」
俺は借りをつくるのが好きじゃねえんだよ。
呟いた日野の耳が、赤くなっていた。
淹れたての珈琲とサンドイッチをテーブルに並べると、二人でいただきますをする。
美味しいですと瀧がぱくぱく食べるのを見て、日野はひとまず胸を撫で下ろした。
「日野さん。少食だって言ってましたけど、もし俺が来なかったらこんなにたくさんどうするつもりだったんですか」
「知るか。いいから黙って食え」
「はい、残さず食べます」
拗 ねた日野とは反対に瀧が微笑む。
サンドイッチは誰が見ても一人分ではなく。
瀧に会う前提で二人分作っていたのが見透かれてしまったようで、日野はばつが悪そうに目を逸らした。
食事を終える頃には夕暮れから夜へと移り変わり、二人で小さな焚き火を囲って夜空を見上げる。
都会では見ることのできない満天の星があるそれはプラネタリウムだった。
時折聞こえるのは、遠くのキャンプ客の声か、風に揺れた梢のざわめきか。
お互い何も話さずに、ただ静かにその上映会を味わった。
「…そろそろ、休みましょうか」
目をこすり始めた日野を見て、瀧が言い。
そうだな、という返事を待ってから焚き火を消す。
ランタンを持って立ち上がり、そして。
「お休みなさい。日野さん」
瀧は、日野の唇に触れるだけのキスをした。
それから、何事もなかったかのように静かに自分のテントへと入っていった。
「え、何…」
残された日野の頭は真っ白になっていた。
「…俺、今。瀧にキス…されなかったか?」
それからどうやって自分のテントに戻ったのかは覚えていない。
日野はさっきまでの眠気が一気に吹っ飛び、眠れない夜を過ごすことになった。
混乱した頭で、必死にぐるぐると考える。
瀧が俺にキスをした。なんで。
日野は、触れられたばかりの唇をそっと指でなぞった。
「でも、嫌じゃなかった…」
むしろ、ドキドキしてる。相手が瀧だから嬉しいと思ってしまった自分がいる。
「そうか。俺、瀧のこと好きなんだ」
友達としてではなく、恋愛の好き。
そして、キスをするということは瀧も同じ気持ちなのではないかと期待してしまう。
それを今すぐ確かめずにはいられなくなって、自分のテントを這 い出て、隣で寝ている瀧へと声をかける。
「瀧…!おい瀧、起きろ」
外から呼ぶと、中から瀧の眠そうな声が聞こえた。
「ん…どうしたんですか、日野さん。トイレ行きたいんですか…」
「バカ、ちげーよ」
お前も、俺のこと好きなのか?
ストレートにそう質問したいけれど。うまく言葉が出てこなくて、もどかしい。
「あ、あの…さ。ほらお前、付き合ってる奴いないって言ってただろ?」
だったら、俺と…。
そう続けようとしたが、
「え?何言ってるんですか、日野さん。俺、付き合ってる人ならいますけど…」
思いがけない瀧の言葉に遮られる。
「今日だって、好きな人とデートをして…。日野さん。俺、今すごく幸せです」
……は?
瀧に、付き合ってる人がいた?
知らない事実を聞かされて、衝撃が走る。
先週は、恋人はいないって言っていたはずなのに。
まさかこの一週間で出来たということか?
昼間の用事も、その相手とのデートだったのだと今更理解する。
幸せだと言う瀧の声は本当に嬉しそうで、胸が締め付けられそうになる。
「そ、そうか…。よかったな」
声が震えていたが、それだけ言って自分の寝袋へと潜り込んだ。
告白しにいったのに、他の奴との惚気 を聞かされるなんて。
惨めな気持ちと、瀧が幸せなら良かったという気持ちが複雑に混ざり合う。
隣のテントの気配を探ると、瀧は疲れていたのかまたすぐに寝息を立てていた。
「だったら、なんで。なんで俺なんかにキスしたんだよ…。瀧」
小さな嗚咽 を堪えながら、日野は涙を静かに流した。
それから。
夜明けが来るとともに、音を立てないように荷物をまとめ。
瀧には何も告げずにその場を去った。
*
翌週。
待ちに待った土曜日が来ても、日野は例のキャンプ場へは行くことはなかった。
瀧に会うのが辛くて避けている、とも言える。
それでも緑が恋しくて、何となく気晴らしに別のキャンプ場を訪れる。
とにかく今は現実逃避がしたかった。
今度こそ、正真正銘のソロキャンプだ。
新しいキャンプ場で、瀧との思い出も上書きできるかもしれない。
そう思ったけれど…。
瀧がいないと一人の時間が想像以上に長く感じて、余計に寂しさが増していった。
気を紛らせるために、大好きな珈琲を淹れて飲んでみる。
だけど。
「あれ…珈琲って、こんなに苦かったっけ…」
格別だった山での珈琲も、今はなぜか味気なかった。
こんなときに思い出すのも、自分が淹れた珈琲を美味しいと言って飲んでくれた瀧の笑顔で。
忘れたくても、忘れられない。
マグを持った手に、目から雫がぽたりと落ちる。
「ちくしょう…何でだよ。瀧に…。瀧に、会いたい」
元々は人との関わりが嫌でソロキャンプを始めたつもりだったのに。
いつの間にか、瀧と二人で過ごした時間が自分にとって特別になっていたことに気づいた。
*
再び訪れた週末。
高原にあるキャンプ場の森の奥深く。
もうすっかり日は暮れようとしていた。
日野は一人ずかずかと歩いていき、そしていつもの場所でよく見知った青いテントを難なく見つける。
テントの中に座っていた瀧が「あ、日野さん」と言うや否や、その胸ぐらを掴んで強引にキスをする。
最初に瀧にされた、一瞬だけ触れ合うようなキスではなく。
「ん…ッ」
貪 るかのように激しい口づけをする。
すぐには離さず、相手が何度も息継ぎをしようとしては唇で塞ぎその呼吸を奪う。
瀧は何が起こったのか頭が追いつかないようで、抵抗することはなくただ呆然としていた。
テント内は大の男二人がいるには狭く、日野は膝をつく体勢で文字通り瀧に迫る。
そうやって一方的に唇を押しつけた後、やがて日野はゆっくりと顔を離す。
その目は狩りをする動物のように鋭く、激しいキスをしたからか熱い吐息が漏れていた。
「…言っただろ。俺は借りをつくるのが嫌いだって」
この間キスされたお返しだと、冷たい口調でいい放つ。
「日野、さん…?」
瀧はまだ状況が理解できていない様子で、ただ驚いたように目の前の相手の目を見つめるだけだった。
そんなことなどお構いなしに、日野は山の中心で愛を叫ぶ。
「やっと、自分の気持ちに気づいたんだ。お前に恋人がいることは知ってるけど。たとえお前が他の誰かを好きだとしても…。それでも俺は瀧が、好きだ!」
大きな声を出したからか、日野は肩で大きく呼吸をする。
言い切ってから、自分のやったことの恥ずかしさが後からやってきて。すぐに回れ右をして帰ろうとする。
「き、今日はそれ、言いに来ただけだから…」
「待ってください、日野さん!」
逃げようとしたところを、後ろから瀧の腕に包まれる。
「瀧!離せって!」
「…嫌です。離しません」
ぎゅっと強く抱き締められ、互いの身体が密着する。
近すぎて、相手がどんな顔をしているのかはわからない。
「今離したら、また日野さんがいなくなってしまう気がして…」
瀧の、掠 れた声が耳元で響く。
「この間、朝起きたら日野さんの姿がなくてびっくりして。先週だって、ここで待ってたんですけど貴方は来なくて。…俺、何かあったんじゃないかって心配したんですよ」
そこまで聞いて、日野は苛立ちを爆発させ振り向いた。
「はぁ?お前、誰のせいだと思ってんだよ!恋人いるくせに、いきなり俺にキスして、浮気みたいな訳わかんねーことするから!だからあんなに悩んで…!」
「あの。俺がいつ浮気したっていうんですか?確かに日野さんにはキスしましたけど。…っていうか、さっきから他の人が好きとか何の話です?」
瀧が困惑の表情で日野を見つめる。
「俺が付き合ってる相手って、日野さんのことですけど」
「……は?」
固まって目が点になった日野を見て、ようやく瀧が何かに気づく。
「え?俺たち付き合ってるものだと思ってたんですけど。…違ったんですか?」
聞けば、前に日野が瀧に言った「俺はお前のこと好き」という言葉をかなり都合のいいように捉えていたらしく。
両思いの上でキャンプ場でデートしているつもりだったという。
「いやいやいや待て!好きって言ったけど!言ったけどさ!あの時のアレは、落ち込んでた瀧を励ますためっていうか…!」
「落ち込む…?あぁ。あの時は、これで日野さんとお別れかと思うと…確かにすごく悲しかったですね」
「そっちかよ!ていうか、そもそもお前から好きって言われた記憶がないんだけど!」
「あれ…言ってませんでしたっけ。俺、日野さんに初めて会ったときから一目惚れしてました」
「だから聞いてねーよ!初耳だよ!」
日野は疲れたように大きく溜め息をついた。
「…ちなみに、前に急用で来るのが遅くなったってのは。誰かとデートしてたとかじゃなくて…」
「それは、その日になって急にバイト先から呼び出し食らってただけで…」
デートというのは日野さんとのキャンプのことです、と。
答え合わせをして、ガクッと脱力する。
俺の悩んだ時間は一体何だったんだと思わず呟いた。
「俺がちゃんと言葉で伝えなかったせいで傷つけてしまって…すみません」
日野の背中に瀧が手を置き、優しく撫でた。
「日野さん」
低いけれど心地の良い、優しい声が愛しい人の名前を呼ぶ。
触れた瀧の手が、温かい。
「俺。日野さんが好きです。物凄く好きです。俺と…付き合ってくれますか」
「…バカ。言うのが遅いんだよ」
悪態をつきながら、日野も瀧の背中に腕を回した。
抱き合ってみると、瀧の下半身の昂 りに気づき思わず赤面する。
「ずっと我慢していたんですが…。さっきの告白とキスのせいで、もう限界です。日野さん、可愛すぎます…。俺、日野さんとエッチなことしたいです」
「おま…ッ!あれほど口下手だったくせに、何でそういうことは流暢 に話せるんだ!」
「…ダメ、ですか?」
瀧が熱っぽい吐息で耳元で囁くと。
「……ダメとは…言ってない」
そう言って。
二人で寝袋の上に倒れ込み、唇を合わせた。
「なぁ瀧。俺たちさ、連絡先交換してなかったから面倒くさいことになったんだよ。お前の教えろよ」
「いいんですか。嬉しいです」
「つーか、相手の番号も知らないのにどうやって付き合うつもりだったんだよ」
「山に来れば会えると思ったのでいいかな、と」
「…で。次はどこで会う?」
「日野さんは、登山かハイキングかキャンプだったらどれがいいですか?」
「何で山限定なんだよ!」
「えっ、山以外でも会ってもいいんですか」
「当たり前だろ」
「じゃあ、俺か日野さんの家で一日中いちゃいちゃしたいです」
「……やっぱり山で」
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