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 保育士という仕事は何かとストレスが多い。  子供は同じ人間でありながら日本語が通じないし、その親とも時折日本語が通じないときがある。  今日もいわゆるモンペと呼ばれる親から、我が子の言葉遣いが悪いのはクラス担任が男性だからクラス替えをして欲しいとよく分からない理由で苦情を言われた。 「……んなの、俺じゃなくて親の言葉遣いが悪いからに決まってんだろーっ!」  背後に聞こえていたラジオの音が聞こえなくなるくらい大声で吠えると、背後からため息が聞こえた。 「三宅さん、酔っ払い過ぎ」  呆れた表情でこちらを見ているのは、この居酒屋『オザキ』の息子である一真だ。  自宅近くにある個人経営のこの居酒屋は、こじんまりとしていて居心地が良い。常連と言っていいほど毎日のように来てはいるのだけれど、こうして悪酔いするのは月に一度程。  我慢に我慢を重ねて限界になった時、後で後悔すると分かっていても飲んでしまうのだ。 「あぁっ? 俺は全然酔ってねーぞ!」 「うっわー引くわー、酔ってる人って必ずそう言うんだぜ? もう若くないんだからさ、止めとけって」 「うっせーなぁ、現役こーこーせーのお前からすれば、そりゃ俺なんておっさんですよーだ」  口を尖らせつつ、再びグラスを煽った。  いつもは喉を灼けるような酒の感覚がするのに、今日は水のように感じる。  今ならいくらでも飲めそうだ。  そう感じている時点で、酔って喉が麻痺している証拠なのだけれども、一人で飲んでいる三宅には止めてくれる相手がいないので全く分からない。  時折、こうして一真が注文を取りに来るついでに声をかけてくれるのだが、それすらも今日は煩わしく感じて、つっけんどんな態度を取ってしまう。 「もう俺なんてほっとけよー、あっちで客呼んでんぞ、ほらほら働け」  シッシッと手で払うと、一真は諦めたようにため息を吐いて三宅の元を離れた。  小さな居酒屋は殆ど顔見知りの常連客ばかりだ。  普段なら独り者同士で和気あいあいと飲んだりすることもあるのだが、三宅がこうして荒れている時は、触らぬ神に祟りなしと思うのか、常連客の中で近寄らないという暗黙の協定が引かれているのを三宅は知らない。 「なんだよ……誰も構ってくれないし……どうせ俺なんてぇ……」  どうやら本日の酔っ払いのパターンは絡み酒ではなく、ネガティブに落ちていくパターンのようだ。  なんだか胸の奥がぎゅうっと苦しくなって、賑やかな笑い声や大きな音でラジオから流れてくる歌すら遠くに聞こえる。 「あー……なんだっけこの歌」  最近よく聞く新曲で、聞こえる声は一人ではないのでアイドル辺りの歌なのだろうけれど、流行りの歌よりも童話や子供向け番組の主題歌ばかり聞いている身なので全くタイトルが出てこない。 「確か……『ソリッド』? 違うな……『ソラシド』?」 「惜しいな、『ソレイユ』だ」  ボソッと聞こえた一真の声に振り向くと、ニヤリと笑って通り過ぎていく。 「くっそおおおおっ……」  酒を飲んで沸点が低くなっているせいか、なぜだか無性に悔しい。 『ソレイユ』といえば、保育園児ですら歌を知っているアイドルだ。それすらも分からなかったことが地味にショックで三宅の心に突き刺さる。  こうして世間から取り残されていくんだと思うと、勝手にじわりと涙が出てきた。  いい歳した大人がこんなところで泣くなんて情けない。  三宅はゴチンと額を机にぶつけ、惨めな気持ちを必死で押し殺す。 (この虚無感を埋めるためには酒しかない。そうだ、酒をもっと飲めば楽しくなれるはずだ……!)  完全にダメ人間の考えが出来上がり、新たな酒を注文しようと顔を上げた瞬間、目の前に立っていた一真と目があった。 「あ、起きた。 潰れたかと思ったのに……」 「一真! いいとこに来たなぁー、酒くれ酒っ! 大吟醸、頼んじゃおっかなー」  一杯千円越えをする銘柄を言うと、一真が大きなため息を吐く。 「あんたバカ? それ、いっつも良いことある時に飲んでる酒じゃねーか。そんな酔っぱらってんのに飲んだりしたら酒がもったいねーだろ」  きっと一真の言う事は正しい。だが、まともな思考回路をしていない三宅は、一真の言葉に不満そうに眉を吊り上げた。 「じゃあもういい、違う店で飲み直すから帰る!」  子供のように拗ねて、椅子を勢いよく立ち上がる。  ぐらりと視界が揺れて、あれ? と思った時には身体も思い切り傾いていた。 「うわっ!?」 「ちょ……っ! 三宅さんっ!?」  一真が咄嗟に手を出してくれたおかげで、なんとか転ばなくて済んだ。 「あはは、足にキてるとは気づかなかったな~」 「飲み過ぎなんだよ」 「そんな飲んだつもりはねーんだけどな、しゃーない、大人しく帰る……う?」  一真の身体から離れ、レジへと歩こうとするも足が笑って真っすぐ歩けない。 「……ったく、ちょっと座ってろ」 「はぁっ? コドモの命令なんて聞かねーよっ!」  大声を出すと頭の中で自分の声が鳴り響き、思わず顔をしかめる。  ドンッと目の前に水が置かれ、無言で飲めと指図される。 (なんだよ、エラソーに……)  反論したいところだが、水を置いた一真はカウンターの中へと引っ込んでしまったので、背中を睨みつけながら水のコップに口をつけて飲み干す。  ただの水ではなくさっぱりとするレモン水で、こんなところでもさり気ない一真の気遣いを感じてしまう。 (ほんと、イイ男過ぎてムカつく……)  苛立っていた気持ちがストンと落ち、急激な睡魔が襲ってくる。  ゆらゆらと水面を漂うように身体が揺れ、重力にさ変わらずにいると頭が再びゴチンと机にぶつかった。  痛さも感じず、ただひたすら眠い。  再びラジオから流れてくるアイドルの歌を鼻歌で口ずさみながら、眠りの淵に身体を半分沈めかけたその時、肩を叩かれて反射的に飛び起きる。 「ビックリした……急激に起きるとか、心臓に悪いんじゃね?」 「仕方ないだろ、習慣なんだよ」  保育士の仕事というのは、居眠りの誘惑との戦いだ。  子供たちがお昼寝で寝ているのを監視している時、つられて一瞬だけ目を閉じてしまう。その時に、何かの物音でハッと目が覚めるのが日常茶飯事で、心臓も大分鍛えられている。 「そっか、社会人って大変なんだな」  ふわりと優しい微笑みを浮かべながら見つめられてしまい、不覚にも心臓が高鳴る。 「……ムカつく」 「は? 何か言った?」 「何でもない! それより、俺を待たせて何するんだ?」 「ああ、デートしようと思って?」  さらりと言う一真に、三宅は思わず壁に掛かっている時計を見上げる。  時間は午後二十二時を回り、未成年はお家に帰りなさいという時間だ。 「今からデートって……お前、俺を犯罪者にしたいの? バカなの?」 「バカは三宅さんだろ。そんなフラフラでどうやって家に帰るんだよ。俺が送ってやるから、そのままお家デートしようぜ」 「……っ!」  ニヤリと意味深に笑われ、その言葉の裏を理解した三宅の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。 「……このエロガキ」 「三宅さんがエロいこと考えてるだけだと思うけど? 俺は純粋に酔っ払ってる三宅さんを心配してるだけなんだけどな~?」  それが本当ならば、ちゃっかり学ランの制服を手に抱えていたりしないだろう。  一真は確実に泊る気で、明日の朝は三宅の家から学校に行く気なのだ。 「分かった……思いっきり面倒みさせてやる」  家に着いたら、延々と仕事の愚痴を一真に聞いて貰おう。  三宅が満足して一真がまだ起きている気力があるのなら、彼の願いを聞いてやらない事もない。  そんな身勝手な考えを考えていても、結局毎度このパターンで年下の彼に上手く丸め込まれ、美味しく頂かれている事実を酔っぱらっている三宅は気付かない。 ――そして目覚めた次の朝、ものすごい二日酔いと腰の痛みに後悔をするのもお約束だ。  それでも酒をやめられないのは、一真と夜のデートをした次の日は、モヤモヤドロドロしていた胸の中がとてもスッキリするからだ。  ストレス解消に使っているようで一真には申し訳ないなと思いながらも、年下の彼につい甘えてしまう。 「俺って、酷い男だよなぁ……」  居酒屋の息子だけあって一真の料理スキルは完璧で、二日酔いに効く大根の味噌汁をいつも必ず作ってくれる。  ふんわりと漂う優しい味噌の香りに脳内反省会をするのもいつもの事。 「酷い男でいーんじゃない? 三宅さんがダメな男な程、俺は世話しがいがあるし」 「……お前、本当に高校生なワケ? ほんと、ムカつく……」  時折大人びたことを言う一真にこれ以上メロメロになりたくないのに、またときめいてしまった。  赤くなった顔を隠すように味噌汁をすする。  これも月に一度ある、いつもの日常。だけど、特別な日常だ。  優しい朝の光を浴びながら、しばらくはまた頑張れそうだなと三宅は思った。

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