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『夏の夜の夢、その顛末。』
『夏の夜の夢、その顛末。』
その日はウンザリするくらいの熱帯夜だった。
加えて、また更にウンザリなことに、学生時代から住み続けている独り暮らしのアパートの部屋には、冷房機器といったら扇風機しか無い。
帰宅して扉を開けたと同時、むわっと籠もった熱気が俺を襲った。
「…うわ、相変わらずだな、この部屋」
すぐ背後から、眉を寄せたしかめっ面まで見えてきそうな声音でもって、そんな言葉が聞こえてくる。
声の主は、俺が連れてきた今夜の客――とはいっても、学生時代から何かにつけこの部屋に入り浸ってきた、勝手も知り尽くしている友人その一だ。
「そろそろエアコン買えよ」
俺の後に続き、もはや『お邪魔します』のヒトコトも無く上り込んだソイツ――ハルマは、まっしぐらに窓辺へと足を進める俺の背中へ、なおもそんな言葉を投げてくる。
からからとした音を立ててサッシを引き開けながら、「うるせー」と、もはやお約束のごとき返答を投げ返した。
「そんなもん買える余裕があるなら、まずこの部屋から引っ越すわ!」
開いた窓の外は無風の如く凪いでいて、室内に籠もった空気を入れ替えてくれるほどの効果は得られなさそうだった。それでも、外へと開けた視界のおかげで、少しばかりの解放感らしきものは感じられた気がして、我知らずほっと小さく吐息が洩れる。
全開にした窓の桟に腰かけ、改めて狭い部屋の中へと視線を向けると。
やはり勝手知ったる何とやらで、ハルマは断りも無く冷蔵庫を開けてビールの缶を二つ、取り出しているところだった。その手が扉を閉める前に、まさについでのように、ここに来る途中で買ってきた缶ビールを手際よく仕舞ってゆく。
それを見て俺も、思い出したように、酒と一緒に買ってきたツマミ類を入れたビニール袋を手元へと引き寄せた。
畳の上に広げた小さな卓袱台の上、袋の中身を広げたところで、目の前に冷えたビール缶が差し出される。
「あーもうホント暑すぎだろ、この部屋」
こちらの真正面に座ったと同時、すぐ傍らに引き寄せてきた扇風機のスイッチを入れる。当然のように首振り機能はオフのまま。――まあ、いつものことだから今さら何も言わんけどな。俺も俺で、家主の特権とばかりに窓辺を占領するワケだから、おあいこというものか。
「――しかし、面倒なことになったな……」
ぷしゅっとした音を立てて受け取ったビール缶を開けながら、フとそんな呟きが洩れる。
この暑さ以上にウンザリこのうえない出来事を思い出してしまった俺は、洩れそうになったタメ息を隠すかのように、慌てて喉へとビールを流し込んだ。
そう……ウンザリの原因は、今夜の飲みの席でのことなのだ。
『こんなことになったのは、おまえらの所為でもあるんだからな! 頼むから何とかしてくれよ!』
今夜わざわざ俺とハルマを呼び出し、そんな脅迫めいた頼みごとをしてきたのは、やはり学生時代からの友人であるショータ。
その頼みごとというのが、“ケンカ中のカノジョと仲直りする手助けをしろ”なんていう、内容だけ聞けば、くだらないことといったら極まりなく。
だが、それがもはや別れ話にまで発展しそうなほどに拗れてしまっている、ともなれば、『そんなもの自分で何とかしろ』と、ただ突き放してしまうのも友人としては気が引ける。
しかも、そこまで拗れた大ゲンカとなってしまった原因の一旦は、俺とハルマ、であることにも、違いは無く……、
発端は、ひと月ほど前に開催された、学生時代に親しく付き合っていたサークル仲間で集まった飲み会だった。
久々に顔を合わせた懐かしい顔ぶれに、皆が皆、ハメを外してしまっていたことは否めない。
大人数でわいわいと楽しんでいるうちに、酒を過ごし、時間を忘れ、気が付けば朝もとっくに過ぎ去っていた。
――それが、ショータにとっては仇となってしまったらしい。
後から聞いたことだが、その飲み会のあった日に、ショータはカノジョと会う約束をしていたのだそうなのだ。カノジョの方から『どうしても今日会いたい』『今日でなくちゃダメ』とせがまれて。
だがこの飲み会は、それよりも以前、大人数の都合を調整すべくかなり前々から予定を組んでおり、それこそショータだって万難を排し参加を決めていたものだ。いくらカノジョのためとはいえ、そのような会に、今さら自分だけ不参加を伝えるのも場に水を差すようで申し訳ない。ならば、飲み会を早めに切り上げてからカノジョに会いにいくことにすればいいだろう、と。
そういう心積もりでショータは、当のカノジョにも『あまり遅くならない時間に会いに行く』と告げておいた。
しかし、そんなこととはつゆ知らず。楽しい雰囲気に酒を過ごして悪ノリした俺とハルマが、時計ばかり見てそわそわし始めたショータの様子にいち早く気付いてしまい、『なーに一人で帰る気マンマンなんだよ!』『今夜は帰れると思うなよコノヤロー!』と、嫌がるショータにがんがん酒を飲ませた挙句、そのまま酔い潰してしまったのである。――という事実を、早々に記憶をなくした俺はコレッポッチも憶えちゃいないのだが、何だかんだと最後まで正気を保っていたハルマが『間違いない』と断言したのだから、おそらくその通りなのだろう。
で、その結果、ショータは朝まで爆睡、カノジョが『どうしても』とまで願っていた約束を、あろうことか一方的に反古することとなってしまった。
それでヘソを曲げに曲げまくってしまったカノジョが、ショータに三下り半を突き付けてきた挙句に連絡まで絶ってしまった、と……まあ、そういう顛末があったワケだ。
確かに、それを聞かされれば、俺とハルマに責任の一端があることは否めない、とも思うのだが。
ショータも後から知らされたという、カノジョが『どうしても』その日に会いたかった理由、というのが……なんだっけか、そのカノジョの誕生日だったか、二人の何らかの記念日とやらだったか、興味も無いからもはやロクすっぽ憶えてもいないが、とにかくそういう、カノジョにとっての“二人で一緒に過ごさなければならない大事な日”、だったみたいで。
そんなもの、オマエがきちっと把握してないのが悪いんじゃねーか! そもそも、途中で抜けるって事前に誰かに言っとけばよかっただけの話だろーが! と、あくまでもショータに全面的に非があることも主張したいところではあるのだが。
「ホント、面倒だよなあ……」
ツマミをつつきながらタメ息まじりに相槌を返す、このミョーに情に篤いハルマが己の責任のように受け止め過ぎてしまっている風にも見受けられるので、それがまた厄介で。
こういうハルマを迂闊にも放っておいたら最後、結局は俺まで巻き添えを食らうハメとなることは、もはや目に見えているのである。
「おい……幾らショータの頼みだからって、あんまし首つっこみ過ぎんなよ?」
「そこまで深入りするつもりはないけど……でも、可哀相じゃん。そのカノジョって、ショータが結婚まで考えてた相手だったんだろ? こうなった原因はオレたちの所為でもあるんだし、何か出来ることがあるなら、少しでも助けになってあげたいじゃん」
「周りが何をどうしようと、つまるところは当人同士の問題だ。それに、男女のイザコザに割って入ってやったところで、こっちにいいことなんてカケラも無い。だいたい、騒ぐだけ騒いだら、落ち着くところに落ち着くように出来てるんだ、こういうのは。まさに〈大山鳴動して鼠一匹〉ってなもんだ。割に合わないにもホドがある」
「うん……まあ、そうだろうけど」
「何かしてやるにしても、仲直りのキッカケ作り、程度のところまでにしておけよ。それから先は、ショータが自力で何とかすることだ。他人が手出しすべき領分じゃない。話が余計に拗れるだけだ」
「わかってる、でも……」
「確かに、あのショータじゃ自力で何とかできなさそう、てーのも分かりきっていることだが、だとしても放っておけ。そもそも、この程度で終わっちまうような仲なら、仮に今回のことが無かったとして、そう長くは保 たなかっただろうさ。なら、ここで後腐れなくスッパリ終わらせてやる方が親切ってもんだろ」
「…相変わらずドライなことで」
「こういうことは、少し冷めてるくらいで丁度いいんだよ。何も一緒に泣いて悩んでやるだけが友情じゃねえ」
「…その本心 は?」
「これ以上の面倒事はゴメンだ」
「…だと思った」
呆れたように言ったハルマが、ツマミのナッツを一つ、指で弾いて飛ばしてくる。俺の眉間めがけて。
「相変わらず、己の面倒事を回避するための正論ぶつことにだけは、よく口が回りますねーコーチはー」
「コウイチロウだ。略すな、人の名前を」
「不服なら『チロウ』で略すけど、どっちがいい?」
「だから略すなと……」
「そうかそうか、人前で、でっかい声で、『そこのチロウくーん!』とか、呼ばれたいんだな君は?」
「…『コーチ』でいいです」
「まあ、そんなつまんないことよりさ。オレ今ふっと思い出したんだけど……」
あろうことか人の名前の問題を『つまんない』のヒトコトで片付けやがってくれたハルマが、そこで傍らの卓袱台に片肘を突き俺の方へと軽く身を乗り出してきた。
「『夏の夜の夢』って、あるじゃん」
「あ? ――あー……確か『平家物語』」
「それは『春の夜の夢』だろ。『おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』、儚いものの例えだ。――じゃなくて、オレが言ってるのは『夏の夜の夢』だよ、シェイクスピアの戯曲の方」
「ああ……それな」
「絶対わかってないだろ、その反応は」
「うっすら『ガラかめ』で読んだような記憶があったりなかったり……? 確か主人公が演じた妖精がハマリまくってて、『なんて怖ろしいヤツだ…!』みたいに思われたりなんだり……?」
「記憶のもとが少女マンガかよ。しかもウロ覚えとか。…でも、まあ、それだな。その妖精パックが、物語の中心にいるトリックスターだな」
そこで一口ビールを飲んで口を湿らせてから、ハルマは続ける。
「簡単に言うと、妖精王と妖精女王の夫婦ゲンカに巻き込まれた人間たちが関係性めちゃくちゃにされてわっちゃわちゃ騒いでるだけの喜劇、なんだけどさ。でも結末は、めちゃくちゃになったものが上手い具合に纏まって大団円で終わるんだよ。オマエが言った、『騒ぐだけ騒いだら、落ち着くところに落ち着くように出来てる』っていう、まさにそのままだなーって。それでフと思い出した」
「ふうん……じゃ、やっぱり色恋の話なのか?」
「ま、そうだな。その、わっちゃわちゃしてる人間の中に四人の若者がいてさ。恋人同士のライサンダーとハーミア、そして、親に決められたハーミアの婚約者ディミートリアス、そのディミートリアスに恋するヘレナ。この四人の関係が、妖精パックの悪戯で惚れ薬を盛 られたことによって、ライサンダーとディミートリアスがヘレナに惚れてしまうことになるんだ。その後、すったもんだの挙句、終いには、ライサンダーとハーミア、ディミートリアスとヘレナ、という二組のカップルが出来上がって、めでたしめでたし、なオチで終わる」
「成程ね……上手いこと出来てる」
「いつの時代も、男女のイザコザは話の種となる、ってことは変わらないらしい」
「違いない」
そこで顔を見合わせ、ひととき笑い合っていたが。
しかし、おもむろにハルマが、笑みを消して真顔になった。
「ひょっとしたら……これ、使えないかな?」
「え……?」
「ショータとカノジョの仲直りのキッカケに、だよ」
「はア?」
「『夏の夜の夢』の、この四人の関係性を再現させる、ってどうかな。カノジョに少々の嫉妬をさせるような状況を作れば、怒りを鎮めてショータとヨリを戻そう、って思い直すキッカケになってくれないだろうか」
そこまで聞いて、何となく俺にも合点がいった。
「成程。つまり、ショータがライジンガーで、カノジョがバーバラ……」
「ライサンダーとハーミアな。――てか、名前この際どうでもいいわ。男Aと女Bが恋人同士、女Bの婚約者が男C、男Cに惚れているのが女D。以後これで」
「…つまり、ショータが男A、カノジョが女Bとして、そこに男Cと女Dを投入、男A、男C、女Dによる三角関係を作り、女Bに見せつけるような状況を作ればいい、と」
「さすがコーチ、飲み込みが早い」
「だが下手したらそれ、カノジョの怒りの火に油を注ぐことにもなりかねないんじゃないか?」
「そこは君が上手いこと立ち回ってくれれば問題ないだろ。なあ男Cくん」
「――はア!?」
あまりにサラリと付け加えられて、思わず聞き流してしまいそうになったが……それは聞き捨てならんと、俺も卓袱台へと身を乗り出し食ってかかる。
「ちょっと待てよ、なんで俺が男Cとか……!」
「その無駄に良い顔、たまには有効活用したらどうだよ」
「どこに顔が関係する要素あったよ!?」
「まあ、ショータのためだし頑張れー」
「どこまでも他人事だと思ってからにテメエは……!!」
ニヤニヤと口許ゆるみっぱなしでそれを言う、明らかにからかう気マンマンなハルマに少々イラッとはしたものの。
しかし咄嗟に浮かんだ反撃の妙案に、一転ほくそ笑んで正面を見返す。
「いいだろう、ショータのためになるならば、俺が男Cを演じることにも吝かではない」
「お、さすがコーチ、腹の括り方も潔いねェ」
「であれば、オマエも当然、女Dだからな!」
「―――はい……?」
「考えてもみろ、女D役にどこぞの女でも宛がったら、それこそカノジョの怒りが大炎上することが目に見えてるだろうが。たとえ上手く収まってくれたとして、後々の禍根ともなりかねない。だがしかし、女D役がオマエだったらどうだ? 自分のカレシの惚れた相手が男、となれば、それこそ喜劇だ。怒るより先に唖然とするだろう。そこが狙い目だ。あのショータでも、そこを突けば何とか出来そうなものではないか? となれば、やはり女D役はオマエが適任だハルマ」
「な、なっ……はああああああッ!?」
「頑張ってショータとオマエを取り合ってみせるぜ。楽しみにしてろ、マイハニー」
「…………!!」
“してやったり!”と、我ながらニマニマ口許が緩みっぱなしなのが、手に取るように分かる。
こんな俺の様子を目の当たりにしては、さぞかし勢いこんで反駁してくるだろう――と思いきや。
しかしハルマは、何も言わずに黙りこくったまま。しかも、その顔は真っ赤だ。
さすがにその反応は想定外で、拍子抜けというよりも面食らう。
思わず、どこか具合でも悪いのかと心配になってしまった。
「どうした、ハルマ?」
更に身を乗り出して覗き込んだ、そんな俺の姿にハッとしたように、その身体が勢いよく後ろへと引かれる。
「なっ、なんでもないしっ……!」
「そうはいっても、オマエ顔赤いぞ。熱でもあるんじゃ……」
「大丈夫だし! 暑いだけだし!」
そこで思い出したように、ハルマが襟元をくつろげる。仕事上がりで飲みの席へと来ていた彼は、緩めてはいたものの、まだタイもきっちり締めていた。
「ホントこの部屋、暑すぎなんだよな……!」
どこか怒ったような口調になって、しゅるりと音を立ててタイを外す。それから、くつろげたシャツを摘まみ、ばふばふと胸元へ風を送り込んでみせた。
暑い所為だと言われれば……エアコンもない部屋の主として、多少は申し訳なくも感じてしまうではないか。
「…冷凍室にアイスあるけど」
「なんだよ、それ早く言えよ!」
まだ、食べていいとも何とも言っていないというのに……勝手知ったるハルマは、一目散に冷蔵庫へと向かっていく。なんだかまるで、この場から逃げるかのように。
そして間もなく、お目当てのものを手にして戻ってきた。
だが何故かその表情は曇っている。
「よりにもよって、なんで本塁打バー……」
「好きなんだよ悪いかよ。てか、本塁打バー馬鹿にすんなよ。美味くて安くて当たり付き、っつー、これぞ庶民の味方なんだからな」
「庶民の味方すぎて、こちとら子供の頃に食い飽きてんだっつーの。せめてバーゲンダッシュ置いておけよ気がきかねーな」
「そんな贅沢する余裕があるならエアコン買うわ馬鹿者めが」
「あーあ、バーゲンダッシュ食いたかったなー抹茶とかなー」
「文句言うなら食うな」
「何も食わないとは言ってない」
あれこれうだうだ言いながらもぺりぺりと包みを剥がしているハルマを横目に眺めやり、そろそろぬるまってきたビールを喉へと流し込む。
そしてカラにした缶を脇に置くと、俺の分だと手渡されたアイスの包みを剥がし、かぶりついた。
――美味いんだけど……どうにも一本じゃ物足りないんだよなあ……。
所詮は小さな棒アイスのこと、瞬く間に食べきってしまい、残った棒を咥えたまま何気なくハルマの方に目を遣ると。
あろうことか、ヤツのアイスは、ほとんど減ってはいなかった。
何故だ!? と驚き、そのまま見ていると。
ハルマの視線は手元のスマホに落とされていて、アイスの方なんて見向きもしてない。だが時折、思い出したように手が動き、アイスを口許に持って行く。そして、ぺろりと舐める。もしくは、噛み付かずにアイスの上部あたりをかぷっと唇で咥えるように舐める。それを何度も繰り返している。…そら減らないワケだ。よもや棒アイスをソフトクリームか何かと間違えていやしないかコイツ?
考えてみたら、棒アイスを食べるハルマを目にしたのは、これが初めてかもしれない。アイスを食べている姿なら何度も見てきたはずだが、いつもカップからスプーンで掬って、お上品に、それでいて美味そうに満面笑顔で、食べていたっけか。そういう、好物を幸せそうに食べている姿がコイツ意外に可愛いんだよなあ、なんて、そのたび微笑ましく眺めていたものだった。
しかし、この熱帯夜にエアコンも無い、まさに蒸し風呂状態な部屋の中、剥き身の棒アイスなんざ、すぐに表面から融けてくる。現に俺の目にも、今しも滴り落ちそうな融けかけのアイスの姿が見えている。
なのにハルマは気付かない。スマホの画面しか見ていないから。
滴ったアイスが手にまで伝って、ようやく気付くとか……どんだけだ。
「あっ、クッソ、だからこういうアイス嫌いなんだよチクショー……!」
さっさと食っちまわない己こそが悪いというのに、それをアイスの所為にするとは如何なものか。
そもそも、表面ちまちま舐めてるから融けてくるのも早くなるんだということが、どうしてわからないのだろうコイツは。
何か不思議な生き物でも見るような視線で、俺は食い入るように慌てふためくハルマを見つめてしまっていた。
どうしてか、目が離せない。
「ったく、あちこちべとべとになるしー……」
そしてハルマは、アイスの滴っている部分を、ぺろりと大きく舐め上げた。
ついでに、その滴りで汚された手も、ぺろりと。
――どくりと、全身の血がざわついたような気がした。
それを目にした瞬間、妙に高揚感に襲われた。
無意識に身体が動いていた。
咥えたままのアイスの棒を取り落とし、卓袱台に手を突き大きく身を乗り出して……気が付いたら俺は、ハルマのアイスを持った手を掴み、その身体ごと自分の方へと引き寄せていた。
「な…なんだよ、いきなり?」
やはり卓袱台の上に身を乗り出したハルマの、その驚きに見開かれた目の前に。
掴み寄せた彼の手を持ち上げ、融けかけたアイスを掲げる。
「…ほら、舐めろよ」
「え……?」
「早くしないと、またすぐに融けてくるぞ。ほら」
掴んだままの手ごとアイスを口許に近付けてやると、どこか腑に落ちない顔をしながらも、ハルマは黙ってアイスを舐め始めた。
そこに自分の顔を近付ける。
そして俺もまた、それをべろりと大きく舐め上げた。
何故いきなりそんなことをしたのか、自分でもよくわからない。
衝動、だとしか、言いようがない。
「――――!!?」
驚きの所為か、咄嗟にハルマが頭を引いた。
でも、それ以上離れることは、掴み寄せた手が赦さなかった。
そのまま俺は、彼の手に滴ったバニラの雫を舐め上げる。
ビクリと震えて逃げようとする手を、掴んだまま逃がさず、執拗に舐め上げた。
「おまえも早く食えよ。また融けて垂れてくるだろ。それとも、このままアイス無駄にする気か?」
どことなく上目遣いで、命じる。
彼が逆らわないと……何故だろう、俺にはそれが解っていたのかもしれない。
恐る恐るといった風に、再びアイスに舌を這わせる彼に合わせ、俺もそこを舐め上げてゆく。一本の棒を挟むように二つの舌が這い、徐々にアイスを削り取っていって……やがて、互いのひんやりとしたそれが触れ合う。
ざらりと冷たい触感が劣情を煽り、もっともっととそれを求めてしまう。求め始めたら止まらなくなって、いつしか対象が、アイスから相手の舌へと変わっていた。
それが次第にキスへと変わってゆくのにも、そう時間は要らなかった。息継ぎの間すら惜しいとばかりに、唇の繋がりを解かないまま、より深く奥まで舌を挿し入れては、中を探りながら、互いのそれを淫らに縺れさせながら、次第に快感を高めていく。
赦されるなら、このまま永遠に時が止まってしまえと願った。
しかし、息の上がったハルマが、それを赦してはくれなかった。
「――どう…して……」
ひととき唇を離した隙に、差し挟まれた言葉。
「こんなこと、なんで、いきなり……」
「さあ? どうしてだろう」
「誤魔化すな……!」
「別に、誤魔化してるワケじゃない」
「じゃあ、何の嫌がらせだよ! 幾らオレがオマエのこと好きだからって、突然ワケもなくこんなことされて、喜ぶとか本気で思ってんのかよ!」
「―――は?」
「それとも、からかってんのか? こうやって狼狽えるオレを見て嘲笑いたかった? じゃなきゃ、所詮ホモはこういうことされたいんだろ、って下に見てんのか? ――ざっけんな……!!」
「て、おいハルマ、ちょっと待てよ、つか落ち着け……!」
次第に激昂していくハルマの、そうしながら逃げようとする身体を、半ば押さえ付けるかのように掴み寄せ、卓袱台の上に押し付ける。
「勝手に一人合点してねえで、俺にもまず確認させろっ……!」
そうして固定した彼の視線を捕らえ、俺は尋ねた。
「てか、初耳なんだが……オマエ、俺のこと好きなのか?」
その問いを投げた途端。
まさに火が点いたかの如く、ハルマの頬がぶわっと赤く染まる。おまけに、“何でそれ知ってるの?”とでも言いたげな表情になって、口をぱくぱくと開け閉めしながら唇をわななかせている。
やはり、さきほどの告白は、彼の意図していないところから無意識に発されていた言葉だったらしい。それほどに動揺していたんだろう。
だが、だからこそ真実であることを、それは雄弁に語っている。
「驚いたな……」
「ごめん……男からそんなふうに思われても、気持ち悪いだけだよな……」
「いや、別段そういった感情は無い」
「え……?」
いったん項垂れかけていた頭が、弾かれたように持ち上がる。
改まったように、今一度まっすぐに彼の視線を捕まえて、俺はそれを答えた。
「気持ち悪いどころか、むしろ今、満更でも無い気分だ。ハルマから想われていることが、素直に嬉しいと思うぞ」
「…………」
「俺の方にしたって、衝動的にああいう行動に及んでしまうくらいには、オマエのことは好ましく思えていたワケだし……てことは、どういうことだ? 俺もホモなのか? だからオマエを好きだ、ということになるのか?」
「それオレに訊かれても……」
「じゃあ……もう一回、確かめてみればいいか」
呟くように言いながら、おもむろに押し付けていたハルマの身体を、抱え込むように引っ張り寄せた。
「え、なに……?」
彼に問う隙すら与えず、すかさず卓袱台から引き剥がし、畳の上に転がす。
と同時に、問答無用でキスをした。
仰向けでビクリと震えるハルマの肩のあたりを、押さえ付けるようにして逃がさない。そうして心ゆくまで、その唇と舌の柔らかさと、そして口内のバニラ味を、存分に味わう。くちゅくちゅとした、はしたない水音に煽られるかのように、より深く溺れたいと乞う想いが暴走する。
それは、まぎれもない情欲に他ならなかった。
「――もう……何が何やら、展開が早すぎて頭が付いてけない……」
まさに、息も絶え絶え、といった体でそんな呟きを洩らしたハルマに向かい、俺は何事でもない風に応えてやる。
「おおかた、悪戯好きな妖精に惚れ薬でも盛られたんだろ」
*
真夏の熱帯夜に見る夢は、どうやら一夜限りでは醒めないようだ。
暑さに浮かされて始まったような関係でも、意外に冷めはしないものだな。ぬるま湯に浸かっている日々も、存外、悪くはない。
そうそう、件のショータとそのカノジョについてだが。
俺たちが『夏の夜の夢』作戦を敢行するまでもなく、早々に『春の夜の夢のごとし』と散ってしまった、――とだけは、一応報告しておこうか。
〈終〉
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