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ハッピーボーイ

 俺はいつの頃からか、ハッピーボーイと呼ばれていた。正確には、この仕事を始める前、雪の降る日に路地裏で倒れていた俺を、ミスター・スミスが見付けた日から。もう少し遅かったら、俺は永遠に冷たくなっている所だった。だから、ハッピーボーイ。  俺の本名はウィルヘルムだったけど、顔も知らない親がくれた名前より、この名前の方が気に入った。俺は、親に捨てられたストリートチルドレンだった。ミスター・スミスはこの辺りの元締めで、同じような境遇のサムと二人、街に立つようになってからも、この名前を使って稼いだ。幼かった俺には選択肢はなく、暖かいベッドとお腹いっぱいの食事にありつける分、それまでよりずっと幸せだった。 「ふっ……んんっ……」  俺はカーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中で、跪いて男のをしゃぶっていた。部屋の中は真っ暗だけど、俺の顔だけが眩しく懐中電灯で照らされている。色んな性癖の変態に会ったから、少し眩しいくらいの不自由は序の口だった。それより、シャワーも浴びずに命令された口淫に、生臭い方がいい迷惑だった。 「上手だね、ハッピーボーイ。本当に君は、僕を幸せにしてくれる……イイコだ」  ウットリと俺の黒い巻き毛の前髪を撫でていたと思ったら、急に掴んで、喉奥まで突き入れられる。 「ふぐっ!」 「イくよ……飲んでおくれ、ハッピーボーイ……!」 「んぐ・んん・くっ……」  喉の奥に直接、精液が叩き付けられる。俺は呼吸困難に喘ぎながら、必死にそれを飲み下した。飲まなければ、息がつげない。ここでも、俺に選択肢はないのだった。暗闇に白く浮かぶ頬が、引き歪む。 「はぁ……イイコだ、ハッピーボーイ」  ようやく男のから解放されて、俺は肩で息をする。男は、俺のその顔も懐中電灯で照らして、興奮に息を荒くしていた。筋金入りの変態だな。だけど、口だけで突っ込まれない分、身体は楽だ。金は前払いで貰ってるから、俺は手の甲で口元を拭うと、しらっとして立ち上がった。 「時間だよ、お客さん。俺もう、帰るな」     *    *    *  今日は、雪が降っていた。俺がミスター・スミスに拾われて、この世界に入るきっかけになった日と同じだ。本当の事を言うと、俺は時々考える。身体付きがだんだん厳つくなってきて、いつまで続けられるか分からないこの仕事で稼ぐのと、あの日永遠に冷たくなってしまうのと、一体どっちがハッピーだったのだろうかと。 「寒いな」  俺は隣で立ってる華奢なサムと手を繋ぐ。こんな仕事だから、寒いからって着膨れる訳にもいかず、脱がせやすい大きめのドレスシャツのボタンを二つ外して鎖骨を覗かせ、その上からフェイクファーの毛皮を羽織っていた。こんな日は、サムとくっつき合って暖を取った。 「……あ」  見覚えのあるヨレヨレのコート姿が、髪の上に雪を積もらせて小走りにやってくる。ケインだ。サムと相思相愛の人。売れない役者でお金がないから、まだサムを身請けする事は出来ないけど、いずれ一緒になろうと約束をしてると言っていた。 「やあ、サム。ハッピーボーイ。今日は寒いね」 「ケイン」  二人は駆け寄って軽く口付ける。何気ない仕草だけど、そこには愛が溢れていた。 「はい、ハッピーボーイ。いつもの」 「ありがとう」  湯気の立つ紙コップを受け取って、俺は両掌で暖かいそれを包み込んで微笑む。ケインは、いつも俺の好きなロイヤルミルクティーを差し入れてくれた。金が勿体ないからと断った事もあったけど、ケインは頑として譲らず、毎回持ってくる。きっと、二人居る内のサムを愛した、懺悔みたいなものなんだな。そう思って、やがて俺は甘んじてそれを受け取る事にした。  二人が行ってしまうと、暖を取るのはロイヤルミルクティーだけになった。大事に大事に、最後はすっかり温くなるまでちびちびと飲むけど、飲み終わってしまうといよいよ寒さが身体にこたえる。だけど、遠くから犬の鳴き声が近付いてきて、俺はハッと顔を輝かせた。唇に指を銜えて、高く口笛を鳴らす。 「……ブッチ!」 「ワンワン!」  しゃがんだ俺の胸の中に、雑種の仔犬が飛び込んでくる。ここ最近、姿を見せるようになった野良犬だった。ブチ模様だから、安直だけど名前はブッチ。一人ぼっちになった俺が、暖を取れる貴重な存在だった。 「ブッチ、今日はベーコンがひとかけあるんだ」  ポケットから、透明なビニール袋に包んだ小さな肉の塊を出す。ブッチは喜んで、それを俺の手から頬張った。しゃがんでブッチを胸に抱き、頬擦りして俺たちはしばらく互いに暖め合っていた。  その時、目の前を場違いな黒いリムジンが通った。こんな場末の街外れを通るなんて、抜け道としてよほど急いでいるか、運転手が間抜けなんだ。停まったら、身ぐるみ剥がれたって文句は言えない。そう思っていたら案の定、雪道にタイヤを取られて、リムジンは停まってしまった。アクセルをふかしても、空しくタイヤは空回りするだけだ。運転手が慌てて降りてきて、タイヤの下の雪を退ける。でも経験から、誰かが押さなきゃこの深い雪は抜け出せないと思った。 「手伝ってやろうか?」  親切から声を掛けたけど、運転手はまるで汚物を見るような目で俺を一瞥し、きっぱりと無視をした。はは。そうだよな。気持ちは分かる。俺は心の中で皮肉って自嘲した。だけど目の前で、黒いフィルムが貼られたリムジンの後部座席の窓がスルスルと開いた。 「頼む。礼は弾む」  そう言ったのは、金髪をオールバックにした、身なりの良い男だった。疲れているのか、目の下にアイラインのように微かな隈がある。一瞬見とれてしまうような、知性と野生を持ち合わせた、スマートな三十半ばの美丈夫だった。動かない俺を見て何を思ったのか、内ポケットからマネークリップに挟まれた札束を出し、五枚抜き取って窓からそれを差し出す。 「押してくれ。頼む」 「あ……ああ。礼なんか良い。困った時は、お互い様だ」  金を得る為なら誰にだって脚を開く俺が、嘘みたいな大金を断るのを、俺は俯瞰で眺めていた。ブッチを下ろして立ち上がり、後部座席の男に少し呆れて声を掛ける。 「窓、閉めろよ。こんな所で金を見せびらかしたら、命を取られたって文句は言えない。俺がギャングじゃなかったのを、神様に感謝するんだな」 「すまない。ありがとう」  心からの謝辞を口にして、男は窓を閉めた。運転手がアクセルを踏むのに合わせて、俺は黒光りする車体を力一杯押す。ギュルギュルと空回りしていたタイヤが地面を噛むと、あっという間にリムジンはスピードを上げて走り去っていった。スラム街に迷い込んだのは、急いでいたからか。あの男からまた礼の言葉が聞けるかと少しだけ期待していたけど、それは淡い期待のまま終わった。変わった事と言えばそれくらいで、俺はそのあと客を四人取って、いつもの一日は過ぎていった。     *    *    *  宵越しの客は取れなかったから、身体が資本の俺は雪のちらつく街角に立ち続ける愚を犯さず、早々にミスター・スミスの待つ家に帰った。サムはケインと一晩過ごすらしく、帰っていない。 「冷えただろう、ウィルヘルム。今夜は暖かいシチューだ。食べなさい」 「やった! ミスター・スミス、気が利くな」  俺はキッチンに行って、大皿にシチューを盛り付ける。お行儀悪くスプーンを銜えて皿をダイニングテーブルに持っていくと、ミスター・スミスが電話に出ている所だった。 「……はい、ご指名ですね。え? 名前が分からないんですか? ……はい。……はい。……ああ、それなら多分、ハッピーボーイでしょう。少しお待ちを」  そう言うとミスター・スミスは、電話を保留にして俺を振り返った。 「ウィルヘルム。今日、雪にはまった車を助けたか?」 「あ……うん」  もう酷く昔の事のような気がして、俺は車中の男を懐かしく思い描いた。 「お礼に、一晩お前を買いたいそうだ」 「え? 誰が?」 「……珍しいな、ウィルヘルム。名前は聞かないのが鉄則だろう?」 「ああ……そうだよな。多分、運転手だよ。名前も聞いてないから、仮に名乗ったとしたって分かりゃしない」  自分の言葉に何処かガッカリしながら、俺はスプーンを突き出した。 「でも、腹が減った。飯食ってからで良いだろ?」 「いえ、お礼にご馳走してくれるそうです」 「ええ!? せっかく、暖ったかいシチューなのに!」  俺は名残惜しくシチューを見詰めて、ほかほかと上がる香りを楽しんでから、渋々といったていで出掛けた。     *    *    *  待ち合わせは、中の上くらいのシティホテル。あの運転手にしては、少し頑張ったかな。それでも、スラムの連れ込み宿しか知らない俺は、物珍しくキョロキョロと辺りを窺いながら、指定された部屋までエレベーターを上った。あれ? 最上階? ノックをすると、鍵の外れる音がして、ドアが迷いなく開かれた。 「えっ!?」  俺は、頬に熱が集まるのを意識してしまった。 「入ってくれ」  現れたのは、運転手ではなく、後部座席に乗っていた頭のお目出度い美丈夫だった。俺は混乱して、立ち尽くしてどもる。 「な……何で、アンタがここに居るんだ!?」 「話を聞かなかったのか? 立ち話もなんだ、まあ入れ」  あ……そうだよな。俺みたいなのがこんな所に居るなんて、あからさまだもんな。社会的に、秘密にしたいよな。俺は大人しく部屋に入った。ふかふかの紅い絨毯が敷かれた部屋は、続き部屋にキングサイズのベッドが垣間見える、ゴテゴテのスイートルームだった。 「アンタ……何者だ?」  素性を尋ねるのがタブーと知りながらも、思わず俺は訊いていた。 「私の名は、オズワルドだ」  だけど男……オズワルドは、あっさりと名前を口にする。ビックリしたけど、本名の訳ないかと考えて、浮かれる心を落ち着かせた。 「ハッピーボーイ……お前の名は?」 「え? だから、ハッピーボーイだよ」 「それは、通り名だろう。名前を訊いているんだ」  俺はその理不尽に、唇を尖らせる。 「アンタだって本名じゃないくせに。名前は訊かないのが、マナーだろ」  そう言って見上げる視線を強くすると、オズワルドは考え込むように顎に片拳を当てた。 「そういうものなのか……私は、本名を名乗ったのだが」 「え? 本名?」 「ああ。本名じゃなくてもいいから、ハッピーボーイ以外の名前を教えてくれ。私は、お前の一介の客で終わりたくない」  何それ。俺を一晩買ったくせに。 「……ウィルヘルム。ビリーで良いよ。アンタも、オズで良い?」  だけど俺には、ハッピーボーイの他にはウィルヘルムしか名前がない。ご丁寧に本名を名乗ったお目出度いオズに応える形で、俺も本名を名乗った。 「ああ。今日は助かった、礼を言う。大きな商談があったのだが、ビリーのお陰で遅れずに済んだ」  俺たちは接客業でありながら、こうやって人並みに感謝される事はない。くすぐったくて、俺はつっけんどんに話題を変えた。 「それより、金は前払いだ。あと俺、夕飯食ってないんだけど!」 「ああ……そうだったな。テーブルにルームサービスのメニューがあるから、好きなものを頼むといい。一晩、幾らだ?」 「……相場でいい」  俺はお目出度いオズに、カマをかけた。 「相場が分からない」  やっぱりな。昼間、オズは車を押したら札五枚をくれようとした。相場は、札四枚だけど。ボクは両手を広げてみせた。 「札十枚で良いぞ」 「分かった。前払いだな」  オズは昼間のように、上質なスーツの内ポケットからマネークリップを出して、札十枚をボクに差し出した。何処までもお目出度いな、オズ。 「ご贔屓に」  俺は平坦に言って、それを受け取ってフェイクファーのポケットに突っ込んだ。 「さあ、腹が減っただろう」  掌を差し出されて、俺はキョトンとそれを見詰める。あ……握手? そう思っておずおずと手を握ると、オズは少し笑って掌を床に対して水平に直してくれた。わ……笑うと、優しい顔になるんだな。って言うか、この手は……俺をテーブルまで、エスコートする為か! 俺はまた、恥ずかしさに顔が熱くなった。お目出度いオズの相手は、何だか凄く照れ臭い。テーブルまで導かれると、オズは椅子を引いて俺が座るのを待った。それはどんな変態プレイよりも、俺の心を動揺させた。何とか座ると、スマートに椅子を押し出してくれる。 「ビリーは、何が食べたい?」  ルームサービスのメニューを受け取るけど、気取った名前のついたメニューは、俺には少し難しかった。出掛けに嗅いだ、シチューの香りが頭をよぎる。 「暖ったかいシチューが食べたい」 「ああ、それなら、旨いビーフシチューがある。付け合わせは、ライスとパン、どちらが良い?」 「パン」  余ったら、持って帰れるから。 「サラダを頼むが、嫌いな野菜はあるか?」 「ないよ」 「飲み物は、赤ワインで良いか?」 「あ……俺、紅茶が良い」 「ダージリン? アッサム?」 「よく分かんないけど、出来ればロイヤルミルクティー」 「ああ。それなら、ウバがお勧めだ。作って貰おう」  オズはすぐに決めると、スムーズに内線で二人分の食事と飲み物をオーダーした。こういう時に頼れる男って、女からモテるんだろうなあ。エスコートも手慣れてたし。それとも俺を買ったって事は、男にしか勃たない手合いなんだろうか。宝の持ち腐れだな。 「食事がくるまで、時間があるよな。俺、シャワー浴びたいんだけど。アンタが先でも、一緒に入っても良いけど」 「では、失礼して先に入らせて貰おうか。ルームサービスを受け取るのが、私に当たるように」  そうだな。俺なんかが出て行っちゃマズいもんね。 「うん。分かった」     *    *    *  念入りに身体を洗いバスローブ一枚を羽織ってシャワーを出ると、オズの計算通りにルームサービスが届いていた。オズは、どうせ脱ぐのにご丁寧にまた服を着ている。部屋には、ミスター・スミスのクリームシチューとはまた違った、ビーフシチューの良い香りが立ちこめていた。飲み物は、ボクはロイヤルミルクティー、オズは赤ワインだった。 「さあ、食べよう。美味いぞ」 「オズ、食べた事あんのか?」 「ああ。仕事に疲れたら、ここに泊まるんでな」 「えっ……それ、マズいよ」 「不味いか? まだ食べていないだろう」 「いや、そうじゃなくて……」  オズとの会話は、どうにも要領を得ない。 「自分の城に俺を呼ぶなんて、マズいって事。噂が立ったら、アンタみたいなエリートは、マズいんじゃないの」  上品にナイフとフォークを使って、オズは小鳥が啄むように肉を口に運ぶ。 「何もマズい事はない。私は、何をしても文句を言われないだけの仕事をしているんでな。それに、会社の恩人であるお前に文句をつける奴がいたら、私がクビにしてやる」 「わお……」  たまに居るんだ。俺たちを差別しないと豪語する奴。大抵は、二~三回遊んでポイだけどな。遊びだから、大切にするとか簡単に言えちまうんだ。オズも、そうなのかな、やっぱ。 「それより、食べてみろ」 「ああ……うん」  ダークブラウンのスープの中に浮かぶ肉の塊にナイフを入れると、何の抵抗もなくスッと切れてしまって驚く。豪快に口いっぱいに頬張ったけど、肉はほろほろと崩れて滑らかになくなった。そのくせ味は濃厚で、後味だけで付け合わせのパンが進む。 「美味い! 何だこの肉! 柔らかい! 魔法みたい!」  無意識にポンポンと感想が飛び出す俺を見て、オズはまた優しく笑った。 「気に入ったようで良かった。本当に美味そうに食べるな、ビリー。見ているだけで腹がいっぱいになりそうだ」 「え!? 食べないのか? 食べないなら、俺貰うぞ!」 「ものの例えだ。食べないとは言っていない」  今度は、赤ワインを含みながら、可笑しそうに肩を揺らす。 「このロイヤルミルクティーも美味い! 何て言うか……コクがある?」 「ああ。その表現は、的を射ているな。ウバ茶は、世界三大紅茶の一つで、スリランカの高地で取れる。昼夜の寒暖差がある土地のせいで、薔薇の花のような甘いウバフレーバーが作り出されるんだ」 「へええ……」  俺は食べ物を何か口にする度にわあわあ言って、オズがそれに注釈をつけてくれた。凄い! テレビの食リポみたいだ! 俺は腹が減るからという理由で、バラエティの食リポ番組は余り好んで観なかったけど、食べながらだと倍も味が美味くなる事を、初めて知った。そんなこんなで、会話の種には困らず、楽しい夕食は終わった。あとは、ベッドに入るだけ……。 「ビリー、主寝室を使って良いぞ。私は、使用人用の続き部屋のベッドで休む」  へ? 何それ。夜這いプレイ? 「ごめん、分かりにくい。何がしたい訳?」 「ああ……言っていなかったな。私はビリーを一晩買ったが、抱きたい訳じゃない。車の礼がしたかったんだ。だから一晩、ゆっくり眠ってくれ」  え? 俺、札十枚貰っちゃったんだけど。罪悪感が、鋭い棘となってチクリと心臓を突き刺した。 「そういう訳にはいかない。俺に魅力がないのかなって思っちまう。せめて口で、サービスさせろよ」 「いや、ビリーは魅力的だが……仕事で疲れていて、そういう気にならないんだ。すまないが、何もしなくていい」  謝るなよ。何か、変な雰囲気。 「じゃあ……添い寝は?」  俺は、譲歩案を出した。何しろ、俺は一人じゃなかなか寝付けない質で、ねぐらではサムと抱き合って眠ってる。どっちかが居ない夜は、特大の熊の縫いぐるみを相手に眠るのだった。 「それでビリーの気が済むのなら。但し、私は誰かと同じベッドで眠った事はないから、イビキや寝相の文句は聞けないぞ」 「イビキは慣れてる。寝相は、寝惚けて殴んなきゃ良いぞ」  俺の何気ない言葉に、オズは切れ長なレッドブラウンの瞳を丸くした。 「殴られた事があるのか?」 「うん。たまに居るんだよな。寝惚ける奴」 「大変だな……私は殴らないから、安心して眠れ」  そう言って、ガウンに着替えたオズがキングサイズのベッドに横になる。隣をポンポンと叩いて手招くのが、何だか気恥ずかしかった。促されるまま隣に横になって……思い切って、いつもサムにしているように抱き付く。オズはビックリしてちょっと身を引いたけど、それは一瞬で、俺の腕に委ねてくれた。こういう仕事なのだと割り切れば、あとは楽だった。今日は朝から、客を十二人取った。俺は人肌の温もりに安心して、すぐにうつらうつらと目を瞑る。 「おやすみ、ビリー」  オズの声がして、額に柔らかい感触が触れた。 「ん……おや、すみ……」  俺の巻き毛で遊ぶように、横髪に指が絡められたと思ったのは、夢かうつつか。俺は身も心も暖ったかく満たされて、眠りの淵に落ちていった。     *    *    * 「ん……」  俺たちの仕事に決まった休日はない。身体が保つ限り、働くのが常だった。だから、朝の五時には目が覚めてしまう。朝っぱらから俺たちを買おうっていう暇な金持ちは山ほど居たから、需要と供給は釣り合っているのだった。  ……暖ったかい……。俺は寝惚け眼を擦る。ねぐらは隙間風が入って寒かったから、今日は宵越しの客と一緒なんだな。 「……ん?」  抱き付いているスマートな胸板の上の顔を見上げると、オズが仄かに微笑んだ。 「おはよう、ビリー」 「お、おは、よう。……いつから見てた?」 「二十分くらいだ」 「起こしてくれれば良かったのに」  俺は気恥ずかしさを誤魔化して、責めるような口調を上げる。 「まだ早いと思ったのでな。いつも、こんな時間に起きるのか?」 「うん。客は朝から居るからな」  それを聞いているのかいないのか、オズは俺の巻き毛の横髪を指の甲で撫で付けた。 「今日一日、お前を買おう、ビリー。前払いだったな。幾らだ?」 「えっ……」  俺は驚いて、なかなか二の句が継げなかった。オズは、まるで恋人みたいに、俺の唇にそっと触れるだけのキスを落とす。俺がいつも見せられている、ケインとサムのキスみたいだった。 「幾らだ?」  もう一度、オズが訊く。俺はもう金額を誤魔化す事をせず、正直に告げた。 「札六枚。ミスター・スミスに電話して」 「ああ」  きっちり前払いして、オズは携帯でミスター・スミスに電話をかける。 「……ええ。気に入ったので、今日丸一日、彼の時間を買い取りたい。金は払ってある。……え? 彼に代わるんですか? ……ビリー」  携帯電話が差し出された。俺は受け取って、何の用だろうかとちょっと間抜けな声を出す。 「もしもし? え……うん。分かった。じゃ」 「何だった?」 「いや、ちょっと……ちゃんと送って貰えとか、注意事項」  まさか、良いカモだから、パトロンになって貰えるように頑張れと言われたとは話せない。 「ああ、そうか。帰りは車で送るから、安心しろ」     *    *    *  それから俺たちは二度寝して九時頃まで惰眠を貪ってから、迎えにきたリムジンに乗って街へ出掛けた。 「アンタ、仕事は?」 「昨日、大きな仕事をしたからな。今日は休みだ」 「ふ~ん。良い身分だね」  大きな鏡の前で、取っ替え引っ替え俺の胸にスーツを当てて服を選ぶオズに、半ば呆れたような声を出す。あれでもないこれでもないと、もう三十分も俺は立ちんぼだ。黙って立ってるのは慣れてるから、まあ良いけどな。 「これはどうだ? ビリー」  やがて一着のスーツを当てて、オズが俺に訊く。それは普通のスーツじゃなくて、グレーを基調に黒のパイピングと赤の差し色をきかせた、少しトリッキーなスーツだった。揃いのデザインのハットが、頭にポンと乗せられる。 「うん。変わってて良いね。このまま街に立ってもおかしくない」  もはや職業病で、そんな感想を漏らすと、オズはちょっと困ったように微笑んだ。ああ、今はアンタのものだもんな。他の男に抱かれる事を考えるのは、失礼ってもんかな。俺はそう思って、そのあとはオズの事だけ考える事にした。  さっそく買ったスーツに着替えて、高級なレストランでブランチを摂る。オーダーはオズ任せ、テーブルマナーも事細かく教えてくれた。薔薇の花びらが浮かぶフィンガーボウルの水を飲もうとした俺を、オズが大真面目な顔で止める。俺が、紛らわしいと文句を言うと、笑ってそうだなと同調してくれた。 「バレエとオペラ、どっちが観たい? ビリー」  食事を終えていったんホテルに戻ると、オズが訊いてきた。俺は即答する。 「バレエ」  そして少し、この優しい客に我が儘も言ってみる。 「出来れば、ミュージカルが観たい。俺、ダンスと歌が好きなんだ」 「そうか。観たいものはあるか?」 「アニー。子供の頃からずっと観たかったけど、忙しくて観られてない」 「分かった。チケットを手配しよう」     *    *    * 「♪明日は、しあ~わ~せ~♪」  俺は劇中でアニーが歌っていた歌を口ずさんで、リムジンまでの道のりをステップしながら歩いていた。オズに近寄って腕を組み、また離れて道の真ん中でくるりとターンする。オズは、そんな俺を見詰めながら微笑んでいた。 「ダンスが上手いな、ビリー」 「ちびの頃は、駅前で歌って踊って、恵んで貰ってたからな。今でも時々、踊りたくなる時がある」 「ほう。ダンサーなのだな、ビリーは」  リムジンに着くと、夢のような一日に終わりが近付いている事を意識した。オズは、エリートだ。エリートの気紛れにいちいち惚れていたら、身が保たない。そう骨身に染みていても、心がオズに傾くのを止められなかった。リムジンが、スラム街に進路を取る。 「……キスしてくれ、オズ」 「ああ。おいで、ビリー」  広い車内で身を寄せ合い、キスをする。オズは触れただけだったけど、俺の方から舌を忍ばせて貪った。膝の上に馬乗りになって、夢中で口付けに溺れる。身を分かつと、俺はオズにぎゅっと抱き付いた。窓の景色が、見覚えのあるものに変わっていた。今去らないと、離れるのが辛くなる。 「あ、ここで降ろしてくれ」 「もう遅い。家まで送る」 「駄目なんだ。ねぐらを教える訳にはいかない」 「そうか……気を付けて帰れ」  初めて会った街角で、リムジンが停まる。俺はもう一度オズの唇に触れてから、車を降りた。 「じゃあ、またな」 「うん……また」  また、と言って別れて、二度と会わない奴は多い。俺はそんな予感を感じながら、オズに手を振った。そしてテールランプが見えなくなるまで、スラムに不似合いなリムジンを見送っていた。その時。大きなカメラを持った蛇みたいな顔の男と用心棒然とした厳つい男が、不意に声を掛けてきた。 「へえ~、オズワルド社の社長が、男娼を買っているとはね。しかも上玉だ。そうとうな好き者だな。君、金は払う。社長が、ベッドでどんなプレイをしたか、教えてくれないか」  オズワルド社? 俺でさえ、その名前に聞き覚えがあった。パソコンや携帯電話を手がける、世界的にも有名な会社だ。オズが……その会社の社長? 咄嗟に俺は、オズを庇った。 「オズは、俺の叔父さんだ」 「ほう? 叔父さんが、甥っ子をこんなスラムに置いていくのか?」  しまった。見え見えの嘘だった。観念して、俺は本当の事を話す事にした。 「……オズは確かに俺を買ったけど、俺が雪にはまったリムジンを押したから、その礼だ。やましい事はしてない」 「買ったけどやってない、なんて話が通用すると思ってるのか?」 「だけど、本当だ」  カメラの男は、ニイと不潔な歯を見せた。 「仮に本当だとしても、君が社長のリムジンから降りてくる写真は撮った。君は……社長に惚れてるのか? だったら、君の行い次第では、この写真を闇に葬る事も出来る」  俺はゴクリと、生唾を飲み込んだ。オズが、危ない。 「相手をしてくれよ。たっぷりサービスしてくれたら、処置を考えない事もない」 「……分かった」  俺にはいつも、選択肢がない。一本裏路地に入れば、人通りは極端に少なくなる。そこで二人の男たちは、俺の口と後ろを犯し始めた。前が用心棒の男、後ろがカメラの男だ。用心棒のは異常なくらい大きくて、顎が痛くなったけど、懸命に舌を使って愛撫する。逆にカメラの男のは小さくて、慣らしもせずにいきなり突っ込まれたのだけど、出血する事もなく助かった。一度裂けると治るのにしばらくかかるから、その間は仕事が出来なくなる。こんな時にも、仕事の事を考えてる自分に唾棄したい気分だったけど、オズを救いたい一心だった。 「ふっ……んぐ、ぐ……はぁ」 「ビリー、帽子を忘れて……ビリー!?」  不意にオズの声がして、俺は思わず口淫をしていた男のを口から外した。 「くっ……!」  その勢いで、用心棒の男が絶頂を迎える。俺の黒い巻き毛に、濃い粘つく精液が白く絡んだ。 「貴様らぁっ!」  オズ……駄目だ、殴ったら捕まるぞ。俺たちはレイプされたなんて言ったって聞いて貰えないんだから、正当防衛にはならない……。オズが、今まで見せていた穏やかさが嘘のように、男たちに殴りかかるのが見えた。アンタ……喧嘩なんかした事あんの? そんな殴り方じゃ、拳に怪我をする……。オズの的外れな心配をしながら、俺はゆっくりと正体を失って目を閉じた。     *    *    *  気が付くと、自分の部屋だった。パジャマ代わりのバスローブ一枚で、横でサムが、俺に抱き付いて眠ってる。あれ? 夢……? サムを起こさないようにそっとベッドを抜け出すと、リビングへと下りていった。 「ビリー! 気が付いたのか!」  オズが、何でねぐらにいるの? 俺はミスター・スミスに視線を向けた。 「ウィルヘルム。オズワルドさんが、お前をここまで運んでくれた。お礼を言いなさい」 「礼なんていい! ビリーは、私を庇ってあんな目に……!」 「……哀れみは要らないよ。いつもやってる事だからね」 「強がらなくていい。パパラッチに聞いた。お前は、私の写真を世に出さない為に……ビリー、結婚しよう」 「は!?」  何処からその発想が出てくるんだ。確かにこの国では同性間の結婚が法律で認められているけれど、そんな事をしたらそれこそ、週刊誌のいいネタじゃないか。 「ミスター・スミス。ビリーを身請けしよう。相場の十倍の値段で。それから、貴方たちには、私の会社で働いて貰いたい」 「ほう……本気ですかな」 「ああ。誰に何と言われても、私は貴方たちを守る」  俺は、部屋で眠っているサムに思いを馳せた。 「サム……俺と同室の奴も?」 「ああ。そして、結婚しよう」  またオズが念を押して、俺はその夢物語に苦笑した。 「無理だよ。アンタ、オズワルド社の社長なんだろ。パーティに俺みたいなのを連れていったり、出来ないだろ」 「お前が嫌でなければ、私は連れていって皆に紹介して回るが。妻だとね」  俺は、目頭がツンと痛くなった。 「ビリー、何故泣く。私と結婚するのは嫌か?」 「だって……っく、そんなの、無理に決まってるから……! オズ、週刊誌に叩かれて、その内俺が面倒臭くなって、捨てるんだ……!」  オズが立ち上がって、宝物を抱くように俺を柔らかく抱き締める。 「そんな事はしない。いつまでもお前を愛している、ウィルヘルム」 「ひっく……うぐっ……!」  俺はオズに抱き付いて、身も世もなく号泣してしまった。     *    *    *  翌日、俺たちは朝イチで役所に婚姻届を出しに行った。オズの写真を撮ったパパラッチはしこたま殴られて、カメラもグシャグシャに壊されていたけど、傷害で訴えられるかもしれなかったから、その前に先手を打った。俺はリムジンの中で、包帯に血の滲むオズの拳を、両掌に包み込んだ。 「全く……アンタ、無茶苦茶だよ。喧嘩慣れしてないと、下手したら、骨が折れるんだぞ」 「腕の一本や二本、お前を助ける為なら惜しくない」  オズは嘘を吐かない。それは本心なのだろう。俺はくすぐったくて、言葉にはせずに包帯の上に口付けた。ホテルの部屋に戻ると、ドアを閉めるなり抱き竦められて口付けられた。 「んんっ……は……」  今度はオズが積極的に、舌を口内で暴れさせる。引き出され、甘噛みというには強めに噛まれて、思い切り吸われる。興奮している証に、オズの息が荒い。添い寝する俺に手を出さなかった時は、もう枯れてるのかなと思ったけど。 「ビリー……ベッドに行こう」 「うん」  キングサイズのベッドに乗ると、俺たちはもどかしく互いの衣服を脱がせ合った。全裸になって、シーツに潜り込み肌を合わせる。飽きるほどやってきた事なのに、今までにないほど、俺は酷く感じていた。これが、サムが言ってた、本当の意味で『愛し合う』って事なんだ。ベッドでまた優しく口付けられて、角度を変えはむはむと唇を食まれる。こんな優しいキス、初めてだった。 「ビリー……愛している。ビリーも、言ってくれ」  素面じゃ言えない台詞だけど、熱に浮かされた俺は囁いた。 「んっ・オズ、好き・大、好き……っ」  下腹から脳天まで快感が抜けて、俺はしゃくり上げて涙を零す。こんな風になったのは初めてだ。今までさほど気持ちいいと思った事はなかったけど、オズとするのは依存してしまいそうなくらい、心も身体も心地良かった。オズが、涙を、瞼を、舌で転がす。 「んっ……く」 「大丈夫か? ビリー」  俺の余りの乱れように、オズが心配そうに、頬に触れてくる。その大きな掌に頬擦りを一つして、俺は薄らと睫毛を上げた。 「オズ……俺、アンタのものになったか?」 「ああ。お前は私のもので、私はお前のものだ」  その言葉に、俺は願いが叶ったのだと知る。願いとは、叶わない祈りだと思っていた。でもオズが、違うのだと教えてくれた。     *    *    *  一週間後、各週刊誌の表紙を、オズの顔写真が彩った。見出しには『最後のイケメン、オズワルド社社長、ついに結婚!』、内容にはオズの直接取材のインタビューが載っていた。 『"ええ、第一印象で、もう妻に惚れていましたね。これからは、目移りする事なく、妻一筋です。" オズワルド氏は柔らかな笑顔で語ってくれた』  俺はその記事を隈なく読んで、ワナワナと肩を震わせていた。ブッチは立派な銀の鑑札を首から提げて、俺の膝の上で腹を見せて眠っている。オズはソファの隣で、微笑んでいた。 「ちょっと……オズ! これ何だ!?」 「隠すから追い掛けられるんだ。こちらから公表してしまえば、一時の好奇心だけで、それ以上騒がれる事はない」 「だからって……ここまで明け透けに語らなくても!」 「私の妻の座を狙う者は、意外と多いんだ。この先、お前が嫌がらせされたりしないようにとの配慮もある。これだけベタ惚れだと知れば、悪い虫も散っていくだろう」  そっか。大金持ちのイケメンだもんな。俺は頬を上気させた。 「でも……こんな記事のあとに、パーティで紹介されたりする俺の身にもなってくれよ……」 「大丈夫だ。ビリーはこの記事の通りに、美しい。誰もお前を笑う事は出来ない。私がさせない。お前は、私が一生守る」 「う……」  俺はますます顔を紅くした。オズが優しく口付けてくる。 「今日も良いか? ビリー」  難点と言えば、馬鹿がつくほど真面目なオズが、毎回俺に許可を求めてくる事ぐらいだった。 「もう……訊かなくて良いって、言ってるだろ!」  真っ赤になって喚くと、オズがクスクスと肩を震わせる。 「ああ……そうだったな」  ソファでもつれ合って口付けを交わし、やがて横抱きにされてベッドに運ばれる。待つのは、めくるめく愛の営みだ。俺はもう、場末のハッピーボーイではなかった。文字通りの世界一幸せな男の子、ハッピーボーイなのだった。 End.

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