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それじゃあ、

 先週隣の部屋に人が引っ越してきてさぁ、と貴仁(たかひと)は唐突に話し出した。  それで、と、茂徳(しげのり)は目線で先を促した。 「わざわざ箱入りのタオル持ってさ、隣に越してきましたご迷惑かけることがあるかもしれませんよろしくお願いしますってさ、そりゃもう律儀に挨拶に来たわけよ。今時珍しい若者だよなぁと思ったわけよ」 「若いのか」  茂徳は煙草の煙をふっと吐いて尋ねた。そのどこか甘い香りを嗅ぎながら、貴仁は頷く。 「四月から大学通いって言ってた」 「若いなそりゃ」 「おまえ、もうしっかりおっさんだもんな」  くくく、と貴仁は笑う。  おまえだって同い年なんだからおっさんだろう、その言葉を茂徳は紫煙とともに飲み込んだ。  貴仁は実年齢よりずっと若い。もう三十路だというのに、下手をしたら高校生に間違われることもあるくらいだ。  それに引き替え茂徳は、しっかり実年齢分の貫禄が出てきた。おっさんといわれてもしょうがない。  その違いは生活によってもたらされるのかもしれない。自由奔放、何の枷もなく気ままに生きる貴仁、家庭を持ち、いろいろなものに縛られながら生きる茂徳。――二人の違いは大きい。 「それ、女か?」 「んにゃ。男。真面目な体育会系。でもなんか初々しくて可愛らしいんだよな」  貴仁は茂徳の方を見ないまま、明るい声で言った。そして、その男のことを思い出してふふっと笑った。 「………」  茂徳は無言のまま、煙草を灰皿に押しつけて消した。  相槌がなくとも貴仁は続ける。 「それでな、挨拶があった日からほぼ毎日来るんだよ、そいつ。実家からの差し入れが多かったからおすそ分けですーとか、量販店の場所教えて下さーいとか。今日も来たんだぜ。ピザまん買いすぎたって、もらっちゃった」 「……ふぅん」  茂徳は二本目の煙草に火をつけた。 「もうね、すげぇあからさまなの。真っ赤な顔してがちがちに緊張しちゃって、無理矢理理由つくってさ。だから今日言ってやったんだよ、俺のこと好きなのかって」  そこでやっと、貴仁は茂徳の方を向いた。にやつきながら、茂徳の瞳をのぞき込む。  なんて答えたと思う? とその目は聞いていた。  茂徳は肺いっぱいに煙を吸い込んでから、思い切り貴仁に吹きかけてやった。煙草は吸わない彼に対しての嫌がらせだ。  貴仁はけほけほと軽く噎せた。 「……何て言ったんだよ、その若者は」  茂徳は貴仁の望む言葉を言ってやった。 「……ん、『あなたは僕を好きになるべきですっ!』」 「はぁ?」 「ははっ…おっかしいの。声かけるだけでも精一杯!って感じなのに、堂々とそうのたまったんだよ」  煙で滲んだ涙を拭いながら、貴仁は心底楽しそうに笑う。 「『半年前、あなたをファミレスで見かけて一目惚れしました! 声もかけられなくて、でもあなたのことを知りたくて、ごめんなさい、あとをつけたりしてしまいました!』」  芝居がかった風に手振りをつけて、貴仁は男の言葉を再現した。 「『あなたに近づきたくて、この近くの大学を受けました! それで、ちょうどあなたの隣の部屋が空きにでてて…またとないチャンスだと思って…!』」  完璧ストーカーだよなこれ、しかもかなりやばいヤツ、と貴仁は呟いた。  その意見には茂徳も同意だ。ただ、貴仁の表情がいやに楽しそうなのが引っかかった。 「『僕はあなたが好きです! 愛しています! あなたを誰よりも大事にして、幸せにしてみせます!』」  貴仁はそこまで言うと、ベッドに投げ出していた体を起こし、立ち上がった。  部屋の中は薄暗く、明かりは小さなルームランプと煙草の火だけだ。その中にうっすらと浮かぶ貴仁の白い裸体は、ひどく艶やかだ。  貴仁はベッドに腰掛ける茂徳の前に立ち、真顔で言った。 「『だから不倫なんかやめて、僕と付き合って下さい!』」  茂徳はわずかに眉を動かしただけで、何も言わない。ただじっと、真意を探るように貴仁を見つめていた。 「どれだけ俺の後つけたんだろうな? 俺が肉まんよりピザまんが好きだってことも、おまえとのこともしっかり知っててさ。こんな激しいストーカーって俺初めて」  貴仁はまたにやけ顔にもどり、茂徳の膝の上に跨ぐ格好で乗り上げた。 「きっと今も俺の部屋におまえが来てるって分かってんだぜ。さっきまでの俺の喘ぎ声も聞こえてるかもな。あ、俺がどこで一番感じるかも知ってたりして」  茂徳はまだいくらも吸ってない煙草を消して、その手を貴仁の臀部に這わせた。情事の名残か、そこはしっとり汗ばんでいて熱っぽい。 「それで、おまえは何を言いたいんだ?」  茂徳はまどろっこしい駆け引きは嫌いだった。  核心を突くと、また貴仁から笑みが消えた。 「不倫男とストーカー、どっちだったら俺は幸せになれるんだろうね」  くしゃりと歪んだ顔で、貴仁は訊いた。  茂徳は答えなかった――いや、答えられなかった。  少なくとも不倫男とでは幸せになどなれないことは分かっていたが、彼にそれを言う資格はないのだ。 「別れてよ」  ぽつりと貴仁が呟いた。 「………誰と?」  妻か、貴仁か。  貴仁はくっと口角を上げた。 「そんなの、決まってるだろ?」  貴仁は茂徳の唇にキスを落とす。煙草の苦みを味わうように、ねっとりと舌を絡めた。 「これが答えか?」  茂徳はそう訊くしかできない。何か言える立場ではない。 「ああ。さよならだ」  どこかふっきれたような貴仁の笑顔は、後悔したくなるほど綺麗だった。

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