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第9話 ここに居るのに

「…身体、洗ってきた……」  仕事をしているのか。身体を何度も洗い直し、服を纏って出て来た時には、和真は書斎でパソコンの画面に向かっていた。その背中に恐る恐る声を掛ける。だが、お風呂の前と同じように、和真の方からは何の反応も返っては来ない。それは、まるでそこには誰も居ないというような反応だった。  こそばゆい期待があったのに。和真に自分の力で何かをしてあげられる、と思って嬉しかったはずなのに。もう今ではそんな思いはほんの少しも残っていなくて。今はただ先の見えない不安に押しつぶされそうなだけだった。 「和真……」  せめて振り向いて欲しいのに、呼びかけた言葉さえも宙に浮き。聞こえていないかのように、何の反応も返ってこない。それは完全な拒絶で、思わず亜樹の頬を涙が伝っていく。 「…俺……浮気なんて……して、ないよ……」  嗚咽を抑えた言葉は所々、掠れてみっともない状態だった。 (ただ、喜んで欲しかっただけなのに……)  いつも、和真の負担にしか成れないから。せめて誕生日プレゼントぐらいは、自分でどうにかしたかっただけなのに。 (こんな事になるなんて、思ってなかった……)  全てを拒絶するように向けられた背中に不安になってくる。  もう、要らない、とそう言われているようで。どうしようもなく怖かった。  振り返って、欲しかった。ちゃんと自分を見て、欲しかった。ただただ和真の傍に居たかったから。それ以上に望むものなんて無かったから。 (説教だってちゃんと聞くから……)  だから、いつもみたいに仕方ないなって、呆れたように笑って、名前を呼んで欲しかった。 (……居ない事になんかしてしまわないで)  どうしようもない思いが涙となって溢れ出て、空気を微かに揺らしている。それなのに、和真の眼差しは相変わらず亜樹を向こうとさえしない。 「……ごめん、もう、やらな、い……だから……」  理由は分からなかったけど、それでも和真がイヤなら、もう身体を売ったりしないから。だからせめて振り返って欲しい。  嗚咽を堪えながら繰り返し謝罪する亜樹の頬を、伝った涙がポタポタと落ちていく。部屋の中は静かだった。和真のタイピングの音に加えて、謝罪と引き攣るような呼吸音がしているのに。張り詰めたような静けさがあって、小さなその水音が響いているように感じられる。  その音に混じって、不意に和真の溜息が1つ聞こえた。

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