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第1話

色とりどりの花火が、いくつもいくつも夜空に咲いては消えていく。 パッと大輪の花を咲かせて、一瞬で命を終えるみたいに。 大きい花火が上がると、あちらこちらで歓声があがった。 綺麗で儚くて。 美しいのに切なくて。 目を奪われて、ため息がこぼれた。 僕と幼馴染みの真絋(まひろ)は、山の上で行われる花火大会に来ていた。 海や河の花火ならよくあるけれど、山の上で上がる花火は珍しいと思う。 音もダイナミックで、山あいに響き渡るから、体に直接響いて、他の花火とはまるで違う体感が味わえる。 ドーン! また、雷が落ちたみたいな地鳴りがした。 いうまでもなく迫力は満点だ。 少し離れた所で、子供の泣き声がする。 子供の頃は、僕もこの音が怖かった。 花火大会がはじまる二時間前。 シャトルバスに乗って、この会場に来たときから、僕は懐かしさで胸がいっぱいになって。 ひとりでに涙が溢れてくるのを、とめられなかった。 「大丈夫か?雪瑠(ゆきる)」 真絋が心配そうに、僕の顔をのぞきこんできた。 「うん、大丈夫」 僕はちょっと強引に涙を拭うと、真絋に向かって笑ってみせた。 僕たちは、人の多く集まる展望台を避けて、あまり人気のない場所に腰をおろした。 子供の頃に見た時も、この場所だった気がする。 目の前には、広大でなだらかな緑の丘陵が広がっていた。 空も近い。 山の上にこんなに綺麗な景色があるなんて、誰が想像するだろう? 西に傾いた陽射しを受けて、緑の大地は茜色に染まりつつあった。 もうずっと前からここにきて、山の花火を見たいと思ってきた気がする。 やっと願いが叶った。 そう思うと、なんだか感慨深さを感じた。 * 母が病気で亡くなってから、十一歳になるまでの五年間。僕は八つ違いの兄と、母の実家だった田舎の家で過ごした。 隣の家には、同い年の真絋が住んでいて。僕たちはいつも一緒に遊んだ。 母が亡くなって、寂しくなかったといえば嘘になる。 だけど、田舎での生活は、毎日が冒険の宝庫みたいだった。 虫取りも、川遊びも、秘密の基地も。 日が暮れるまで。日が暮れてからも。 僕たちは夢中で遊んだ。 そんな僕たちを、智晶(ちあき)兄さんは、すぐ傍らで見守っていた。 真絋と兄さんと三人で過ごす時間が、僕には何より大切で、かけがえのない時間だった。 小学五年生の夏休み。 その頃の僕は、髪が長いわけでもないのに、よく女の子と間違われた。 だからというわけではないと思うけど。 ある夏の夕暮れ、真絋が突然言った。 『オレ、ゆきるが好きだ。お前、可愛いし、優しいから、すっげー好きだ。だから、大きくなったらゆきるをオレのお嫁さんにする!』 『うん、いいよ!僕もまひろのことが大好き』 差し出された小指に。 小指を強く絡めて、二人で力強く振る。 『ゆーびきりげんまん!』 『ゆーびきりげんまん!』 『こらこら、真絋(まひろ)雪瑠(ゆきる)は男の子だから、お嫁さんにはできないよ。雪瑠も……』 『えーっ?なんでー?』 『なんでー?』 『何でって言われても……』 『オレたち、結婚するからな~』 『ね~』 子供二人に詰め寄られて、困ったような兄さんの顔。 茜色に染まる田んぼの畔で。無邪気に交わした子供同士の約束。 暑い日が続いていたけど、僕たちには関係なかった。毎日がただ楽しくて。ドキドキして。大声で笑い転げていた。 『今日の夜、花火あるんだぜー。あの山の上で』 真絋が拾った木の棒で、ビシッと山の上を指す。 『花火?僕も行きたいっ』 決して高くない山は、見た目にもなだらかな稜線を描いていた。 『ゆきるも一緒に行こうぜ。あの上までバスに乗って行くんだぜ』 真絋から聞いた僕は、好奇心を抑えきれず、すぐに兄さんにねだった。 『お兄ちゃん、僕も行きたい』 『だめだよ、雪瑠』 『ちあきも一緒に行けばいいだろ?それなら、安心だし?』 真絋のひと言で、僕たちは山の花火を観に行くことになった。 いくつもいくつも上がる花火は綺麗で。雄大で。 花火をこんなに間近で見るのははじめてだった。 地鳴りのように響く音が、大きくて怖くて。僕は目を潤ませて、涙目になっていた。 『ゆきる、怖いんだろ?』 『う、うん……』 『手、つないでやる』 真絋にぎゅっと手を握られる。 汗ばんだ真絋の手。 それでも、なんだか心地よくて。 安心した僕は、怖さが少し和らいだ。 『そろそろ、でっけーヤツ来るぞ!しっかり、見とけよ!』 『うん!』 ヒュ――。 独特の音を立てて、空高く昇っていく火の塊。 夜空全体に、大きく(しだ)れた柳が姿を現した。オレンジ色の光が一瞬、暗闇を明るく染める。 火の粉の帯をゆっくり垂らしながら、揺らめいてやがて消えていく。 すごく綺麗で感動したけれど、僕には柳のお化けに見えて、やっぱりちょっと怖かった。 『怖がりだなー。ゆきるは』 気づいた真絋に笑われて、ちょっと恥ずかしかった。 でも、真絋がもう一度強く僕の手を握ってくれたから。 嬉かったことを覚えている。 怖かったけど、山の花火は、この土地にきて一番の思い出になった。 夏祭り。スイカ割り。そうめん流し。バーベキュー。 たくさんの夏休みの思い出。 最高に楽しい夏。 ずっと続くと思っていたのに。 それは、ある夜を境に、突然終わりを告げた。 湿気を含んだ生温い風が、じっとりと肌を蝕むような、暑い夜だったことは覚えている。 お兄ちゃん、なんで僕を、裸にするの? なんで、僕にさわるの? 窓辺で風鈴が揺れてた。 その涼しげな音色とは裏腹に。 畳の上で、手足を押さえつけられて。 何かで口を塞がれて。 僕は兄さんに犯された。 やめて……! い……たいっ、痛いよ……! こんなの嫌だよ――! 心の中では必死に叫んでいた。 抵抗もできないまま。 犯すとか、犯されるとか。そういう言葉すら知らない頃だった。 痛みで気を失ったのか。 気がつくと、いつの間にか高く昇った満月の光が、部屋全体を明るく照らしだしていた。 痛みに呻きながらも顔をあげた僕は、目を見開いて硬直した。 それは異様な光景だった。 障子や畳に飛び散った鮮血。 むっとするような血の臭気。 夏だというのに、凍りつくような感覚。 体が(おこり)のように、ブルブルと震え出す。 血溜まりの中、兄さんは息絶えていた。 ナイフで首を切って。 『あ、あっ、ああっ、あああぁぁ――ッ!!』 僕はパニックになって、声にならない声で叫んだ。 誰かが慌てたように駆けつけてきて、その場は大騒ぎになった。 悲鳴のような叫び声。飛び交う怒号。 警察がきて、僕も事情を聞かれたけれど、その後のことは、ほとんど覚えていない。 ねぇ、兄さん。 大好きだったのに、なんでいなくなったの? なんで、僕にあんなことしたの? そして、真絋とも。 夏の終わりと共に、真絋は引っ越していった。 突然の引っ越しだった。家族揃って。まるでその家から逃れるみたいに。 兄さんの自殺が関係していることは、何となくわかった。 真絋がひどく荒れて、不安定になっていたからだ。 別れの日。 『ゆきる!ゆきる!!オレ、次はぜったいにお前のこと、守るから!ぜったいに、ぜったいに、守るから!!オレのこと、忘れんな――!!』 真絋が家族に引きずられながら、必死に叫んでいたけれど、壊れてしまった僕の心には、あまり響かなかった。 十一歳の夏。 悲しすぎる二つの別離。 耐え難い喪失の中。 僕は別の親戚の家に預けられることになった。 すべてがどうでもよくなっていた。 この体は仮の器みたいで。 心はどこかに置き去りで、ぽっかりと大きい穴が空いたままだった。 子供のいなかった叔父さんと叔母さんは、僕を本当の子供のように可愛がってくれた。 そんな二人の愛情を受けて、僕は少しずつ回復していった。 でも、心の底から笑うことは難しかった。 思い出すのは、兄さんと真絋と過ごした田舎の日々だった。 きらきらと輝いていたはずの時間。もう戻らない大切な日々。 そして、時折、あの夏の夜の出来事が、悪夢のようにやってきて、僕を苦しめた。 兄さんに受けた凌辱だけなら、まだ堪えられた。 その後目にした凄惨な光景が、僕の脳裏にこびりついて、離れなかった。 ほとんど行くことがなかった小学校。休みがちながらも何とか通った中学校を経て、無事に高校へと進学することができた。 辛い日々の中、僕を支えてくれたのは、バカみたいに明るい、太陽のように眩しい真絋の笑顔だった。 もう一度、真絋に会いたい。 日増しに想いは募ったけれど、真絋がどこに引っ越したのか、僕は知らなかったし、手がかりもなかった。 でも、もう一度真絋に会えるなら。 その時は、笑顔で会いたい。 それが、僕の生きたいと願う力になった。 兄さんが亡くなってから八年目の春。 僕は大学生になり、叔父さんの家を出て、大学の寮へ入った。 * 「探したよ、雪瑠(ゆきる)……」 声をかけられたのは、大学のキャンパスだった。 5月の半ば。 緑の鮮やかさが、日増しに増していく頃だった。 振り返った僕は、驚いて目を見開く。 「真絋(まひろ)……?」 背が伸びて逞しく。 ずいぶんと大人びて、カッコ良くなった真絋が、そこには立っていた。 運命としかいいようのない真絋との再会。 信じられなくて。 本当に、本当に嬉しくて。 僕たちは、その日、夜遅くまで。 お互いに、どう過ごしてきたかを語り合った。 兄さんが亡くなってからの八年間のことを。 * 「雪瑠、学食行こうぜ」 「うん」 学食まで、真絋と一緒に肩を並べて歩く。 「俺はガッツリ食いたいから、バイキングにするけど。雪瑠は?」 「僕は普通のメニューでいい」 「夜もバイトだろ?しっかり食わねぇと持たねぇぞ」 「これでもちゃんと食べてるよ。真絋みたいにバカ食いはできないよ」 「バカ食いってなんだよ?」 「バカみたいによく食べるじゃん」 「腹がへるんだから、しょーがねーだろ」 僕は思わず笑う。 何気ない会話でも、真絋が相手だと楽しかった。 「あっ、笑った」 僕が笑うと、真絋は嬉しそうだった。 「かっ……」 「可愛いとか言うの、ナシね」 学部が違うのに、真絋はよく僕を誘ってくれた。八年もの間、会わなかった月日が関係ないくらい、僕たちはまたすぐに仲良くなった。 少しでも真絋と一緒にいたくて、寮の部屋も同室にしてもらった。 真絋といるだけで楽しくて。 まるで、色褪せてしまった灰色の世界に、光が射し込んで明るくなるような。 真絋と一緒にいると楽だった。取り繕わなくていいし、等身大の自分でいられる。 子供の頃から、そうだった。 真絋は不思議と、僕を楽しくてわくわくする方へ導いてくれる。 そして、時に、溢れんばかりのパワーで、智晶兄さんを圧倒することもあった。 どんどん真絋に惹かれていく自分を、僕はとめられなかった。 思えば、真絋は僕にとっての初恋の人だった。 子供の頃から、勇敢でリーダーシップがあり、引っ込み思案な僕を、グイグイ引っ張ってくれる存在だった。 「雪瑠。俺、やっぱりお前が好きだ。俺たち、付き合わねぇ?」 7月の終わり。蝉が盛んに鳴く夏の夜。 真絋に告白された。 「ガキの頃の気持ちは、錯覚じゃなかったって。もう一度、お前に会って思ったよ。俺、本当にお前のこと、好きだったから……」 素直に嬉かったから。 僕は躊躇わなかった。 「……うん。僕も真絋が好きだ。だから、いいよ」 子供みたいに嬉しそうに破顔して。 僕の体に飛びついて抱きしめた真絋の顔を。 僕はこれから先も、ずっと忘れないんじゃないかと思った。 子供の頃の約束が、違わぬものであるかのように。 僕たちは、付き合いはじめた。 男同士だとか、あまり関係のないことに思えた。 もちろん、周囲には内緒で。カミングアウトもしなかったけど。 僕には真絋が必要で。 真絋にも、たぶん僕が必要だった。 僕たちには、忘れることのできない共通の「傷」があった。 「智晶兄さんの死」という。 だけど、二人ともどこか核心には触れられずに。 窮屈に圧し殺していた。 どんなに笑って過ごしても、時々、逃れられない呪縛のように。 それは重い沈黙になって、二人の間に現れた。 僕の傷も深かった。 でも、真絋の傷も、ぼくが思うより深かったなんて。 その時の僕は、まだ知らなかった。 * 真絋(まひろ)と付き合いはじめてから、あっという間に一年が過ぎ、僕たちは、大学二年生になった。智晶(ちあき)兄さんが亡くなってから、実に九年目の夏を迎えていた。 「俺、雪瑠(ゆきる)を抱きたい。もちろん、今すぐじゃなくていいから……」 二人きりの寮の部屋。 ちょっと長めのキスのあとで……。 真絋の口から、ストレートに告げられたのは、大学が夏休みに入ってすぐの夜だった。 キスは何回かしたけれど、交際から一年が経っても、僕たちはその先へは進んでいなかった。 すぐじゃなくていい。 そう言いながら、真絋が我慢しているのがわかった。 真絋の()が欲望に濡れて。 声がかすかに掠れていたから。 本当はずっと前から気づいていた。 真絋が一線を越えたがっていることを。 このまま、真絋に委ねて。 流れに任せれば良かったかもしれない。 でも、このままじゃいけない気もしていたし、真絋には、いずれ隠しておけなくなると思った。 だから――。 「ねぇ、真絋、聞いて……」 僕は静かに切り出した。 「真絋としたくないわけじゃない。でも、怖いんだ」 いざというとき、真絋を拒絶してしまったら? あの夏の夜のことを思い出して、パニックになってしまったら? 「兄さんが亡くなったあの日。あの夜、僕は兄さんに押さえつけられて、無理矢理……」 真絋が僕の唇に、そっと人差し指を当てた。 「全部、言わなくていい、雪瑠。俺も……お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」 真絋の瞳が、躊躇いがちに揺れる。 けど、すぐに何かを決意したような、強い力がそこに宿った。 「あの夜、俺は見たんだ……」 「え? 」 「俺はお前を脅かすつもりで、こっそり隣の家に忍び込んだ。ちょっとした遊び心だったんだ。襖を開けたら……智晶さんが、お前を……」 僕ははっと目を見開いた。 体がスッと冷たくなって。血の気がひくような感覚があった。 真絋が何を言っているかわかった。 「その時、智晶さんと目があった。二人が何をしてたかなんて、ガキの俺にはわからなかった。けど、お前を助けなきゃって思ったはずなのに。俺はできなくて。怖くて逃げた……」 真絋が来たことを。 僕は知らない。 その時、僕の意識は、すでになかったのだろう。 「見ちゃいけないものを見たのはわかった。あの時の、責めるみたいな智晶さんの目が、ずっと頭から離れなくて……!」 苦悩に歪む真絋の顔。 「智晶さんが亡くなったのは、たぶん、そのすぐ後だ……。俺のせいで。智晶さんは……!そう思ったら怖かった。……本当は、もっと早く言うべきだったのに。ずっと言い出せなかった!ごめん!!」 最後は、血でも吐くかのように叫んで。 悲痛に満ちた真絋の告白。 それを聞いても、僕は冷静でいられた。 僕の中で、兄さんの死を、受け止められるようになっていたからだ。 真絋を責める気持ちも、微塵も起きなかった。 僕と同じ十一歳だった真絋が、どれだけの罪の意識を抱えて生きてきたのか? 自分を責め続けて生きてきたのか? それを思うと、胸が締めつけられるみたいに痛かった。 真絋にとっても大切だったはずの兄さんを。死へと突き落としたかもしれない。 弟から、たったひとりの肉親である兄を、奪い去ったかもしれない。 それを僕に話すことは、どれだけの葛藤と勇気がいっただろう? 「話してくれてありがとう」 僕は震える真絋の肩に手を置いた。 「苦しかったね、真絋。ずっと、苦しかったね……」 そのままゆっくり肩を引き寄せて、真絋の頭を腕の中に抱いた。 『次はぜったいに、お前のこと守るから!』 引っ越しの日、真絋が叫んでいた言葉。 その意味が、ようやく繋がった気がする。 こんなにも辛い出来事を。 忘れて生きられたら、どんなに楽かもしれない。 真絋には、その選択肢もあったんじゃないだろうか? 僕ら兄弟には関わらず、自分の記憶から消して生きていくという。 だけど、真絋は僕を探してくれていた。 この大学で出逢ったのは、偶然だとしても。 僕を見つけても、知らないふりもできたはずなのに。 会いたいと思ってくれた。 あの日、僕を見つけて声をかけてくれた。 「真絋のせいじゃない。だから、自分を責めないで……」 真絋の強ばった背中を優しく撫でる。 「たぶん、兄さんは、もっと前から壊れてた。子供の僕は、気づいてあげられなかった。けど、遅かれ早かれ、ああなってたんじゃないかって……」 母さんが病気で亡くなって。父さんとは離婚してずいぶん前に音信不通になっていた。 兄さん自身は受験に失敗して、浪人してて……。 小学生の僕を抱えて。 きっと、自分が何とかしなきゃって焦って。 だけど、どうすることもできない絶望があったんじゃないだろうか? 「でも……」 真絋が僕の両腕を掴んで体を起こす。 真絋の眼差しは、どこまでも真摯に向き合おうとしていた。 「引き金を引いたのは、たぶん、俺だ……。俺が、雪瑠と結婚するなんて言ったから」 「え?そんな……!」 子供同士が交わした口約束。 そんなことで? 「俺、わかるんだ。雪瑠のこと、本当に好きで見てたから。雪瑠の先には、いつも智晶さんがいて。雪瑠を見てた。……智晶さんも、お前のこと、好きだったんじゃないかって」 僕は首を横に振る。 「もう、よそう。どうしたって、真実はわからないんだ。兄さんはいないんだから」 真絋は、はっと息をのんだ。 「僕もたくさん自分を責めた。どうしてあんなことなったんだろう?なんで、兄さんを助けてあげられなかったんだろうって」 涙が溢れてきたけれど、僕は真絋から目を反らさなかった。 「兄さんのこと。忘れるわけじゃない。でも、僕たち、もっと自分を生きよう。真絋も僕も。自分を責めて。責め続けて。罪の意識と、もう充分すぎるくらい向き合ってきたから」 ずっと思ってきたことだ。 真絋と再会してからは特に。 過去に囚われ続けて、思うように生きない人生を、僕は選択したくない。 真絋の頬を両手に包んで。 真絋の瞳をのぞきこむ。 真絋の黒い瞳に、僕が映りこむくらい近くで。 「もう。自分を許していい。誰よりも、僕たちが、自分のことを許してあげよう。ね?真絋……」 長い沈黙の後で、ふわりと真絋が笑った。 曇りのない、どこかふっきれたような笑顔で。 「そうだな。ありがとう、雪瑠」 僕の涙を親指でそっと拭って。 今度は僕が真絋に抱きしめられる番だった。 「強くなったな、雪瑠。……また、雪瑠のこと、好きになった」 真絋の腕の中で、僕も自然に笑うことができた。 「……真絋、行きたい所があるんだ」 真絋の胸に頬を預けて、僕はぽつりと呟いた。 7月の最後の土曜日。 確か毎年その日は、あの山の花火大会だったはずだ。 もうすぐその日が来る。 少し前から思っていたことだ。 もう一度二人で。 真絋と一緒に、三人の思い出の場所に行きたい。 一番(そら)に近い場所で。 兄さんの魂を還しに行こう――。 僕と真絋が一歩踏み出して、僕たちの人生を生きられるように。 * 花火は上がり続けている。 「雪瑠?」 何も言わないで、花火の群れをただ瞳に映す僕を、真絋がのぞきこんでくる。 「お前、すぐに心がどっかに行くから。しっかり捕まえとかないと、消えてなくなりそうだ」 「大げさだよ。ちょっと考えてただけ」 「何を?」 「あの頃は二十歳なんてずっと大人だって思ってたのに。いざ、自分がその歳になってみると、全然大人なんかじゃないよね」 子供の頃は兄さんは、ずいぶんと大人に見えた。 でも、兄さんの年齢と並んだ今ならわかる。 二十歳なんて、たいした大人でもないことが。 「そうだな。ガキの頃と中身はそんなに変わんねぇな」 兄さんは二十歳まで生きなかった。 僕たちは次の誕生日を迎えたら、兄さんが生きた年齢を越える。 「俺たち、追い越すな。智晶さんの歳を。しっかりしなきゃだな」 僕は頷いた。 僕は僕の今を、しっかりと生きたい。 「真絋。一番大きい花火が上がったら、願い事をしよう」 「わかった」 そろそろ、三尺玉が上がる時間だった。 火の玉は音を立てて、どこまでも高く昇っていく。 そして、闇を照らすように、大きく咲いて光の波を広げた。 子供の頃は柳のお化けみたいで怖かった。 今は綺麗だ。 どこまでも、ただ綺麗だ。 真絋が僕の手を、力強く握りしめてきた。 兄さんのこと、大好きだったよ。 忘れるわけじゃない。 でも、もう(そら)に放つね。 好きな人に、めぐり逢った。 一緒にいたいと思う人に、再び出会ったんだ。 僕は僕を生きる。 真絋と共に生きる。 だから、見ていてね。 (そら)から見守っていてね。 オレンジ色の光が粉々になり、夜空に溶けて消えたとき。 僕の中の兄さんが昇華した。 握りしめてきた罪悪感と共に。 魂が(そら)に昇った。 そう感じた。 花火が散った後には、一瞬の静寂があり、はっきりと星空が見えた。 鈴なりの星たち。夏の大三角形を跨いで続くミルキーウェイ。 ああ、やっぱり空が近い。 吸い込まれてしまいそうなほどに……。 真絋が僕の手を離して、肩を抱いた。 「離さないから」 肩にかかる手に力がこもる。 「俺、雪瑠をくださいって言った。智晶さんに。雪瑠はずっと、俺が守るからって」 夜風が吹き抜ける。 「離れないよ」 ずっと離れない。 「ありがとう、真絋。一緒に来てくれて」 ありがとう、兄さん。 ありがとう、真絋。 この日のことは。 生涯の記憶に留めて。 決して忘れることはないだろう。 ひと夏の夜。 山の花火。 -- 完 --

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