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第20話 蓮の動揺

   結糸は身支度を整え直し、リビングルームで蓮の帰りを待つ葵のそばに控えていた。  緊張のあまり心臓が口から飛び出そうになっていたが、それを露見させまいと、必死で無表情を作っている。アイボリーのソファにゆったりと腰掛けた葵はそんな結糸を見て、心配そうに眉を寄せた。 「結糸。部屋で休んでていいんだぞ?」 「い、いえ、ここにいます。ちょっとでも、蓮さまに俺の存在を知っておいてほしいっていうか」 「兄さんは結糸のこと知ってるだろ?」 「いや……使用人一人一人の顔なんて、覚えておられないと思いますよ。それに前回お目にかかった時、俺、パジャマ姿で……。なんだその格好はって怒られちゃったんで……多分、イメージあんまよくないと思うし……」  須能が、寝ている葵にちょっかいを出した日のことだ。蓮の冷ややかな目線を思い出し、結糸はぶるりと身震いした。葵は「あぁ、あの時か」と呟きつつ、顎に指をかけてちょっと目を伏せ、大真面目な声でこう言った。 「結糸のパジャマ姿か……見てみたいな」 「葵さま、今はそれどころじゃないです」 「まだまだこの目で見れていないものがたくさんあるしな……」 「真面目な顔で何言ってんですか」  気の抜けた会話をしていると、なんとなくだが肩から力が抜けた。結糸がため息交じりにちょっと笑うと、葵は小首を傾げて優しく微笑む。結糸の緊張を解そうとしてくれていたのかもしれないと思うと嬉しくて、結糸は照れ隠しにうつむいた。  その時、リビングルームの扉が開いた。  濃いネイビーの細身スーツに身を包んだ蓮が、軽く息を乱しながら部屋に進み入ってくる。  ゆっくりと立ち上がった葵に目を留めた蓮は、鮮やかな翡翠色の瞳を見開いた。見る間にその目が潤みはじめ、金色味を帯びた瞳がきらきらと光を湛える。 「葵……!」 「兄さん……?」 「そうだよ……! あぁ……葵……」  蓮は結糸の前を横切ってまっすぐ葵に歩み寄ると、ぎゅっと弟の身体を抱きしめた。そして葵の両頬を手のひらで包み込み、光を映す紺碧色の瞳をじっと見つめた。  結糸は、蓮の冷徹な表情しか見たことがなかった。造りものめいて見えるほどに美しく整った顔立ちや、その身に纏う圧倒的な存在感のせいで、蓮の存在は途方もなく人間離れしたものに思えていたものだった。  しかし今の蓮は、喜びの涙を堪えるように眉根を寄せ、慈愛に満ちた眼差しで葵のことを見つめている。その表情は、とても人間らしいあたたかなものに見えた。 「葵……僕が見える?」 「見える……。兄さん……何年ぶりだろう、兄さんの顔」 「三歳の頃に見た僕の顔なんて、覚えてないだろ? あの頃はまだ八歳だったものな」 「覚えてるよ、はっきり。兄さんほど綺麗な顔をした人を、俺は見たことがなかったから」 「ふふ、これが二十五の僕だ。……葵……綺麗な目に戻ったね」 「うん。兄さん……本当に、ありがとう。俺のために……」  葵はそっと手を持ち上げ、蓮の顔を指先で辿った。彫りの深い目元や長いまつ毛、高い鼻、優しい笑みを浮かべた赤い唇。そして葵のものよりも一段明るい金色の艶やかな髪に触れながら、葵は感極まったように目を潤ませた。 「俺のために、一人で頑張ってくれてたんだろ? これからは、俺が兄さんの力になるから」 「……葵」  蓮はそっと葵の頬に唇を寄せ、ぎゅっと弟の身体を抱きしめた。葵の両腕もするりと蓮の背中に回り、まるで幼子が兄に甘えるかのように、蓮の肩口に頬を擦り寄せている。少し離れた場所で、蓮と葵の抱きしめ合う姿を見つめていた結糸までもが、ついつい涙ぐんでしまうほどに素晴らしい光景だった。美しい兄弟の抱擁は、この世のものとは思えないほどに麗しく、そして何よりも尊いものに思えた。 「兄さん……しばらくは、この家にいるの?」 「ああ、お前の誕生日パーティまでは、ここで仕事をする」 「そっか……」 「各界からたくさんの要人が訪れるパーディだ。お前のことを、皆にお披露目するのが楽しみだよ」 「お披露目って……」 「今後付き合いの増える人間たちばかりだからな。……そこで同時に、お前のパートナーを皆に披露できたらよかったんだが」  蓮は柳眉をかすかにしかめ、葵の顔をじっと覗き込んでいる。パートナーの話題が出て途端に緊張が高まった結糸は、ドキドキしながら二人の様子を見守っていた。 「綾世はともかく、須能じゃだめだったのか? これまでお前に会わせたオメガの中じゃ、容姿も家柄も抜群に優れていたと思うんだが。それに、ずっとお前に憧れているようだったし」 「……兄さん、そのことなんだけど」  葵は、両腕に触れる蓮の腕にそっと手を触れ、少しだけ高い位置にある兄の瞳を見つめた。ついにその話題が始まるのかと、結糸の緊迫感もいよいよ高まる。心臓が口から飛び出そうとはまさにこのことだと、結糸は震える拳を握りしめながら息を詰めた。 「俺に、番いたい相手がいると言ったら、どうする」  結糸の緊張とは裏腹に、葵の声はとても穏やかだった。  しかしその言葉を聞いた瞬間、蓮の表情に冷たいものがすっと走った。結糸は蓮の表情のこわばりに身を竦ませ、ただただ祈るような気持ちで、拳を握ることしかできない。 「……何度も言わせるな。番を作ることは許さないと、僕はお前に何度も言ったはずだ。番を作ってしまえば、お前はその相手としか性行為が出来なくなる。お前は、たくさんのオメガを抱かねばならないんだ、そんなことを許せるはずがないだろう」 「前から不思議に思ってたんだけど、兄さんのパートナーはどこにいるんだ?」 「え……?」 「一度だって、俺に紹介してくれたことはなかったよな。そういう相手がいるということを、聞いたこともない。俺たちの血を継ぐ子どもが必要だというのなら、兄さんにだってたくさんのパートナーがいてしかるべきだろう」 「僕の相手を、お前に紹介する必要がどこにある」  葵の問いに、蓮が突然語気を強めた。  その場の空気をピンと張り詰めさせるような蓮の声に、結糸はビクッと震え上がった。  しかし葵は、じっと真摯な目つきで蓮を見つめたまま、視線を動かそうとはしない。葵のそんな目線に耐えかねたのか、蓮はすっと目を逸らした。 「僕は、お前とこの家を守るために忙しいんだ。オメガの発情にいちいち付き合っている暇もないからな。でも、お前はあと二年学生だ。仕事をし始めたら、そんな暇はなくなる。今のうちに子を作れ」 「じゃあ、兄さんには、決まったパートナーはいないってことなのか? 俺にパートナーを作れと言うのなら、兄さんだって、」 「……うるさい、もう黙れ!! お前は、この僕の言うことに黙って従っていればいいんだ!! 口答えをするな!!」  怜悧に整った顔を苦しげに歪め、蓮は激しい口調でそう言い放った。葵はぐっと口をつぐみ、揺れる瞳でじっと兄を見上げている。怒鳴った拍子に乱れたひとふさの前髪を、蓮はキビキビとした動きでさっと搔き上げた。その手がかすかに震えていたような気がして、結糸は小さく目を瞬く。  はぁ、はぁ……と呼吸を荒げる蓮とは対照的に、葵はどこまでも静かな瞳で蓮を見ている。葵のその平静さが、余計に蓮の動揺を誘っているようにも見えた。 「兄さん……。俺に、何か隠してることがあるんじゃないのか?」 「……何だって」 「俺はもう、守られるだけの小さな弟じゃないんだ。人に話せないことがあったとしても、俺にだけは話して欲しい。じゃないと、」 「葵。……僕のことはもういい。ただ、番を作ることは許さない。どこの誰であってもだ」 「兄さん、待って。俺の話も聞、」 「話は終わりだ。葵、お前にはやってもらうことが山のようにある。国城家の男に、そんなロマンチシズムは必要ない。いいな」 「あ、兄さん……!」  蓮はくるりと踵を返し、葵の前から立ち去ろうとした。しかし、開きっぱなしだったリビングルームの扉から出て行こうとする蓮の行く手を、不意に阻むものが現れた。 「……っ……」 「すみません。扉が開いていたもので……。別に話を聞くつもりはなかったんですが」  蓮の目の前に立っているのは、御門陽仁だった。  こうして並んでいるところを見ると、陽仁は蓮よりも少しばかり背が高く、身体つきも蓮のそれよりずっと逞しいことに気づかされる。結糸はこれまで、蓮はもっと肉体的にも大きな男だと思っていた。それおそらく、蓮の放つ威圧的なオーラのせいだったのだろう。  突然現れた陽仁にたじろいだのか、蓮がふらりと一歩、後方にふらついた。それを見て思わず手を差し伸べかけた陽仁の手をさっと避け、蓮はすっと居住まいを正す。すると陽仁はその場で直角に身体を折り、緊張の滲む硬い声色でこう言った。 「突然押しかける形になって、申し訳ありません。蓮さま、俺はどうしても、あなたにお会いしたいと思っていたんです。あなたが誰よりも多忙なのは承知しています。ですが俺は、」 「……どけ」 「え……?」 「いいからそこをどけ。僕は、君とのんびり話をしていられるほど暇じゃないんだ」  低い声でそう話す蓮を見つめる陽仁の瞳は、緊張のせいか憧れのせいか、どことなく潤んでいるようにも見える。結糸はそっと葵のそばに歩み寄り、向かい合う二人の姿をじっと見つめた。 「で、ですが。この間の資金援助の件、そのことだけはどうしても礼を、」 「君に礼を言われる筋合いはない。君の手がける事業は、この国に豊かさをもたらすと判断した。だから力を貸した、それだけだ」 「それでも……俺は。俺はあなたに、きちんと礼が言いたかった。あなたと会って、もっと話を……」 「……」  端正な美貌にはっきりとした苛立ちを滲ませ、蓮はため息をつきながらポケットに手を突っ込んだ。そしてとうとう鋭い目つきで陽仁を睨みつけ、有無を言わさぬ強い口調でこう言い放った。 「そこをどけと言っているだろう!! 僕は疲れてるんだ。今は、誰の顔も見たくない」 「……は、はい……。申し訳ありません」  蓮の怒声に、陽仁の背筋が伸びる。  上質なトワレの香りを仄かに残し、蓮は早足にリビングルームを出て行った。

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