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東京24区:Spinoff 1st order.『I'll sing you a song.』

 雨の夜にしか営業しないバーがあるらしい。  そう噂を耳にしただけの店へ、話半分、いや、話九割引きで向かってみると実在していたことになによりも驚いた。恐る恐る重厚なドアを開くと、店の奥から声が聞こえ店内に招かれた。  予約もなにもなく店を訪れたにも関わらず、店主は快く迎え入れてくれた。  スツールに腰を下ろし、店主と向かい合う。カウンターの上に置かれたキャンドルがぼんやり手元を照らしてくれ、ほっと心が落ち着いた。 「当店では、オリジナルカクテルを提供しております」  そう言うと、バーテンダーはグラスの準備を始めた。その慣れた手つきに、魅入る。店内に響くBGMは聞いたことのない曲だった。けれどとても穏やかで、どこか懐かしさを感じさせてくれた。 「こちらは、試作品でございます。今夜のお客さまに是非お試しいただきたく、ご用意いたしました。お口にあえば幸いです」  店主であるバーテンダーは、ゆっくりとした手付きでそのグラスを下ろした。言葉は遠慮がちではあったが、その声には自信が溢れていた。相当の美味なのだろうと、察しがつく。  カクテルの名を尋ねると、彼は恭しく頭を下げ答えた。 「こちらは、『マザー・グース』と言う種類の中で、『アイル・シング・ユー・ア・ソング』と言います」  歌を歌ってあげよう? 不思議な歌ですねと思わずくすりと息を漏らすと、バーテンダーは歌詞を教えてくれた。 「I'll sing you a song,(君に歌を歌ってあげよう) Though not very long,(そんなに長くはないけれど) Yet I think it as pretty as any;(とってもすてきな歌なんだ) Put your hand in your purse,(だから財布に手を入れて) You'll never be worth,(僕に一文投げておくれ) And give the poor singer a penny.(君にはたいした額じゃない) (Mother Goose:I'll sing you a song. より引用) ……と言う歌でございます」  うっとりと聞き惚れつつ、強く目を閉じる。  店主の声は静かで低く、囁くような音量にも関わらず優しく鼓膜をくすぐった。誰かに愛を語るときも、彼は同じように囁くのだろうか。  カクテルグラスを持ち上げ、違う角度で見えるそれぞれの色を不思議に思いながら、すてきな歌を歌うこのカクテルの名に、由来はあるのかとさらに問うと、バーテンダーはもちろんですと答え、そのグラスへ果実を落とし込み、また囁いた。 「……ようこそ、『東京二十四区』へ」 Spinoff 1st order.『I'll sing you a song.』  寝入った筈の夜中の瞳に天井の模様が映り、秋葉恭平は安穏な眠りから醒めてしまったことに気づいた。  夢は見ていなかった。  悪夢に声を上げた覚えもない。  寝返りを打って目を閉じるが、もう睡魔はやってこない。  もそもそと起き上がりベッドから這い出し、冷蔵庫を開けた。ひとり住まいの狭いアパートのキッチンに置かれたそれから、暖かいクリーム色の光が漏れ、室内をぼんやりと明るく浮かび上がらせた。色彩と温度が裏切り合っている卑俗な例だ、と秋葉は思った。  真夜中の考察ほど、ろくでもないものも無いのだが。  茶色い小ビンを取り出し、銀色のキャップを右手でひねった。  リングの外れる音とともに、プシュッと炭酸の抜ける音がした。  冷蔵庫に収納する際に振ってしまったのか、開けたビンから白い泡がほんの少し、酸素を求める生き物のように滲みだし、慌てて口をつけた。  ならば、それを吸い出す自分はエイリアンだな、と彼はひとりごちた。真夜中という、このファンタジックで本能的な叫びに満ちた世界の底で、意味の無い推論を繰り返す自分は。  ビンの中のそれを、またひとくち口に含む。冷たいビールが寝起きの喉を刺激した。  目が醒めたと思いつつも、まだ半分ぼんやりしている頭を手でかきむしりながら、秋葉は窓へと歩み寄った。  真夜中三時を過ぎたこの時間でさえも、東京と言う街は眠りにつく様子はない。遠くでサイレンの音が聞こえる。反射的に意識が集中し、それを打ち消すように強く頭を振った。無意識に身体と意識が反応してしまうのは、刑事の職業病だなと彼は苦笑する。  また、ひとくち。  今度はごくりと喉を鳴らして、それを飲み込んだ。  窓を背に部屋の中を眺めてみる。  窓からの月明かりに照らされた自室では、音も無くただ時間を刻む時計の音だけが静かに響いていた。  加賀美智秋は、遠くから聞こえる携帯電話の呼出音によって、ゆっくりと現実に引き戻された。  眠気に目が開かず、自分の目が醒める前に電話をかけてきた主が諦めてくれるのを祈った。しかし、期待を裏切るようにまだ鳴り続けている。  留守番電話にしておかなかった自分を恨みつつ、その反面呼び出しのしつこさに急用であったらまずいと思い直し、眠い目をこすりながら携帯電話をタップした。 「はい……」  声にならない声で、加賀美は応答する。 「俺」  相手は一言だけ。しかし、加賀美にはその一言で、誰であるのか瞬時に判断ができた。 「誰ですか、ちゃんと名を名乗ってください。……秋葉警部補」 「起きてた?」 「寝てましたよ。今何時だと思っているんですか」  加賀美は、いくぶん不機嫌さを含んだ声で答える。その反面、愛しいひとの声にほんの少し喜びを感じた。そう、ほんの少し。 「ちょっと待ってろよ。三時四五……あ、今、四六分になった」  秋葉の声が、時計を読んだらしく僅かに遠ざかった。 「そういうことを言っているのではありません」 「じゃあ、なに」 「……もういいです。で、なんの用ですか。急用ですか?」 「うーん……。チアキさ、明日の夜空いてるか?」 「…………………………はあ?」  思わず、加賀美の声が裏返る。 「なんですか?」 「いや、だから明日の夜空いてるか? いや、もう今日の夜か」 「そんな事を言いに、三時過ぎに僕を叩き起したんですか?」 「違う、三時四六分」 「ですから、そういうことを言っているのではなく……」  加賀美は、小さく溜息を吐いた。 「先輩、酔ってませんか?」 「いんや。ビール二本空けただけ」 「飲みすぎです。明日の仕事に響きますよ。朝から聞き込みがあるんですから、二日酔いでは困ります」 「はいはい、怖いチアキちゃんの言う通り、これでやめておきますかね」  電話の向こうで、秋葉がくつくつと笑った。 「僕の名前はトモアキです。智秋。チアキではないと何度」 「で、明日」 「秋葉先輩、たいがいしつこいですね」 「性分なの。それに、先約入る前に俺が予約しておこうと思って」 「ど……」  どんな予定が入っても、あなたを優先するに決まっているでしょう、と言いかけて加賀美は言葉を飲み込んだ。 「いいですよ、明日夜空けておきます。なにがあるんですか?」 「飯でも食いに行かないか」 「はあ……」  再びの眠りに落ちかけていた加賀美は、秋葉の言葉に生返事で答えた。 「じゃあな、俺も寝るわ」 「おやすみ……なさい」  自分の声のようで、どこからか聞こえてきた声のような曖昧な感覚が加賀美を包み、携帯電話を持ったま静かに眠りに就いた。  闇を共に過ごすと、人と人は親密になると言う。  その店の照明は、ふたり連れで入った客を必ず恋に落とし込むたくらみで、設計されたようだった。 「薄明かりってのもいいな」  ブランデーグラスの中で揺れるろうそくの炎を、秋葉は苦笑混じりで揶揄った。頭上からの茶色い微細な照明と、グラスの中で揺れるほむらが、ふたりの顔だけを暗い背景に浮き上がらせる。 「そうですね、たまにはこんな雰囲気も……」  加賀美は、グラス越しに対面に腰を掛けた秋葉に視線を投げた。 「こう暗いと寝てしまいそうですけれど」 「あれ、寝不足? 色気のねえことだ」 「誰のせいだと思っているんですか」  くすり、と加賀美は寝不足の原因に向かって微笑んだ。 「いいじゃないか。明日俺たち非番なんだから、たまにはゆっくり」 「そうですね、まさか先輩からデートに誘われるとは思いもよりませんでしたし」 「……さあ、それはどうかな」  愛しいひとは、優しく目を細め、笑みを浮かべた顔で惚けた。 「人間の脳のポエジィな部分てのは」  秋葉は明後日の壁に目を向けたまま、言葉を続けた。 「夜十時を過ぎてから動き出すらしい。……夜は創造の時間、と言う訳だ」 「暗闇と一筋の光明が、傑作をものする訳ですか」 「闇だけが産む傑作もあるかも知れないけれど」  加賀美はその真意を計りかね、秋葉はそれを察して次の言葉に悩んだ。  暗さが近づける筈のふたりの距離が、言葉によって少し離れた。 「……想像の時間、とも言えますね」  加賀美が継ぎ穂を探り当てる。だが、秋葉は僅かに片眉を上げたのみに終わった。 「像を想う方の、想像です」  頷き、そして一瞬の間合い。 「推論をこね廻すのも、深慮な定理を導き出すのも、結局は想像か」 「言葉を生み出すのも、明日のことを悩むのも」 「……遠くで誰かを想うのも、な」  秋葉が、ゆっくりと加賀美に視線を戻す。頬に、優しい笑みを浮かべ。  ふ、と思い出したように秋葉は時間を確認した。 「そして、誰もが一歩死に近づく時間だ」  時計の針は、その円盤の上で睦まじい恋人のようにぴったりと重なっている。 「またひとつ、老境に近づいた相棒に」  カチリ、とグラスが鳴らされ、加賀美はたった今変わった日付にどんな意味があるのかを思い出した。 「ご存知だったんですか」 「おまえが配属される際に資料が回ってきたからな。嫌でも目につく」  わざとらしく視線を外し、口を尖らせる秋葉の仕草を目にし、加賀美の心臓にちくりと甘い針が刺さる。 「僕のことが気になるから?」 「相棒だから、だ」 「そうですか」 「なんだよ」 「なんでもありませんよ」  意味ありげに加賀美が微笑むと、彼は顔を赤くした。酔ったかもなと誤魔化すその声もまた、加賀美の鼓膜をくすぐる。 「おめでとうは言っていただけないんですか?」 「欲張りさんめ」  秋葉は腕を伸ばし、グラスを近づけた。再びの乾杯。 「それはまた次の機会に、かな」  目を細めて愛しいひとは優しく笑った。 * * * * * * *  最後の一滴を口に含んだ瞬間、ああ本当に終わってしまうと名残惜しさで胸がいっぱいになった。このままときが止まってくれたらいいのに、そう願う。しかし、残念ながらカクテルグラスにはほんの僅かの余韻すら残っていなかった。  店内に流れていたBGMも曲が終わってしまったようで、レコードプレーヤーの上で針がぶつりぶつりと侘びしく音を立てていた。無言のまま、バーテンダーは指先でそれを摘まみ上げ、元の位置に戻す。途端、室内はしんと静まり返り、その静寂は両肩に重く圧し掛かった。  とても美味しかったです。そう伝えると、洗練された動きで彼は頭を下げた。  もう一杯欲しいところだが、店主に予めお代りは出来ないと言われている。名残惜しいが今日はここまでのようだ。  代金を支払おうと財布を取り出すと、彼はそっと掌でその動きを制した。 「本日は試作品でございますので、お代は結構です。当店の味をお気に召していただけましたら、是非またご来店ください」  その声は、やはり静かで優しく、鼓膜をくすぐった。  もちろんです絶対にまた来ます、そう伝えたときの店主は少し嬉しそうに感じられたのは、気のせいだろうか。  夢見心地で店を出る。雑居ビルの一階からそろりと空を見上げると、とうに雨は上がり、暗い夜空の中に小さな星が輝いて見えた。  喉の奥に残る余韻が心地良い。  また来よう、近いうちに。帰ったら、天気予報を確認しなくては。  遠足前で晴れの日を待ち侘びる子どものように、しばらくは雨の日が楽しみになりそうだと、心が浮かれた。  初めて来たはずの街並みが、どこか懐かしく感じられ、一歩踏み出す足は軽かった。  それは雨の降る、とある夜の出来事だった。

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