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Trick or Treat!
「トリック・オア・ トリート」
にっこり満面の笑みを浮かべた神原は右手を差し出した。節くれだった、大きい手のひらは紅葉に向けられている。
十月三十一日。
世間一般で言うハロウィンだ。娯楽に飢えている学園生徒にはもってこいのイベントである。せめて学校が休みの日であれば、一日中部屋にこもるという選択肢で回避できたのだろうが、あいにくと平日のド真ん中にぶち当たるという不運。
手のひらを冷たい目で見つめる紅葉は、げんなりした表情で口を開いた。
「 なんですかぁ」
「ハロウィンだからさ。言っとかないとって思って? ほら、Trick or Treat」
「発音よくしてもダメだから」
かっこいい顔に似合わず頬を膨らませてぶーたれる恋人さんに溜め息を吐いた。妙なところで子どもっぽい彼と付き合い始めてから自身の精神年齢がさらに高くなった気がする。あくまでも気がするだけであり、決して高いとは言えない。
お付き合いするまで紆余曲折あったが、無事に恋人同士となった暁には学園全体が喜んでくれた。会計親衛隊隊長はハンカチをかみ締め神原を睨みつけていた。お百度参りでもしそうな勢いがあった。親衛隊のアフターフォローは大変だったとだけ記しておく。
「……あ、もしかして、イタズラ期待してる?」
「バッカじゃないの」
ひらめいた、と目を輝かせた神原を一刀両断する。
「え、そんな拒否んなくても。なんか、紅葉君さぁ、付き合い始めてから俺に冷たくネ?」
「気のせいでしょ。だぁれにでも優しい博愛主義の会計様は幻だったってこと。それがイヤなら別れましょーか?」
「は? 別れないけど」
うすら笑みを浮かべて言葉を紡げば、食い気味に否定された。
目がギラリと強い独占欲を宿し、紅葉を捉える。木目の机の上を踊っていた指先を絡めとられて、引き寄せられた。
「冗談でも、そんなこと言って欲しくないナァ。俺、どんだけ紅葉君に焦がれてたか知ってるよね」
「……はあい、ごめんなさい」
どろり。甘ったるい声音と、強すぎる視線に耐えられず、顔ごと逸らして素直に謝る。
どこまでも優しくて甘い先輩だけど、時折見せる独占欲がとても怖い絡め取られて、溺れて、息ができなくなってしまいそうで、何でもかんでも甘やかそうとするからこの人がいなくなったら本当に生きていけなくなりそうで、怖かった。
「俺はさぁ、やっと紅葉君と両想いになれたんだから一緒に楽しめるイベントは一緒に楽しみたいんだよね。外出許可も厳しくてなかなか取れないからお外にデートにも行けないし」
「 だから、ハロウィン?」
「そ! だから、トリック・オア・トリート」
教室に居れば誰彼かまわず「とりっくおあとりーと」とふざけた言葉を投げられる。
学園中の浮かれた空気に辟易して、避難場所として使わせてもらっている図書館に逃げ込んだのだ。
遠くのざわめきから隔絶された雰囲気を壊したのは、目の前でにこやかに微笑う恋人さん。
ん、と懲りずに手を差し出してくる神原にまた溜め息が出た。
カーディガンのポケットをごそごそとあさって、差し出された手のひらにひとつお菓子を落とした。
「……ってこれ飴玉じゃん!」
「そぉだよぉ? 飴ちゃんだって立派なお菓子でしょ?」
「紅葉君は絶対お菓子持ってないと思ったのに……!」
心底悔しそうにする神原に、紅葉は満面の笑みだ。してやったり、ざまあみろ。いつもからかわれる身としては心の内が少しばかりすっきりする。
「がっかりした?」
にぃんまり。悪い顔で嗤った紅葉に、口の端を噛む。とうめき声を上げて肩を落とし、すぐそばにあった椅子に腰を落ち着けた。ぎい、と傷んだ音が静かな図耆館内に響く。
図書館の奥の奥、小さな学習部屋が紅葉の秘密基地だ。司書には許可を取っているし、特別に鍵も貰っている。扉を閉めて鍵をかければ紅葉だけの部屋ができあがる。誰にも会いたくないとき、気持ちが沈んでいるとき、ひとりきりで紅葉が息を殺す秘密の部屋。
卒業まで誰にも教えることなく過ごすはずだったのに、たった一度の凡ミスで神原に見つかってしまった。
紅葉は学習部屋の中、扉を開けた外側に置いた椅子に神原が座っている。学習部屋は机が大きく、ふたり入れないこともないが青年がふたりとなればやはり狭苦しく感じてしまう。
「そんなに言うならオマケしてあげますよぉ」
はい、ともう一個飴玉を落とした。ブドウ味だ。
「なんで飴? もうちょっとハロウィンらしい チョコとかなかったの?」
「だって、これ僕が用意したわけじゃないですもん。朝一でアキが三袋くらい押し付けてきて」
「……やっぱ俺、紅葉君のいとこキライ」
苦虫を噛み潰した神原は、これまた苦々しく呟いた。
夏休み明けに転入してきた従兄弟と神原の仲は最悪だ。顔を合わせれば嫌味の応酬、お互いの姿を認めれば呪詛の吐き合い。これといった何かがあったわけでもないのだが、同属嫌悪なんだかなんなのだか、馬が合わないにもほどがあった。
「紅葉君、俺のこと好きなんじゃないの? もうちょっと優しくしてよー」
「優しさを求めるなら他所へどうぞ」
「……優しくない」
あ、いいことを思いついた。ちょっとしたイタズラ心だ。
「トリックオアトリート」
きょとん、と目を丸くした恋人さんに、白い手のひらを差し出した。
「だって今日はハロウィンなんでしょ? 僕だって、それ言う権利がありますよね。お菓子をくれなきゃイタズラするぞ、でしたっけ?」
童話に出てくる猫のように口角を上げて笑った。とんでもなく悪い顔をしている自覚がある。
いつも澄まし顔の神原を驚かせることができた達成感に胸がいっぱいだ。
きっと、神原はお菓子を用意していない。自分が言われるとは思っていないからだ。誰
もが恐れ戦く風紀委員長様。自分が言っても、言われるとは思わなかっただろう。
「ほら、ね、早くしないと風璃さんにイタズラしちゃいますよー?」
ぬばたまの髪に、琥珀色の瞳が煌いた。白い花の冨からは想像できない悪い顔。
金髪チャラメガネから、家庭の事情で真面目ちゃんに転身した紅葉は、そんな表情すらも様になっていることを自覚していない.
知らず知らずのうちに恋人さんの燻る熱を燃え上がらせてしまった紅葉は、すぐに後悔することになる。
「残念なことに、お菓子持ってないんだよなぁ」
「ふふふっ、じゃあ、イタズラしちゃいますよ?」
「――喜んで」
「へっ、」
うっそりと、余裕の表情を浮かべた神原は挑戦的な瞳で紅葉を見つめる。
熱く滾った感情をドロドロになるまで煮詰めて、砂糖と蜂蜜を混ぜ込んだような視線に、背筋が粟立った。
あ、これはマズイやつだ。
瞬時にして選択肢を間違えt琴似気づく。
獲物を追い詰める肉食獣が如く、音もなく立ち上がり長い脚で一歩前に、高い背を屈めて学習部屋の中に入ってきた。無意識に後ろへ下がろうとした背中は机の角にぶつかった。
「悪戯、してくれるんでしょ?」
トン、と。椅子に座った紅葉を長い両腕が囲う。逃げ場がない状況に、頬が引き攣り、冷や汗が細い顎を伝う。
せめて、誰も来ないことを祈った。
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