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3度目のヒート
窓から降り注ぐ暖かい日差しが、古典の授業を受ける生徒たちの眠気を誘う。眠気に抗えず机に突っ伏す生徒の姿は、毎週木曜日、5時間目の恒例となっていた。初老に差し掛かる男性教師は、一度は体裁のために注意するものの、二度目からは諦めて注意することをしない。この先生の声がまた、子守唄のように聴こえてくるのである。欠伸を噛み殺し、ぼんやりと頬杖を付く新垣の視線の先には、小谷の姿があった。
自分は今までこんなにも人を好きになったことがあっただろうかと、小谷の背中を見つめて思う。形のいい丸い頭、艶やかな黒髪、皺ひとつない学生服。ノートを取る手は筋張っていて、可憐さは欠片も感じられない。小柄ではあるが、華奢ではない。可愛らしい顔つきをしているが、声は低い。まさか自分が同性を好きになるとは思ってもみなかった。小谷と付き合い始めてから、もうすぐで半年が経とうとしている。
ヒトの性は男女の他にそれぞれアルファ、ベータ、オメガの計6種類あるのだが、そのことを知っている人間はごくわずかである。新垣は男アルファ、小谷は男オメガにあたる。アルファとオメガにおいてのみ、アルファが性交中にオメガの項を噛むことによって番いという関係が成立する。新垣と小谷は、番いの関係にある。
睡魔との闘いが後半戦に差し掛かった頃、小谷の様子がおかしいことに気付いた。いつもはしゃんと伸びている背筋が、猫背になっている。昼食後の古典の授業だ。生真面目な小谷でも眠くもなるだろう。時間の経過と共に小谷の上体は机に近付いていって、終いには机に突っ伏してしまった。眠気は何処へやら、勿論、授業どころではない。小谷に限って、居眠りなどはありえない。新垣は気が気ではなかった。
授業も終盤、新垣の次に小谷の隣の生徒が異変に気付き、小谷の周りがざわざわし始める。何に対してなのかは分からないが、新垣は妙にイラついていた。そこでようやく先生が小谷の姿を認めた。
「小谷」
教壇を降りた先生が小谷の横で足を止め、コンコンと爪で机を叩いた。居眠りをしている生徒を除いて、クラスメイトの視線が小谷に集まる。そこでようやく新垣はイライラの正体に気が付く。自分以外の人間が、小谷を見るのが面白くないのだ。殊更、小谷を呼び捨てにする教師には殺意に似たような暴力的な感情が湧く。
「どうした、具合でも悪いの?」
「だいじょうぶ、です……」
顔を上げた小谷が、か細い声で答えた。日が入ってきているとはいえ、教室の温度は肌寒いくらいなのに、小谷の顔は赤く、額にはびっしりと玉のような汗が張り付いていた。ただ居眠りを注意するだけのつもりだった先生は、小谷の顔を見てぎょっとしていた。
「保健係……」
係の生徒が返事をするよりも早く、新垣が席を立ち上がる。椅子をしまう余裕もなく早足に小谷に近付くと、小谷がびくりと身体を震わせる。
「どうした、大丈夫か」
新垣が小谷の顔を覗きこむと、小谷は目を真っ赤にさせてボロボロと涙を零れさせる。
「にいがき、助けて……」
新垣の胸に頭を預けると、ぎゅっと学生服を掴んで小刻みに身体を震わせた。一瞬、ふわっと小谷の身体から甘い匂いがして、小谷の異常の正体を知る。恐らくこれは、ヒートの症状だ。
オメガ性は個体差はあるものの3ヶ月に1度発情期を迎える。発情期を迎えたオメガは体内からオメガ特有のフェロモンを放ち、男女問わず周囲の人間の性欲を刺激して子孫を残そうとする習性がある。この習性を、ヒートと呼ぶ。ただし、番いを得たオメガのフェロモンは番いのアルファにしか効果を発揮しなくなる。アルファのみがオメガを番いに出来るのだが、その仕組みは未だ解明されていない。
オメガのフェロモンは、ひとの理性を簡単に狂わせる。新垣は以前、小谷のフェロモンにあてられて自分の意思なく小谷を強姦した。小谷の首筋には、その時に新垣が付けた噛み痕が今尚
くっきりと残されている。新垣が犯した罪の傷痕は、生涯消えることはない。
生きていればおなかが空くように、日中活動していれば夜眠くなるように、番いが相手を求めてやまないは、抗えない本能なのだ。小谷も新垣も、そのことは身を持って知っている。
新垣が小谷のヒートにすぐに気付けなかったのは、小谷がフェロモンの放出を押さえる薬を服用していたからだ。小谷から香る匂いがどんどん濃くなってゆき、新垣の身体は理性を乗っ取られる恐怖に警鐘を鳴らす。小谷が薬を服用していなかったら、こんなものではすまなかっただろう。
「小谷、保健室行こ?な」
香りが強いところーー項に思いっきり歯を立てたい。血が出るまで肉に食い込ませて、その血を啜りたい。今すぐに押し倒して、ひん剥いて、めちゃくちゃにしたい。揺さ振って一滴残らず注ぎ込みたい、孕ませたい。
本能と理性の紙一重で、新垣は小谷の身体を引き離す。
「先生、保健室いってきます」
尚もしがみつこうとする小谷を抱き上げ、逃げるように教室を出た。新垣が向かった先は、保健室ではなく人気のない男子トイレだった。小谷を降ろし、個室の鍵を施錠したところで5時間目終了を知らせるチャイムが鳴る。
「んっ、ふぅ、ハッ……」
新垣は小谷を壁に追い込むと、余裕なく唇にがぶりついた。ガツガツ歯があたり、どちらのものともつかない血の味が口の中に広がる。小谷は新垣の首に腕を回し、懸命に新垣に応える。
「はぁっ、はぁっ、にいがき、にいがき」
切ない声で番いを求め、開放を求めて熱く持て余した身体を新垣に擦り付ける。新垣が膝を太腿の間に割り込ませると、ガクンと小谷の身体から力が抜けた。
「イった?」
新垣に縋りついたまま、小谷はこくこくと頷いた。ガクガク震える足では自立できず、半ば新垣の膝に跨っているような状態だった。
「は、小谷すっげぇいい匂い……」
抱き締められ、首筋を嗅がれて、小谷はくすぐったさに身体を震わせた。新垣から与えられる刺激は、吐息だけでもこんなにも気持ちいい。新垣の体温が心地良くて、離れ難かった。
簡単に身体を引き剥がされ、背を壁に押し付けられる。身体は完全に新垣に服従していて、無抵抗に両手を一纏めに頭上で固定されると、小谷の腰は新垣の膝から浮いた。自由を奪われることに恐怖心はなく、新垣に征服されることに小谷は喜びを感じていた。
新垣の手が小谷の下肢に伸び、邪魔なベルトを乱暴に引き抜いた。その摩擦だけで小谷は達してしまいそうだった。しなやかな身体をビクビクと震わせ、甘い声で喘ぐ。小谷の喘ぎ声が、ますます新垣の我を忘れさせる。小谷のズボンのフックを外して前を寛げると、先走りと愛液とでぐちょぐちょに濡れた下着に手を突っ込んだ。
「んあ!あああ!!」
新垣の手が小谷の性器を握り、数回扱いただけで小谷はすぐに絶頂を迎えた。6時間目開始のチャイムは、小谷の甲高い声に掻き消された。
「はぁ、はぁ、はぁ」
新垣の小谷の手首を掴む力が弱まると、小谷の身体はずるずると壁をつたって滑り落ちてゆく。トイレの床にへたり込み、肩で息をして呼吸を整えた。
小谷を下目に見ながら、新垣は右手に付着した小谷の精液を舐め取る。噎せ返る様な性の匂いに、新垣の意識は朦朧としていた。
下肢に刺激を感じて、新垣はビクンと身体を震わせた。小谷が服の上から新垣の男性器に舌を這わせていた。とろんと蕩けた吊り目と視線がぶつかって、新垣は堪らない気持ちになる。小谷の頭に左手を置くと、小谷は新垣の手に擦り寄った。中途半端に刺激された下肢が、ずくんと疼く。
「小谷、ごめん」
右手でファスナーを降ろし勃起した男性器を取り出すと、それに小谷の顔を近付けさせた。小谷は新垣の意図を察すると、躊躇わずそれを口に含んだ。
「はぁっ、はぁっ」
小谷の髪を撫でながら、新垣は胸を大きく上下させて懸命に酸素を取り込もうとした。閉め切られて澱んだ空気、清掃の行き届いていない不衛生な場所は、こんなにも息苦しい。懸命に舌で奉仕する小谷を愛おしいと感じながらも、それ以上に新垣は物足りなさを感じていた。
「小谷、もっと大きく口開けて」
囁く声で命令しながら後頭部をぐっと引き付けると、う゛、と呻き声を漏らして小谷の身体が強張った。小谷の頭を固定して腰を小谷の顔に押し付けると、小谷が新垣のズボンを掴んで抵抗をする。
「う゛!ぐ!う゛、う゛」
「ごめん、小谷……ごめん」
小谷の頬は苦しさから流れた涙で濡れていた。鼻水を垂らして、せっかくの可愛い顔が台無しになっている。乱暴されてもじっと我慢する小谷の姿は、健気でいじらしい。
小谷の口の中は温かくて唾液と先走りでぬるぬるしていた。狭くて、喉奥で先端を締め付けられるのが気持ちよくて、止められなかった。
「小谷、ごめん。このまま出すよ」
「ぐう゛!あ゛う゛う゛!!」
目を見開いて嫌がる小谷の髪を掴み、喉奥に射精した。
「ん゛!ゲホッゲホッ!!」
一瞬力が緩んだ隙に、小谷の頭が新垣の手を押し返して激しく噎せた。小谷の口から離れても射精は続き、小谷の顔や身体を汚した。
射精を終えて、ようやく新垣の頭は少しクリアになった。ハッとして、小谷の傍らにしゃがむ。
「ごめん、大丈夫か?」
咳き込みながら、こくこくと小谷の頭が縦に揺れる。新垣は小谷の咳が止まるまで背中を擦り続けた。相変わらず、小谷の身体からは甘い匂いがしていた。
「ごめんな、ありがとな」
ようやく咳が収まってきた頃、急に小谷が新垣に抱きついた。新垣は体勢を崩し、トイレの床に尻餅を付いた。
「ちょっ、こら、小谷」
新垣に圧し掛かった小谷は、新垣の唇にキスしようとする。新垣はそれを手で防ぐと、小谷の顔についた精液やら涙やらを指の腹で拭ってやる。
「授業サボってるわけだし、そろそろ保健室行かないとやばいって」
小谷が跨ったまま、中途半端に下ろされたズボンを脱いでいる姿を見て新垣はゾッとした。小谷には、新垣の言葉が届いていない。
「新垣、挿れて」
ぶわっと一気に甘い匂いが拡がり、新垣は再び理性が飛ぶことに恐怖を感じてとっさに小谷の身体を突き飛ばした。背後の壁に背を打った小谷は、何が起こったのか理解が追いつかずにポカンとしている。
「あ……ご、ごめん!でも俺たち一緒にいない方がいいと思うんだ。先生呼んで来るから待ってて!本当ごめん」
新垣は逃げるようにトイレの個室を飛び出した。廊下に出ようとして、自分の身形に気付く。小谷が追ってこないことを確認しながら服装を正すと、後ろ髪引かれる思いでトイレを後にしようとする。
「ゲェ……」
後方で、ビチャビチャという嫌な音が聞こえて足を止めた。ゲホゲホと軽い咳が聞こえて、小谷の元に駆け戻った。
「小谷!?どうした、吐いたのか?」
便器にぐったりと身体を預けている小谷に駆け寄り、背中を擦る。小谷はくるっと身体を反転させると、ぎゅっと新垣にしがみ付いた。そして、挿れて挿れてと執拗にねだる。
「駄目だよ、お前具合悪いんだから」
「自分で吐いたから……」
「は?」
「喉に指入れて、自分で吐いた」
何のために、と聞こうとしてハッとした。気付いたときにはもう遅かった。先程とは比べ物にならないくらい、濃い匂いが充満していた。
「薬、利いてたから挿れてくれなかったんでしょ?ねぇ、今匂いする?挿れてよ、にいがき……」
トイレの蓋を勢いよく閉めると、カン、と陶器の音が鳴り響いた。そこに小谷の身体を押し付けると、小谷が笑ったような気がした。
くらくらした頭で、番いはまるで洗脳だと新垣は思う。今でこそ小谷を愛おしく思うし、小谷も、自分を好いていてくれていることはわかるが、番いになる前は挨拶程度の会話すらない、ただのクラスメイトだった。
ポケットに入れていたゴムを装着すると、小谷の首を押さえつけ、腰を上げさせて躊躇いなく挿入した。
「んっ!あっ、あっ、あ゛ッ、にいがきッ、あ゛!」
襟を力任せに引っ張って項を露出させ、腰を振りながら、古傷を上書きするように思い切り項に歯を立てた。項を噛むと締まりが良いから、執拗にそこばかりを責める。舐めたり吸ったりすると、小谷は甘い声で喘いだ。
「あっ、あっ、んっ、んっ、ん……」
だんだん小谷の身体から力が抜けていき、振動で便器からずり落ちそうになる。項は小谷の、オメガの弱点らしく、触られると力が抜けると以前小谷が言っていた。足元は、小谷の精液でドロドロになっていた。自分本位で小谷の身体を揺さ振り、吐精すると、一旦抜いて意識を飛ばしかけている小谷を壁に追い込み、挿入する。
「あっ、あっ……」
小谷は身体をガクガクと震わせながら、掴まるところを求めて壁に手を這わせた。薄い仕切りが、ガタガタと音を鳴らす。新垣が後ろから抱き締めると、ようやく小谷の身体は安定した。胸の下に腕を入れて身体を支えながら、もう片方の手で前を握るとすっかりと硬さを失っていた。小谷の身体は、射精しなくても気持ちよくなれることを新垣は知っていた。緩く前を扱きながら小谷の項に舌を這わせ、キスをした。体力を失った状態で緩く、長く続く快楽は小谷にとっては乱暴に扱われるよりも苦痛だった。
自分と小谷以外の人の気配を感じて、新垣は動きを止める。小谷の荒い息遣いに混じって、微かにだが足音が聞こえる。
「にいがき?」
「シッ」
小谷の口を塞ぎ、新垣自身も息を殺した。新垣の聞いた足音は、やはり気のせいではなかった。ぺたぺたと階段を上ってくる足音はスリッパなのだろうか、少しずつこちらに近付いてくる。
ここで新垣は、個室のドアが開けっ放しになっていたことにようやく気付いた。だがもう遅い。今から閉めたのでは、音で気付かれてしまう。だが、ドアを開けっ放しにしておいたことが功を奏したらしい。トイレの入り口で低い男の声が小谷と新垣の名を読んだが、中まで入ってくることはなかった。
遠ざかる足音を聞いていると、ズンと小谷の身体が重くなった。どうやら気を失ったようだ。いつの間にか甘い匂いは消えていて、一旦ヒートが落ち着いたことに新垣は安堵した。
腰を引いて小谷の身体から萎えた自身を抜くと、ポタポタと何かが滴り落ちた。下を見るとそれは真っ赤な血痕で、新垣は一瞬ぎょっとする。オメガは、定期的に月経がない代わりに性交直後に排卵するらしい。これもヒートと同様、アルファやベータには見られないオメガの特徴だ。こればかりは、何度見ても慣れそうもない。
「小谷、小谷」
何度名前を呼んでも小谷が目を覚ます気配はなく、新垣は一先ず小谷を便器に座らせた。小谷の身体を綺麗にして、それから軽くトイレ掃除をする。小谷の項には痣や傷ができて痛々しい。新垣は毎度、情事の後に小谷の項を見ては心を痛めていた。のみならず、今回は襟を無理矢理引っ張ったせいで締めたような赤い痕が付いていて、ワイシャツの一番上のボタンが取れかかっていた。学ランには精液がこびりついていて、黒に白だからよく目立っていた。新垣は汚れた学ランを脱がせると、代わりに自分の学ランを羽織らせた。ズボンも下着も汚れてしまっていたが、替えがないのでそのまま履かせる他なかった。蒼白い顔で眠る小谷を見つめていると、ざわざわと心が騒ぐ。このまま目を覚まさなかったらどうしようと、いつも考える。
耳が痛いほどの静寂の中、バイブ音が鳴り響いた。ポケットからスマホを出すと、友人の島田から着信が入っていた。出る気がしなかったが、あまりにしつこいので観念して電話を取ることにした。
「はい」
「はい……じゃねーよ、ガッキー今どこいんの!?」
応答して耳に当てると、いきなり画面越しに怒鳴られてげんなりする。
「南校舎の4階。男子トイレ」
「何でそんなところに?……小谷は!?小谷は一緒?」
「うん、そうだけど」
「はー……よかった、お前ら行方不明で探されてるぞ」
「うん、そうだと思った」
「そうだと思ったって……お前、全然携帯繋がんないし心配したんだからな」
「そっか、悪かったな。心配かけて」
「お前……全然悪びれてないだろ。まぁいいや。担任カンカンだからな、覚悟しとけ」
「おー」
「じゃあな」
「ん、ありがと」
通話が切れて液晶画面を見ると、島田や他のクラスメイトからも何件もの不在着信やメッセージが入っていた。島田は何も聞かずに電話を切ってくれたけれど、先生相手にはそうもいかないだろう。島田からの電話でこの場所を動く決心がついた新垣は、小谷を背負うと物理的にも精神的にも重い足を引き摺って保健室へ向かった。
島田が言っていた通り、新垣と小谷の失踪はちょっとした騒ぎになっていた。新垣が保健室に顔を見せると、常駐している保健の先生に名前を確認され、すぐに職員室へ通報された。ベッドを借りて小谷を寝かせ、布団を掛けたタイミングで担任が保健室のドアを開けた。担任の話によると、6時間目手の空いている教師総出で捜索に当たっていたようで、新垣と小谷の保護者にも連絡が入ってしまっているらしい。馬鹿正直に小谷とヤってましたとは言えず、小谷が気持ち悪いと言うからトイレに篭っていたという事で新垣は話を通した。小谷のせいにするのは心苦しかったが、吐瀉物で制服を汚したと言えば、新垣が学ランを着ていないことにも説明が付いて都合が良かった。それで一応は納得したけれど、誰か先生を呼びに来るべきだったと、新垣の対応には指導が入った。小谷については、大事にしないための言い訳として昨晩は夜更かしをしていて今日は朝から具合が悪く、ご飯が食べられなかったらしいことにしておいた。
授業は全課程終了して放課後を迎えていたので、小谷の目が覚め次第帰宅しても良いことになっていた。小谷が眠っている間に教室へ荷物を取りに行き、帰り支度を万全にして小谷が目を覚ますのを待った。冬の日暮れは早く、あっという間に外は真っ暗になる。時刻は午後7時に迫り、職員室に戻っていた担任が再び保健室に姿を現した。
「まだ小谷は目を覚まさないのか」
小谷を心配しているというよりかは、困惑したような口ぶりだった。もう遅いからと担任は新垣を先に帰そうとしたが、新垣は断固としてそれを拒否した。
「小谷はひとり暮らしだからなぁ。ご家族に来てもらうにも距離があるし」
「俺小谷ん家知ってるから送って行きますよ」
新垣が背負って帰ると申し出るが、道中何かあったら心配だとすげなく却下される。新垣が親に迎えに来てもらうと提案したが、担任が小谷を家まで送ることで話は落ち着いた。そうと決まればと、担任が小谷を起こそうとする。つかさずそれを新垣が止める。
「先生、寝かせておいてやってくださいよ!さっきまで本当に顔色が悪かったんですから!!俺がおぶって行きますから」
そこまで言うならと、担任は無理強いをすることはなかった。今でこそだいぶ良くなったが、保健室に運ばれたばかりの真っ青な小谷を見ている担任には、本当は起こすことなんてできなかったのかもしれない。
小谷が目を覚ましたのは、新垣が小谷の祖母と電話をしている時だった。担任の車で小谷の住むアパートまで送ってもらった新垣は、布団を敷いて小谷を寝かせるとまず実家に電話を入れた。叱られることは覚悟の上だったが、やはり電話を取った母から心配かけさせるなと怒られた。小谷を一度だけ家に引っ張って行ったことがあり、小谷と面識があった母は、説教は程々に小谷の心配をしていた。小谷のことは大丈夫だからとだけ伝えた。
「今日小谷ん家泊まってくから。着替えと、それから何かご飯持って来てくれると嬉しいんだけど」
新垣が怖々頼むと、小谷がひとり暮らしをしていることを知っていた母は少々ごねたが承諾してくれた。
電話を切ると、その足で小谷の家に電話を繋いだ。どうせ小谷のことだから自分から掛けることはないだろうし、学校から連絡が行ってしまっている以上早い方がいいと思った。5コールほどで、電話が繋がった。
「はい、小谷ですが」
「あ、こんばんは。新垣です」
電話を取ったのは、小谷の祖母だった。簡単に挨拶を済ませると、早速本題へ入る。
「あの、今日のことはすみませんでした。学校から連絡が行ってると思うんですけど、本当は小谷がヒートになっちゃって、俺が、その……無理矢理してしまって、その、えっと……。本当にすみませんでした」
「あら、そうだったの……。大変だったでしょう」
「いえ、そんな!滅相もないです」
歯切れ悪く口ごもる新垣に対して、大人な受け答えをする小谷の祖母には、まさに年の功という言葉に相応しい貫禄があった。事情を知る人にようやく本当のことを話せることに新垣はホッとした。
「これからもたくさん迷惑かけるでしょうけれど、春輔のこと、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ」
ツンと袖を引っ張られ、そちらに目を向けると、新垣の袖を掴んだ小谷が寝惚けた目でじっと新垣の顔を見つめていた。
「あっ、小谷が目を覚ましたんで代わります。小谷、おばあさん」
「は?え、もしもし」
無理矢理小谷の耳に押し付け、小谷にスマホを持たせた。たどたどしく喋る小谷を見つめながら、ようやく新垣は一息つけた。
「わかってるよ。……いいよ、来なくて!!」
急に機嫌が悪くなり、声を荒げる小谷に新垣は驚いた。
「キャッチ入ったから切る。……新垣、電話」
「え、ああ……」
電話を切りたい口実なのかと思ったら、本当に着信が入っていた。スマホを耳に押し当てながら玄関へと向かう。
「小谷、ちょっと出るね。すぐ戻るから」
着信は母からで、到着したことを知らせるものだった。外に出るとアパートの駐車場に見覚えのある車が止まっていた。
「母さんごめん、ありがと」
「全く、この子は。先生からは連絡あったけど本人はなかなか帰って来ないし連絡寄越さないんだから」
「悪かったよ」
口ではそう言うものの、母はあまり怒ってはなさそうだ。後部座席に積まれていた荷物を下ろし、母を見送ってから小谷の元へと戻った。
「小谷、食欲ある?今日うち肉じゃがだったみたい。まだ温かいよ」
新垣が部屋に戻った時、小谷は横になって深く布団を被っていた。
「新垣、ごめん。今日は帰ってくんない?」
「……ん、わかった。ちゃんと飯食えよ」
調子が悪くて、ひとりでゆっくり休みたいのだろうか。顔すら見てもらえないことに新垣は少なからずショックを覚えた。
まだ温かかったので冷蔵庫に入れるわけにもいかず、タッパーに入った肉じゃがとラップで包まれたおにぎり、豚汁の入った保温ボトルは卓袱台の上に置いた。
「……今日は迷惑かけてごめん」
靴を履いていると、背後で小さく呟く声が聞こえた。
「別に迷惑とは思ってないけど。もしかして、帰れって言ったのはそのことに関係してる?」
新垣は小谷を振り返るが、相変わらず深く布団を被っていて表情が見えない。
「だって新垣が言ったんじゃん。俺たちは一緒にいない方がいいって」
「それで怒ってるの?」
「別に怒ってはないけど……。でも、その通りだと思うからもう帰って」
新垣は靴を脱ぎ捨てると、大股で小谷に歩み寄り枕元にどっかりと腰を下ろした。小谷は少し布団を押し上げ、新垣を盗み見る。
「そういうことなら帰らない。なぁ、小谷。ちゃんと話しよう?」
小谷が応じなかったら、無理矢理布団を剥がしてでも話をさせるつもりだった。それくらい、新垣は小谷の言い分に腹を立てていた。恐る恐る小谷が顔を出し、応じる意思を示してくれたことに新垣は一安心した。
「大丈夫か?別にそのままでもいいけど」
「これくらい平気だよ」
小谷はゆっくりと身体を起こすと、その場で小さく伸びをした。
「おなか空いてる?それとも先にシャワー浴びる?」
「ごはん。もうおなかペコペコ」
「ん。じゃあ支度するからちょっと待ってて」
新垣が席を立つと、小谷はずりずりと卓袱台の前に移動して、卓袱台の上にあったリモコンでテレビを付けた。寝起きが悪い小谷は、卓袱台に両肘をついて卓袱台に身体を預けるような形でぼんやりと液晶画面を眺めていた。
肉じゃがを皿に移して温めなおし、豚汁はそのまま器に移し替えた。シンク下の収納から箸を2膳出し、それらを卓袱台の上に並べる。新垣が気を利かせて小谷から少し離れた位置に座ると、小谷がぴったりと距離を詰めて来た。
「おばさんのご飯美味しいから、嬉しい」
「今度直接言ってやりなよ。母さんも喜ぶから」
以前と変わらずに接してくる小谷に、新垣は少なからず違和感を覚え、どう切り出そうか考えあぐねていた。
「なぁ、小谷」
「ん?」
「小谷は、本当に俺たちは一緒にいない方がいいと思う?」
「……うん」
ポツリと返事をした小谷は、そのまま押し黙ってしまった。テレビの音だけが虚しく新垣の耳に届く。ここで新垣は、ようやく違和感の正体に気付く。小谷はあえて、何事もなかったふりをしていたのだ。
「どうしてそう思う?」
「だって、薬が全然効かなかった。このままじゃまた新垣に迷惑を掛ける」
「別に、薬が全然効いてなかったわけじゃないだろ。近くまで行かなきゃ全然気付かなかったし。それに、さっきも言ったろ?迷惑とは思ってないって」
俯いた小谷の首筋には、新旧の傷痕がよく目立っていた。白くて男にしては細い首には不釣合いなそれに、新垣の視線は釘付けになった。仄かに、小谷の首筋からは甘い匂いがしていた。
「新垣が思ってなくても俺が嫌なんだよ!新垣にはこんな苦しみ味わわせたくなかったのに」
新垣には、小谷の言う苦しみは少しもわからなかった。茶碗と箸を置き、小谷の肩を抱き寄せて髪にキスをした。ビクリと身体を強張らせた小谷は俯いたまま動きを止める。わずかに震えている手から箸と茶碗を取り上げると、卓袱台に戻してテレビを消し、卓袱台を遠ざけた。優しく小谷を抱きしめると、前のめりに小谷が抱き付いてきて肩を震わせて泣いた。小谷は気付いていないようだが、どんどん香りが強くなっている。
小谷には、オメガである自分を卑下している節がある。両親とは疎遠になり、ほとんど中学校は通っていなかったという。それを考えれば、仕方のないことなのかもしれない。ずっと、消えない傷となって小谷の心に残り続けるのだろう。だが、それと新垣のことは話が別だ。小谷は何でもかんでもひとりで背負い込みすぎるのだ。小谷と番いになったことも、小谷のヒートに中てられたことも、乱暴したことを責められこそすれ、小谷は何も悪くない。どう言えば、うまく伝わるのだろうか。新垣は小谷の背中を擦りながら考える。
「なぁ、小谷。こんなこと言うのは不謹慎かもしれないけど、俺は小谷の苦しみを少しでも理解できて嬉しかったよ」
この言葉の意図は他にあって、新垣の心のうちを表すには不適切なものだった。新垣にはやはり、小谷の苦しみを想像することはできても理解することはできない。小谷と番いになったことで愛しさが募っても苦しさを感じたことがない。だが、衝動には抗えないことも事実だ。ヒートがある限り、普通には暮らしていけない。
「俺考えたんだけどさ、ヒートのときは交代で学校休むことにしようよ。そうすれば出席日数も何とかなるかもしれないし。とにかく、うまくやっていこうよ。ずっと一緒にいよう」
これ以上、小谷にひとりで苦しんでほしくなかった。突き放されて、傍にいることを許されないのが怖かった。
小谷は返事をする代わりに新垣の首に唇を寄せると、唇に力を込めてきつく吸った。
「……可愛いことしてくれるじゃん」
顔を真っ赤にした小谷は新垣にしがみ付いてなかなか顔を上げてくれなかった。
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