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第1話
夏はバイクで駆け抜けるのが心地よい。
蒸し暑い空気も、時速五十キロのスピードで突き進めば快適だ。
俺はとある田舎道を一人でひた走っていた。
後ろへ飛んでいく景色は田んぼや畑ばかり。コンビニやホームセンターもしばらく見ていない。本当に緑と山しかない、超がつく田舎だ。
俺がなぜこんなところにいるのか。話は二日前に遡る。
その日の夜、弟が交通事故に巻き込まれて足を骨折してしまったのだ。弟はそのまま入院することになり、そこに母も付き添った。父は仕事が忙しい時期だからその晩は帰宅しなかったので俺は一人、家で夏休みの暇な暮夜を持て余していた。
そこへ母から一本の電話がかかってくる。
明後日からのお盆の時期、祖父母の家に行ける人がいないから俺一人で行ってくれとのことだった――
「一人でこっち来んのは初めてだけど、割と良いもんだな」
父の影響で好きになったバイクの免許は、高校を卒業してすぐに取得した。大学二年になった今では、休みの日にツーリングをするのが趣味になっている。
そんな俺にとって、盆正月にしか来ないとはいえ、いつも父が運転する車で走る田舎までの道路をバイクで辿るというのはなかなかに魅力的だった。こんな田舎道を走るのは初めてだから。これまでに何度も通ったが、この身に風を受けて走ると全く別の道のように思える。
自宅を出て既に三時間以上が経っていた。祖父母の家はすぐそこだ。
母に「お義父さんとお義母さんも会いたがってるわよ。どうせ夏休みなんて暇してるだけなんだから、顔見せにいってあげなさい」と言われた時は正直、面倒だと思った。だが普段とは違う体験ができているので来てみて正解だ。
やがて祖父母が暮らす一軒家が見えてきて、俺はバイクのスピードを落とした。都会とは違って土地が余るほどあるので、この辺りはどこも一軒一軒が広く、庭や畑を有している。山を持っている人も少なくない。
祖父母も例外ではなく、俺も子供の頃はよく山で虫取りをしたり弟と走り回ったりしたものだ。
目的地に着いた俺はバイクを庭に停めに行った。このバイクは父のお下がりなので、もちろん父の体格に合わせた大きさだ。だが身長が伸び悩んでいる俺にとっては足つきが悪く、こうしてシートにかけている時はつま先が地面に付く程度だ。いつかアルバイトで貯めた金で自分のバイクを買うのが夢だったりする。これに乗り降りする度に自分の身長を意識させられるから、早く自分に合ったものが欲しいのだ。
「よいしょ、っと」
バイクを降りて真っ先に玄関へと向かう。
鍵のかかっていない引き戸をガラガラと開け、元気よく声をかけた。
「じいちゃん、ばあちゃん、ただいまー!」
***
二日後の夕暮れ、俺は二人に見送られて家を出た。
ただでさえ何もない田舎なのに祖父母と三人だけというのは退屈を覚えずにいられなかったが、たまにはこういうのんびりした日があっても良いのかもしれない。
(こっちの方がゆっくりできるけど、やっぱりどこに行っても暑いなぁ)
今年の異常気象並の猛暑は、この土地にも連日の真夏日をもたらした。もはやコンクリートジャングルだろうと山の中だろうと変わらないくらいだ。
(水分補給でもしていくか)
俺はコンクリートで舗装された片道一車線道路の脇の木陰にバイクを停め、背負っていたリュックから水筒を取り出した。中には祖母に持たされた、しそジュースが入っている。
「それにしても、本当に暑いな……」
独りごちるが、それは田んぼに棲む蛙の合唱の中に紛れ込んでしまった。
(なんて言ってても始まらない。走ってれば風が当たるし、もうちょい頑張るか)
ヘルメットを被り直し、俺は再びバイクに跨がった。
そしてエンジンをかける。
――が
「あれ?」
エンジンの始動ボタンを押したのに、うんともすんとも言わない。
何度もやってみたが駄目だった。そこで一旦シートを降り、キックレバーを踏み込んでキックスタートを試みる。
それでもバイクは動く気配を見せなかった。
自宅を出る前に軽くメンテナンスはしておいたのだが……
「もしかして、バッテリーが上がったとか?」
父のお下がりで、それなりに使い込んでいるこのバイクならその可能性もある。
だが全く動かないとなると、レッカーを呼ぶしか方法はない。
「まじかよ~、ツイねえの……」
この炎天下の中、帰る手段を失うのは辛い。祖父母の家まで引き返そうかとも思ったが、ここからだと歩いて行くには一時間以上かかるだろう。重いバイクを押しながらそうするのはさすがに気が引けた。
諦めて助けを呼ぼうと、スマートフォンを取り出す。が、その画面を見てぎょっとした。
「け、圏外!?」
周囲は山だらけで、電波が届かなくても仕方のない環境だ。しかし今通信手段が絶たれるのは心底困る。俺はなりふり構わず、腕をめいっぱい伸ばしてスマホを掲げたり振ったり、飛び跳ねたりしてみる。
汗だくになりながらもそれを続けるが、一向に電波が入らない。
「頼むから、電波、来てくれっ!」
「あの……何をしていらっしゃるのですか?」
「え?」
背後から声が聞こえてきて、俺は驚いてその方を振り返った。
そこには長身で細身の男性が立っており、不思議そうにこちらを見つめている。
まさかこんな所に人が居るとは思っていなかった俺は、恥ずかしさと気まずさが入り乱れて必要以上に動揺してしまった。慌ててヘルメットを脱ぎ、弁明する。
「いやあの…これはっ、で、電波が! ここ圏外になってるので!」
「そうでしたか。てっきり、新しいダンスでもしているのかと思いました」
「ダ、ダンス……」
確かに腕を空高く上げて振って、飛び跳ねていればそう見えるかもしれない。
それにしても、男性の方こそこんな所で何をしているのだろう。
車なんてほとんど通らない田舎道。彼は手ぶらで立っている。しかも車やバイク、自転車に乗っていた様子でもない。乗り物がないと生活できないこの場所で、その身一つの彼はとても不自然だった。
「どこかに連絡をしようとしていたのですか?」
「あ、はい。バイクが動かなくなっちゃって……レッカーを呼ぼうとしてたんです」
俺は隣にあるバイクを親指で指す。
「なるほど、それは大変でしたね。――もし良かったら、私の家の電話を使いますか?」
「良いんですか!?」
「もちろんです。外にいるのも暑いですし、私の家で休みがてら電話を使っていって下さい」
「ぜひ! お願いします!」
この状況で現れた彼はまるで救世主。いや、神様のように思える。
灼熱の砂漠に現れたオアシス。はたまた天国から垂れてくる蜘蛛の糸。とにかく、今の状態を打破してくれる唯一の存在である彼に、俺は藁にも縋る思いで頭を下げた。
(良かった~。バイクが壊れたのは不運だったけど何とかなるかも)
「では行きましょうか。私の家、この近くなので」
「はいっ!」
彼の素性は分からないが、見ず知らずの俺に手を差し伸べてくれるくらいなのだから、優しい人だろう。
歩き出した男性の後を、俺はバイクを押しながら付いていく。
彼は道路脇の砂利道に入ると途中で左に曲がり、三十メートルはありそうな長くて緩やかな坂道を登っていった。両脇に生えているのは松の木だろうか。この一本道を周囲から隠すように何本も植わっている。
「バイク、重くありませんか? 私も押しましょうか」
「いえ大丈夫です。俺一人でいけるんで」
途方に暮れていたところを助けてもらっただけでも有り難いのに、これ以上彼の手を借りるのは申し訳ない気がした。申し出を断られた彼は「手伝いが必要ならいつでも言って下さいね」と言って前に向き直る。
口調も穏やかでこちらのことを気遣ってくれるし、本当に良い人に出逢えて良かった。
「それにしても、貴方のような若い方がいらっしゃるとは珍しいですね。こんなところまでツーリングですか?」
「ああ、いえ。祖父母の家に行っていたんです。その帰りにバイクが故障しちゃって」
「そうでしたか。私が散歩をしていて良かったですね」
(なんだ、散歩中だったのか)
それならば彼の不自然な格好にも説明がつく。都会ならばポケットに財布だけを入れてコンビニへ歩いて行く、なんてこともあるが、ここでそれをやろうとするのはお勧めできない。都会でコンビニまで二往復するくらいの時間が、片道でかかってしまうからだ。
(ていうか、俺のこと『若い』って言ったけど、この人も充分若い…よな……)
俺とは十も離れていなさそうだ。その割に妙に落ち着いている、俺の周りにはいないタイプの人だった。
「着きましたよ。バイクは玄関の横にでも停めておいて下さい」
「あっはい」
バイクが故障してしまった所から五分ほどで彼の家に辿り着いた。そこは古民家風の一軒家で、祖父母の家ほどではないが、広い敷地に建っている。バイクの鍵を抜いて、先に中へ入っていった男性に続いた。
「どうぞ上がって下さい」
「お邪魔します……」
玄関には彼のものと思われる靴が二足あるだけ。ひとり暮らしなのだろうか。だとしたら広すぎて部屋を余らせていることだろう。
「そこが居間なので座っていて下さい。冷たい麦茶でも持ってきますね」
「いえそんな、お構いなく」
すると彼は微笑んで台所へと向かった。社交辞令ではなく、頼りすぎるのが申し訳なくて本当に断ったつもりなのだが。
ここまで来てしまったのだ、彼の言葉に甘えさせてもらうことにした。
居間の隣の台所から、グラスの音や冷蔵庫を開閉する音が聞こえてくる。
(……何て言うか、この家…すごく静かだな)
俺たち以外に人の気配がしないし、家の裏にも木が生えているので部屋が薄暗い。にも関わらず電気が点いていないので、少し空気がひんやりしているように感じた。
縁側の窓が開け放たれているため、あまり気にするほど暗くはないのだが……
「お待たせしました」
男性が麦茶のグラスを二つ持ってきてくれた。それをちゃぶ台に置いた彼は、俺の正面に正座する。
こうしていると男性のことがよく見える。黒髪の彼はグラスを持つ手もすらりとしていて、品がある。一見優しそうなのに、その顔からは感情が読み取りにくく、ミステリアスな雰囲気を纏っていた。
「あの……ここには一人で住んでるんですか?」
「うーん、一人暮らし…と言うのは少し違うかもしれないですね。ここは私が別荘として使っているんです。家は東京にありますよ」
「へー、別荘」
「実は私、文章を書く仕事をしておりまして。仕事に煮詰まるとよくここに来るんです」
文章を書く仕事というと、小説家だろうか。それともライター?
初対面の人にどこまで訊いて良いのか分からかったし、今日だけの関係だろうから詳しい事は謎のままにしておこう。
「麦茶、おかわり要りますか?」
彼が空になった俺のグラスを見て尋ねてくる。
「大丈夫です。あ、あとお手洗い借りても良いですか……?」
冷たい麦茶のお陰で身体が冷えたのかもしれない。俺は控え目に申し出た。
「構いませんよ。廊下に出て突き当たりを右です」
「ありがとうございます」
彼に合わせて正座をしていたら足が痺れてしまった。それを悟られないようにそっと立ち上がり、廊下に出る。窓の外に見える空は、太陽が山の向こうに隠れているため紫色に染まっていた。
(なんか緊張するな~)
彼は至って穏やかなのに、どこか空気が張り詰めた感じがしていたのだ。
たまにギシギシと音を立てる廊下を進むとすぐに彼が言っていた突き当たりにさしかかる。だがそこに行き着く前に、俺の目にあるものが映った。
(この襖…なんか変だな)
何の変哲もないように見えるが、俺は違和感を覚えて立ち止まる。
そしてじっくりと見つめている内に気が付いた。この部屋の襖は、他の部屋のそれと柄が違う。
ここ以外の襖は見えた限り紅葉の模様があしらわれていた。しかし目の前にあるものは無地で模様がない。それどころか襖の周りの壁の色が少し明るくなっていた。
まるで、最初からあった家にこの部屋を新たに作ったかのように。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
その部屋への興味が、沸騰するお湯のように沸々と湧いてくる。
他人の家を覗き見るなんて許された事ではない。理性がそう訴えかけてくるのに、俺は好奇心に負けて襖を開けてしまった。
「――なんだ、これ……」
襖の向こうは、十六畳はあろうかという広い部屋で、窓はなく、じっとりとした空気が佇んでいた。
その暗がりの中に、部屋の半分以上を占めている異質なものが。
四方と天井に、荒い格子状に木が張り巡らされている。その隅には茶室の入り口のような狭い出入り口があって、閂によって閉ざされていた。
それはまるで鳥籠のような――
「おや、ここで何をしているのですか?」
「ッ!」
背後から冷たい声がして、口から心臓が飛び出そうになる。
「貴方、なぜここに?」
さっきまであんなに優しかった声が、今は針のように尖っていて、氷のように冷たい。
俺は恐怖のあまり振り返ることもできず、肩を振るわせていた。
「お手洗いに行っていたはずでは?」
「ご、ごめんなさい……この部屋が、気になっちゃって……」
「だからと言って勝手に覗くのは感心しませんね」
「本当に、ごめんなさいっ」
口では謝っていても顔が上げられない。彼を直視したら、それこそ凍りついてしまいそうだ。
「構いませんよ。見ただけならともかく、荒らされでもしたらさすがの私でも怒っていましたがね」
「怒って…ない?」
つい本音が漏れてしまう。
すると頭上からくすりと笑う気配がして、俺はようやくその顔を上げた。
「貴方は素直で可愛らしいですね。どうです、私と少し遊んでいきませんか?」
「遊ぶ……?」
「ここは私のお気に入りの部屋なんです。東京の家にはこんなもの作れませんからね。ですが、残念ながら宝の持ち腐れで……まだ使ったことはないのです」
「それで…俺をここに閉じ込めたいって、ことですか?」
上目遣いに尋ねると、彼が今度は声を漏らして笑った。
「私は貴方のようは素直な方が好きなんです。貴方さえ嫌でなければ、私の趣味に付き合っていただけませんか?」
「……」
こんな怪しい部屋を警戒しないほど俺は能天気じゃない。
だが、困っていたところを助けてもらった上に彼の部屋を勝手に覗いてしまったという負い目から、断ることができなかった。
「わ…分かり、ました……」
彼が嬉しそうに微笑んだ。
「ようこそ。私の座敷牢へ」
肩に手を回され、俺は部屋の中へ足を踏み入れた。
これから何をされるのだろうかという不安に押し潰されそうになりながら、彼に押されるがまま座敷牢へと向かっていく。
彼は閂を外すが「入ってください」とは言わなかった。俺は自分からそこに入り、ばくばくと煩く鳴り響く心臓に胸の上から手を当てる。
「道具を持ってくるので、少し待っていて下さい」
「あっ、はい」
(道具? 道具って何だ?)
そう声をかけて牢を出ていった彼は、出入り口の閂をかけていった。
いよいよ監禁されるのだ。
ただ電話を借りるだけのはずが、まさかこんなことになるなんて。
(でも俺が悪いんだし……ちょっとなら、付き合っても良いかな)
しばらくして戻ってきた彼は、なんと小さなワゴンを押してきた。そこには赤い縄や淫具が幾つも乗っていて。
(嘘…だろ……! 俺、何されるんだ?)
震え上がる俺を知ってか知らずか、彼は格子のすぐ横にワゴンをつけると、再び牢の中に入ってくる。
「怖いですか?」
「当たり前じゃないですか……俺、そういうの使ったことないですし」
「おや、そうでしたか。これは楽しめそうですね」
「え?」
戸惑う俺に彼の手が伸びてくる。
「まずは服を全て脱いでいただけますか」
「ぬ、脱ぐ…って……全裸?」
「もちろんです。お手伝いしましょうか?」
「えっ、ちょ……っ」
Tシャツを捲り上げられ、胸が露わになる。
陽が当たらない服の下は肌が白く、そこをまじまじと見つめられるだけで顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった。
「ひゃ、ぁ」
肌の上を彼の手が滑っていく。その感覚がくすぐったくて、鼻にかかった声を上げてしまった。
「貴方は本当に可愛らしい。私の色に染め上げるのが惜しいくらいです」
彼は目を細め、愛おしそうに俺を見つめる。
そんな視線を向けられて、何故か俺の中に小さな火が灯った。
身体が火照ってきて、薄く開いた口から漏れる息が熱い。
まだ覚悟はできていなかったが、彼にこの身体を預けてみるのも悪くないかもしれない。
「……あ、あまり酷くしないで…ください」
俺の言葉は逆に彼を誘っているように聞こえただろう。
男は嬉しそうに笑うと、俺の額に柔らかなキスを落とした。
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