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第2話

 体の上を吹き抜けた生ぬるい風に、俺はゆっくりと目を覚ました。ワイシャツを開けたままの格好で、熱いコンクリートの床の上に仰向けに寝転んでいた。  そばに人の気配はない。  ふと視界に入ったコンビニのビニール袋に手を伸ばし、中から未開封の煙草を取り出すと、パッケージを開けてそれを一本唇に挟んだ。  花火大会はとうに終わっていた。静寂に包まれた屋上で、俺はライターで火をつけた煙草をゆっくりと燻らせていた。 「今年も終わったな……」  まだ肌に残る友和の熱と、胸元でピリリと痛むキスの痕、そして何度もキスを交わした唇の感触を忘れないように心に刻みながら、肺の隅々まで煙を満たしていく。  恋人になって、飽きるまでお互いを求め、貪り、抱き合った夜は数えきれない。ベッドで肌を寄せ合って微笑み合う時間が永遠に続くと思っていたあの頃。  今に思えば、そう思うのはあの頃だけじゃないと気付く。友和とのセックスは、夢だったのではないかと思うほど短くて、気が付けば俺一人が残されている。  キスを交わしながら、年甲斐もなくいつも願う事は『時間が止まればいい……』だ。 「――お前を置いて行けないんだよ。だってさ……お前がいなくなったら、俺……生きてる意味ないから」  四年前の今日。俺の恋人だった花井友和はこの雑居ビルの屋上から飛び降りた。  あの日も熱い夜で、彼がどんな思いであの錆びた手摺を飛び越えたのか……考えるだけでも息苦しかった。  上司からの陰湿ないじめ、理不尽なクレーム、無意味な残業。  彼の精神は少しずつ蝕み、近くにいた俺さえも受け付けられない程に病んでいった。  出逢った頃はもう少し肉付きが良かった。でも、あの時は心労でロクに食事も喉を通らなかったという。  恋人であり、彼の一番近くにいたはずなのに、些細な変化にも気付いてやれなかった俺。  あの時、手を伸ばしていれば助けられたのかもしれない。でも――現実はそう上手くは行かなかった。  自分の一部であったと言っても過言ではない彼を失い、途方に暮れ、涙も枯れ果てた時、またこの場所に足を運んでいた。  彼を失って一年――二度と来るまいと誓ったこの屋上に立ち、自身も錆びた手摺に手を掛けた時だった。 「後追いとか、バカなことするのやめなよ」  もう聞こえるはずなどないと思っていたその声に振り返ると、そこには呆れ顔の友和が立っていた。  自ら命を断った時と同じスーツ姿で、俺を真っ直ぐに見つめていた。 「このビル、自殺の名所だって知ってた?俺以外にも飛び降りた人が何人もいる。きっと呼ばれたんだろうね……同じ境遇を生きた者同士」  もうこの世に存在しないモノであることは分かっている。でも、頭では理解出来ていても心がそれを認めるまでにはかなりの時間を要した。  自殺者はその場所から離れることを許されない。永遠にその場に留まり、自分の犯した罪に向き合って闇の中で生きていく。そんな彼らにも一年に一度だけ許されていることがある。  それは最愛の人と一夜だけ会う事が出来るというものだった。命の灯が消えた日、想いもその場所に繋がれる。  現世と闇を繋ぐ冥界の門が開かれるのはたった数時間。その間は普通の人間と変わらない。  友和が死んだ翌年から、俺たちの年に一度のデートが始まった。  待ち合わせはこの雑居ビルの屋上。毎年開催される花火を見て、ビールを飲みながらつまらない話に笑い合い、キスを交わし体を重ねる。それが俺たちの記念日だった。  その記念日に終止符を打とうとしたのは俺自身。夢を追いかけてアメリカへ行くか、最愛の恋人との逢瀬を優先させるべきか……。仕事と恋愛は天秤には掛けられない。どちらも尊く大切なモノだから。  このことを切り出した時の彼の答えは予想が出来ていた。人間と幽霊、住む世界はまるで違う二人。  でも、二人が愛し合っていることは変わらない。  煙草を挟んだ左手を上にかざして、薬指のリングを見つめる。このリングはこの世とあの世の想いを繋ぐ大切なアイテム。既婚者でもない俺が絶対に外さない理由はそこにある。  のそりと体を起し、短くなった煙草をもう一度唇に運ぶ。  携帯灰皿に吸殻を投げ込み、空になったビールの空き缶を二本、コンビニの袋に入れた。  だらしなく緩んだままのベルトを締め、ワイシャツのボタンを留めると、息を詰めて立ち上がった。  ポケットの中にある屋上の鍵の在処を確かめてから、ゆっくりとスチール製のドアへと向かった。  錆びついた扉を閉め、熱気が籠ったままの狭い階段を一段、また一段と降りていく。  毎年行われていることではあったが、今年ほど憂鬱になったことはなかった。  一階まで下り切ると、壁に『管理人室』と書かれた札がかかる、エントランスの脇に設けられた小さなカウンターに肘を乗せて声を掛ける。 「管理人さん……」  俺の声に気付いたのか、引き違いの擦りガラス戸が音もなく開いた。  そこに立っていたのは、きちっとした黒いスーツに身を包んだ四十代後半と思しき男性だった。色白で白髪交じりの髪を後ろに撫で付けたその顔は彫りは深く日本人離れしており、上流階級の英国紳士にも見える。  彼の足元に佇んでいるのは真っ黒なラブラドール。大人しく、吠えたところを見たことがない。 「鍵、お返しします。あの……彼は?」  カウンターの上に置いた屋上の鍵をそっと差し入れながら問うた。 「花井友和さん……ですか?先に帰ると言って、これを託されました」  神経質そうな指先でカウンターの上に差し出されたのは、走り書きされたメモと鈍い光を放つリングだった。  それを信じられない想いで見つめ、震える指先でメモを掴み上げる。そこには紛れもなく彼の字が躍っていた。 『あなたの幸せを願っています。友和』  彼の最期の言葉は、たった一行だけだった。リングを外した時、二人の繋がりはなくなる。  友和の俺に対する呪縛は解かれ、俺もまた彼を忘れるという形で消えていく。 「そんな……」 「本当にいいんですか?って何度も伺ったんですがね……。今村さん、あなたのお気持ちはどうなんですか?」 「そんなこと……言うまでもありませんよ!俺はまだ……アイツを忘れられない。離したくないっ」 「こういうケースは実に珍しいことです。現世に生きる者から死者との関係を断つことは良くあることなんですがね……。私も長年、この仕事をしていますが、こんなことは初めてですねぇ」 「アイツは……。友和は他に何か言っていましたか?」 「特には……。いつものように、サーベラスの頭を撫でて微笑んでいただけですよ」  彼の足元に鎮座しているサーベラスと呼ばれる犬は、小首を傾けて俺を見上げた。赤黒い瞳がその時の友和の姿を映し出す。  カウンターに置かれたままの鍵をじっと見つめ、俺は弾かれたように顔を上げた。 「管理人さん!まだ……間に合いますか?」  彼はスーツのポケットから取り出した年代物の懐中時計に視線を落とすと、細い顎に手を当ててわずかに眉を顰めた。 「まだ十五分あります。それを過ぎたら、もう貴方の前の扉は二度と開くことはないでしょう……」 「十五分……。あのっ、この鍵をもう一度貸してください!俺……行ってきます!」 「時間厳守ですよ。下手をすれば貴方も呑み込まれる……」  彼の細い指先がすっと差し出され、そこに挟まれたリングを受け取ると、俺は重い足取りで降りて来た階段を勢い良く駆け上がった。  上階に向かうにつれ、温度も上がっていく。しかし、今はそんなことに構っている余裕は微塵もなかった。  肩を上下に揺らしながら切れた息を何とか整えながら、錆びた鍵穴に鍵を差し込む。なかなか入ってくれないもどかしさにイライラしながらも、何とか屋上への扉を開く。  目の前に広がっていたのは数分前と何一つ変わらない景色。ただ一点だけ違っていたのは、彼が飛び降りた手摺の上に浮かんだ漆黒の扉。  そこを目指して走り、俺はその扉を力任せに叩いた。 「友和!おいっ!そこにいるんだろ!」  繊細な唐草模様の彫刻が施された重厚な木製の扉は、何度叩いてもびくともしない。  大声で最愛の男の名を叫び続け、溢れ出した涙を拭う余裕さえなかった。 「――お前がいなくなって、幸せになんかなれるかよ!俺の幸せを願うんだったら、ここにいろ!俺は何があってもお前を守る。何があっても会いに来るから……。頼む……ここを開けてくれ」  縋る様に扉に両手をついた時、その扉はゆっくりと動き始めた。  慌てて飛び退くと、空中にぽっかりと開いた闇の中から友和が姿を現した。スーツにネクタイ、ワイシャツに至るまで乱れた所は一つもない。 「友和……」 「純矢。俺にはもう、お前を縛り付ける力はないんだよ。お前はお前の人生を全うすればいい。俺みたいなやつに付き纏われる一生なんて……不幸にするだけだ」 「誰が不幸だって言った?俺……お前といて不幸だって言った事あったか?――お前がアメリカに行けって言うんなら素直に従う。でも、俺のワガママも聞いてくれよっ。俺はお前がいなきゃ生きられない……。あの時、ここから飛んだらどれだけ楽だろうって思った。お前のもとに行けるってどれだけ幸せだろうって思った。それを止めたのはお前なんだぞ!苦しくて、苦しくて……胸が張り裂けそうなくらい苦しくて、もがいても触れられないお前の側に行かせてもらえなかった俺の身にもなってみろ!」  友和の頬に一筋の涙が伝った。その涙はここで見る花火のように儚くて何より美しかった。  俺は必死に手を伸ばした。指先には彼が外したリングが光っている。 「――最後にお前を抱いた夜、言えなかったこと。今……言わせてくれ」 「純矢……」 「俺と……結婚してください!一生、お前を愛し……永遠に守り続けるからっ」  彼が命を断つ前夜、俺たちは汗だくになって体を繋げた。互いの熱を確かめるように、エアコンで冷えていく体を包み込んでは幾度となく絶頂を極めた。何より深い愛情で繋がった俺たちを隔てるものはないもない――そう思えた。  それなのに……彼に伝えることを躊躇ったのは、俺の顔を見つめるたびに憂いを帯びた笑みを浮かべていたから。  一緒にいるのにどうして悲し気な顔をするのだろう……。その理由が分かったのは翌日だった。  離れることはツラい。でも、死しても束縛はしたくない。  相手を思いやることが出来る者しか抱けない感情。それを大事にしすぎた彼の早まった行動を咎めることはしない。  ギィ……っと軋んだ音を立てて扉が閉まり始める。俺は伸ばした手で彼の手を掴み寄せると、左手の薬指にリングを嵌めた。  それを黙ったまま見つめる友和の涙は止まることはなかった。 「――また来年。キンキンに冷えたビール用意して待ってるから……この場所で」 「純矢……。俺……っ」 「絶対に外すなよ!今度外したら……離婚だぞっ!」  徐々に細くなっていく扉の隙間。その奥で渦巻く漆黒の闇。  俺の声は闇に呑み込まれることなく彼に届いただろうか。  ガタン……と重々しい音を立てて完全に扉が閉まった時、俺の意識はそこで途絶えた。  膝から頽れるようにコンクリートの床に倒れ込んだ時、耳の奥で確かに聞こえた友和の声。 「浮気したら許さないからねっ!」  彼らしい物言いにふっと唇を綻ばせる。  冥界の門の管理人の靴音、そして門を守るサーベラスの息遣いが聞こえる。  ポケットから転がった鍵がふわりと浮かび上がり、真夏の夜空に光の粒となって飛び散った。  命を断ったこの場所で、もう一度命と愛を繋ぐ。  俺は目を閉じたまま、繰り返される彼の言葉に耳を傾ける。 「愛してる……」  夢の中で何度も抱き合おう。俺たちの夏は永遠に終わらない――

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