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第1話

肌にまとわりつく暑い空気は湿気を含んでいて、浴衣なんてものを着たことを後悔していた。 会場の外よりも明らかに気温が高いのは、石畳の上を行き交う人の多さのせいだろう。 はしゃいで笑い合うクラスメイト達から少し視線をあげると、視界に入る夜空は出店の明かりに追いやられているようだった。 (おお、夜なのに空が明るいぞ) そんなことを考えていたが、浴衣の袂を軽く引っ張られそちらに顔を向けた。 「ね、今日さ、ヤマオカ達が花火用意してるからここ終わったらみんなで河川敷行こうって話してるらしいよ」 夏休み。クラスメイト達と祭りへ繰り出す夜。浴衣とくれば気になる女の子の浴衣姿。 (……可愛い。うん、可愛い) 「サカノ、今日すげぇ可愛いな」 「え、なによ、急に」 普段とは違う髪の上げ方は白地に大輪の花の柄を写した浴衣に合わせたものなのだろう。 綺麗に結い上げられたそれは、今この時しか目に出来ない愛らしさと、蒸し暑さをも薄くする色っぽさが滲み出している。 「褒めてもなにも奢らないからね」 「なんだよ、褒めて損した」 「おい!そこ!勝手にイチャつくんじゃねぇぞ!」 クラスメイトのサカノは普段からよく話す相手だ。真っ黒でさらさらとした髪が魅力的な女の子。クラスでも狙っている生徒は多いようだった。 付き合ってるの? よく聞かれる事だったが、まさか。といつも答えていた。 「イチャついてなんかないわよ、誰がハルヒとなんか」 そう話すサカノにではなく、ハルヒに向けられた男子達からの視線には意味がある。 (おーおー。ギラついてんな) この祭りの後の花火とやらで、彼女は一体何人の男子から告白されるのだろうか。 (そんな心配いらねぇっての) ハルヒは未だ現れない想い人を待っていた。 今夜はクラスメイトの殆どが参加している。 高校二年生の夏。来年は遊びだなんて言ってられないだろうから、なんて誰からともなく言い出して決行された集団の夜遊び。 夜はテレビを見てダラダラと過ごすのが好きな幼馴染みは、果たして現れるのだろうか。 (……来るとか言っていつも来ないアイツがもし来たら…、今夜こそ、今夜こそ告白してやる……!) 背中に背負ったランドセルが大きくて上手く歩けない頃からの幼馴染み。もう何年もハルヒは気持ちを伝えられないでいた。 手のひらに滲み出した汗を強く握りしめ、ちらりと横目でサカノを盗み見る。 華奢な肩。薄く色を乗せられた唇。見上げてくるぱっちりとした瞳。 彼女を見る度にまた挫けてしまいそうになる。どの角度から見ても、ハルヒは男だ。守ってやりたくなるような愛らしさはない。華奢でもない。 (どーせ股間にはちんこもついてますよ。……あ~、どうしよ、無理だよな。わかってる。わかってっけど…、) 落ち込む気持ちと共に視線を落としていくと、伸び過ぎた前髪が目元にかかった。 何年も繰り返し自問自答を続けている。この気持ちを隠してるのは辛い。だけど同性の自分に告白なんてする資格はあるのだろうか。 「ほら、来たよ!リュータが来たら告白するって言ってたじゃん」 「やだ、そんなの私が言ったんじゃないもん」 そばにいる女子達の声に心臓が跳ね上がった。 「ちゃんと手伝ってあげるからさ」 「告るなら花火の時よね」 はやし立てられているのは、クラスの委員長だ。サカノとは正反対で、控えめな大人しい女子の一人だが、幼馴染みの好みに近いかもしれない。 (ど、どこだよ、リュータ、) 彼女達の視線の先を慌てて探し回っていると、黒に近い濃紺の浴衣を着た幼馴染みの姿に目を奪われた。 中学に入ってから急激に伸びた彼の身長は、足だけが伸びだのかと思う程スタイルがいい。 真っ黒な髪にその浴衣の色がとても似合っていて、同い歳には見えない空気を纏わせていた。 (……かっけぇ……!) クラスの女子達より早く声をかけてやろうと思っていたハルヒは、見蕩れてしまった。 出遅れたせいで他のクラスメイト達が先にリュータに声をかけ、珍しい奴が来たと騒いでいる。 好きで苦しくて。報われないこの気持ちを早く手放したくて。だけど、彼が好きで自分から離れられなくて。 ならば、いっそ冷たく拒否して欲しいと考えるようになった。 片想いでも楽しくないわけじゃない。彼と過ごす時間の中で生まれるものはとても軽やかでキラキラと輝くものだ。 (……いや、ダメだ) 頬を染めて幼馴染みを見つめる女子達を見て、ハルヒは唇を噛んだ。 もし、リュータに恋人が出来てからじゃ遅い。 「ハルヒ」 幼馴染みの姿を見つけたリュータは、少し不機嫌そうにハルヒの元へ歩み寄った。 「お前なぁ、しつこく誘ってきたくせに先に行ってるってなんなんだよ。携帯も出ねぇし」 ムスッとしているが、ハルヒはすぐにそれを見つけてしまった。彼の左頬に残る一筋の跡。 「……とか言いながらまた寝てたんだろ。リュータ待ってたらオレまで遅刻するじゃん」 「…………携帯の目覚ましまでセットして置いてくんじゃねぇよ。お前、ムカつく」 リュータはハルヒの頬を強く摘むと、くるりと背中を向けてクラスメイト達の輪の中に入って行った。 放された後もまだ頬は少し痛みが残っている。ジンジンとしたそれは何年も抱えていた胸の痛みとリンクして、このまま明日を迎えることはないと決意を新たにした。 人生とは思うように行かないものだ。それはまだ高校生のハルヒもある程度知っている。 初恋は実らないと言うし、しかも想いを寄せる相手は同性なのだから。 だが、まさかここまで予定通りに行かないとは思わなかった。と、ハルヒは花火を楽しむクラスメイト達のはしゃぎ声を遠くに聞いていた。河川敷で花火をしていたが、サカノに少し付き合ってほしいと声をかけられ、クラスメイト達から離れるように歩いていた。 かなり端まで来たせいでもうこの先は整備されていない。雑草が背の高さまで生い茂っていて進めそうにはなかった。 「……なぁ、サカノ。皆のとこ戻らね?」 少し前に委員長のグループがリュータの元へ行くのを見てしまったせいで、目を離した隙に告白されているんじゃないだろうかと落ち着かなかった。 クラスメイト達の集団から彼女に視線を戻して、やっとそこで悟った。いつも笑顔で話しかけてくれるサカノが恥ずかしそうに視線を泳がせている。 (……嘘だ。だってサカノはリュータが好きなんじゃ、) 二人の間の会話のネタとしていつも上がっていたのは幼馴染みの話題だった。あぁ、彼女もそうなのか。と信じて疑わなかったのだ。 「……ハルヒが私の事女の子として見てないのは知ってるけど…、その、お、お試しでもいいから……か、彼女にして欲しいんだけど…」 お試しとはなんだろう。何故彼女はリュータではなくハルヒに告白しているんだろうか。 そして何故自分は、濃紺の浴衣を着た彼の前にいないのだろう。 「え、っと……あの、」 「ごめん、困らせてる…よね」 窺う瞳が揺れていた。それはリュータの浴衣の色と同じ夜空に浮かぶ月が、彼女の瞳に映り込んでいるからだろうか。それとも、彼女もハルヒと同じように全てを受け入れようとしているから。 「いや、……ビックリした、けど……」 「私達、ほら…付き合ってるのかってよく聞かれるじゃない?周りから見てもそう見えるくらいだし……うまくいくと思うんだけど…っ」 それは間違いじゃない。下手をすれば恋人だと思われてる事も多く、リュータにも聞かれた事があった。 ハルヒにとってはそれだけ話しやすい異性の友人という認識だったのだが、そこで心が自己防衛に傾いた。 ハルヒはゲイではない。女の子を見れば可愛いと思うし、リュータ以外の同性にときめいたことも無い。 (…サカノとなら……もしかして恋人になれる…のか……?) もし、クラスメイトの輪に戻った時リュータの隣に女の子がいたなら、もう告白なんてする勇気は出ないだろう。 今夜を楽しみにして覚悟も決めていたのに、結局は如何に自分に可能性がないのかを思い知る事になったのだから。 それならば、リュータとは幼馴染みの親友だという立場をキープしておいた方がいいのかもしれない。 そうすれば、一生彼と付き合っていける。今までのように、笑い合って。 「……ね、ねぇ、やっぱりダメ…?」 「…サカノ、オレ……」 ハルヒが深く息を吸い込んだ直後、クラスメイト達の大きな歓声が上がり思わず振り向いた。 吹き上げ花火が2メートル程光の線を派手に飛ばしていたが、ハルヒはそれよりも知らぬ間にそこに立っていたリュータに驚いて体を揺らした。 「リュ、リュータ?」 「……サカノ、ヤマオカが呼んでる。探してるぞ」 花火の光を背中に受けるリュータの表情が見えない。今の話を聞かれていたのだろうか。聞かれていたとしても関係ないはずなのに、ハルヒの背中には汗が噴き出していた。 「……わかった。ハルヒ、今度でいいから」 アスファルトの上を下駄で去る音が遠くなっていく。 ハルヒはいたたまれなくなって後を追うように足を踏み出した。 「吹き上げ花火なんか持ってきてたんだな。オレも見て来よ、……っ、リュータ…?」 彼の横を通り抜けようとしたハルヒの手は、リュータの手に掴まれ引き留められていた。 彼の手のひらが熱く感じる。直接触れられていると思うと、じわりと全身に汗が滲んでしまいそうだ。 「見に行かねぇの?」 「……お前、サカノと付き合うのか?」 やはり聞かれていた。大きく跳ねた心臓の音はクラスメイト達の声を消してしまう程耳の中で揺れている。 彼には無関係なことなのに。なのにそれを聞かれるだけで動揺する自分が情けない。 「………や、ビックリだよな。オレ、サカノはリュータが好きなんだと思ってたからさ。いやー、マジでビビった!」 「ハルヒ、誤魔化すな」 付き合いが長いせいで、逃げ切ることは出来なさそうだ。 言いたいことは沢山ある。 リュータはどうなんだ。今夜の数時間だけで、何人から告白された?その中にいいなと思う子はいたのか?もしかしてもうデキたのかな。オレがサカノと付き合ってもリュータには関係ないよな。まぁ付き合わないけど。やっぱりリュータが好きだから。こうして目の前にしたら好きだって気持ちを隠すのに精一杯で、他のことはまるで隠せないんだ。 (……苦しい……) 「誤魔化すなって言われても……わかんねぇよ、オレにとってサカノは友達だし…、」 (苦しいのになんで好きになるの止められないんだろうな) 「前に俺が聞いた時は付き合うわけねぇとか、言ってたよな、お前」 その手を離して欲しい。重なる肌から熱が流れ込んでくる。 「…………そうだよ、だってオレ好きな奴……いるし、」 夏の夜空の下で、真摯に告げたいと思っていたのに、こんなに小さな接触だけで揺さぶられるなんて。 「知ってる」 「…………え?」 今のはどういう意味だろうとハルヒが顔を上げかけると、強い力で掴まれた手首を引かれた。 「えっ、ちょ、リュータ?」 彼が足を進めたのは整備されていない雑草の中だ。見た目よりもかなり背の高い雑草のせいで足が前に出にくかったが、周囲が雑草に囲まれた所で振り向いたリュータに抱き締められた。 (へ、え?な、なにこれ、なにっ!) いつものようにふざけて腕を回されるものとはまるで違う抱擁だった。草の匂いがする中で、彼の濃い香りが間違いなくハルヒを包んでいる。 「……告られてるんじゃねぇよ」 リュータの声はハルヒの耳元から聞こえてくる。これ程至近距離で聞くことは滅多にない上に、その台詞の意味がわからなくて、ハルヒの頭は軽くパニック状態だ。 「ハルヒ、聞いてるのか?」 声が出せないハルヒに、リュータが顔を覗きこんできた。暗い中でいたせいか、その距離が更にハルヒの心臓を締め上げてきた。彼の吐息が鼻先にかかるほど近く、認識した瞬間、どっと全身に汗が噴き出した。 「…………ハルヒ。せめて返事しろ」 「ひゃっ!……き、聞いてる、から、」 腰に回されたリュータの手を離して欲しくて顔を逸らすと、いきなり強く顎を掴まれた。 「ふざけんな、お前。言うなら今だろ。男のくせにビビんじゃねぇよ。サカノに笑われんぞ」 暗くてもわかる。ハルヒの好きなリュータの瞳が、目の前で待っている。近いせいで夜空すらハルヒの視界には見えない。ハルヒの瞳に映るのは、リュータの顔だけだ。 「…………リュータが好きだ……っ、」 何度も繰り返したシミュレーションよりも情けない声になった。 ずっと隠してきたその言葉を声に出したのに、言葉にした瞬間何故か泣きそうになって声が掠れてしまった。 リュータはハルヒのその言葉を聞いて、満足そうに薄く笑うと掴んでいた顎から指を離し、そっと頬を撫でてくれた。 優しい触れ方に気を緩めると、リュータから唇を重ねられた。 触れるだけだったが、それは夢にまで見たものだったせいで溢れてくる涙を止めることは出来なかった。 「……よく言った。次からは恋人がいるって言えよ。あんなもどかしい返事すんるんじゃねぇぞ」 恋人って。確認したい事は頭をぐるぐると回っていたが、再度重ねられたキスは最初のそれよりも粘着質に重ねられたせいで、ハルヒは何も言えなかった。 ただ、惚れた弱みでこの先は今までよりも彼に落ちていくのだろうという未来だけは、はっきりと見えた夏の夜だった。

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